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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第四編 治安維持法と政治運動

第四章 ゾルゲ事件


第一節 検挙と事件の内容

 一九四二年六月司法省は、「国際諜報団事件」の取調べが一段階し、その中心分子たるリヒアルト・ゾルゲ〔ドイツ人、ソ連国籍〕、ブランコ・ド・ヴーケリッチ 〔ユーゴスラヴィヤ人〕、宮城与徳、尾崎秀実、マックス・クラウゼン〔ドイツ人〕ら五名にたいし、国防保安法・治安維持法・軍機保護法各違反等の罪名で予審請求の手続きをとったことを発表するとともに、「本諜報団はコミンテルン本部より赤色諜報組織を確立すべき旨の指令を受け昭和八年秋我国に派遣せられたるリヒアルト・ゾルゲが、当時既にコミンテルンより同様の指令を受け来朝策動中なりしブランコ・ド・ヴーケリッチ等を糾合結成し爾後順次宮城与徳、尾崎秀実、マックス・クラウゼン等をその中心分子に獲得加入せしめ、その機構を強化確立したる内外人共産主義者より成る秘密諜報団体にして十数名の内外人を使用し結成以来検挙に至るまで長年月に亘り、合法を擬装し巧妙なる手段により、我国情に関する秘密事項を含む多数の情報を入手し、通信連絡その他の方法によりこれを提報しいたるもの」と説明した。これが「ゾルゲ」事件について公表された最初のものであった。被検挙者の中に当時著名なジャーナリスト・中国問題の専門研究者であり近衛文麿の側近の一人であった尾崎秀実、衆議院議員四回当選・総理大臣秘書官・汪政府顧問等の経歴をもつ犬養健、外務省および内閣嘱託の西園寺公一、「盟邦」ドイツの大使館内に重要な地位をえていたゾルゲその他のドイツ人などがふくまれていたことから、この事件の発表は支配層内にも大きな衝撃を与えるものであった。

 関係者の検挙は四一年九月、警視庁特高一課と外事課の共同による和歌山県下での北林夫妻の検挙にはじまり、一〇月中旬に尾崎、ついでゾルゲらが検挙され、ひきつづき四二年四月までに合計三五名(うち外国人四名、女性は六名)の被検挙者が出た。内務省警保局によれば、このうち「諜報機関員」一七名、「情を知らざる者」一八名であった。ゾルゲの訊問調書によれば、彼の直接の協力者は尾崎・宮城・ヴケリッチ、しばらくのあいだギュンター・シュタイン(積極的同調者)、技師としてクラウゼンだけであったという。「諜報機関員」一七名の氏名、年令、職業、検挙年月日は左の通りである。

       年令 職  業  検挙年月日
北林 とも  五七 洋裁業   四一・九・二八
宮城 与徳  四〇 洋画家     一〇・一〇
秋山 幸治  五三 無職      一〇・一三
九津見房子  五三 会社員     一〇・一三
尾崎 秀実  四二 満鉄調査部嘱託 一〇・一五
水野  成  三三 坂本記念会支那百科辞典編集員 一〇・一七
リヒアルト・ゾルゲ  四八 フランクフルター・ツアイトング日本特派員 一〇・一八
マックス・クラウゼン 四四 螢光複写機製造業 一〇・一八
ブランコ・ド・ヴケリッチ 三八 アヴァス通信社通信補助員 一〇・一八
川合 貞吉  四二 会社員(大日本再生製紙) 一〇・二二
田口右源太  四〇 ロープ原料商     一〇・二九
アンナ・クラウゼン 四三 無職(マックス・クラウゼンの妻) 一一・一九
山名 正美  四一 会社員(東亜澱粉)  一二・一五
船越 寿雄  四一 支那問題研究所長 四二・一・四
河村 好雄  三三 満州日日新聞上海支局長 三・三一
小代 好信  三四 会社員(博道社洋紙店) 四・一一
安田徳太郎  四五 開業医、医学博士    六・八

 検察側の調査によれば、本機関は、ソ連擁護のためにコミンテルンの手により日本国内に設置され、ソ連共産党中央委員会および赤軍第四本営に直属して日本の政治、外交、軍事、経済等の機密を探知し、これをソ連共産党最高指導部すなわちソ連政府最高指導部に提報していた秘密諜報集団であり、その主要な任務は、日本の対ソ攻撃からのソ連の防衛ないし日本の対ソ攻撃の阻止に役立つ諜報の探知蒐集であり、その中には、一九三三年末ゾルゲの渡日前にソ連首脳から与えられた一般的任務、三五年ゾルゲが報告のため約二〇日間モスクワに滞在した際に上部から与えられた具体的任務、随時無電によって与えられた指令、および対日諜報機関設置後日本国内に発生した重要事件にもとづいて本機関みずから課した任務があった。蒐集した情報を無選択にモスクワに通報したものではなく、豊富適確な資料を集め、これを総合判断して一定の結論を出しそれに意見を付して報告していた。蒐集した主要な情報は三四年七月から四一年一〇月まで一〇〇項以上(約四〇〇件)にわたり、これを無電または伝書使による写真フィルムの手交によっておこなっていたという。無電による発信回数(および語数)は三九年五〇回(約二万三千語)、四〇年六〇回(約二万九千語)、四一年二一回(約一万三千語)にのぼったが、東京の上空をとびかうこれら暗号文の電報は検挙にいたるまで日本の官憲はついに本体をつきとめることができなかった。日本における活動期間は一九三三年から四一年まで約八年にわたっているが、グループが強力な組織となって機能が発揮できるようになったのは三六年の秋ごろからであった。組織のメンバーはすべてどこの国の共産党員でもなく、また諜報活動以外、政治的性質をもった宣伝や組織機能に従事することは固く禁じられており、どんな個人や団体にもけっして政治的な働きかけをしないという方針は忠実に守られたが、ただ一つの例外は、近衛グループの中で対ソ平和政策をとらせるように努力した尾崎の積極的な行動であった。検察側が事実に反してゾルゲらをコミンテルン本部の指令にもとづく諜略組織ときめつけたのは、赤軍やソ連を治安維持法にいう結社とすることができないためであったといわれる。事件後、オットーは四二年にドイツ大使の地位を失い、北京に去った。

 グループを指導していたリヒアルト・ゾルゲは、何代も前から学者の家柄で、第一インターナショナルのすぐれた活動家であり、マルクスやエンゲルスの友人であったフリードリヒ・アルベルト・ゾルゲの孫であるが、父が油田の技師をしていたロシアのバクーで生まれ、のち一家とともにドイツに引きあげ、第一次世界大戦に召集されて軍隊に入り、再三負傷して入院中に社会主義者の感化を受け、独立社会党員としてドイツ革命に積極的に参加し、創立とともにドイツ共産党に入党するとともにハンブルク大学で政治学博士の学位をえた。一九二五年にモスクワに移り、ソ連国籍をえてソ連共産党に入党した(リヤザノフからマルクス・エンゲルス研究所入りを求められたこともあり、ゾンターの名で出した著書「ドイツ帝国主義」は広く読まれ、日本訳もある)。上海で数年間情報活動をおこなったのち、ヒトラーが政権を獲得した三三年の九月にドイツ新聞社の特派員として日本に来た。東京に着いてからは猛烈な勢いで日本研究をおこない、検挙された時には古事記、源氏物語などの英訳もふくめ、千余冊の研究書とみずから作成した多数の精密な統計表が残され、押収されたタイプ原稿はビール箱に二、三杯あったという(司法省の空襲ですべて焼失)。また各地を巡遊して調査研究し、その成果の一部は「フランクフルター・ツアイトング」や「ゲオポリティーク」誌等に発表され、ドイツにおいてすぐれた日本研究者として名声をえていた。一方駐日ドイツ大使(その前は大使館附陸軍武官)オットーの深い信任を獲得し、大使館附情報官として大使館内の最高スタッフとなった(彼らの全情報の約六割はドイツ大使館からえられたものであったという)。こうした専門的知識と精密な調査にもとづいて彼は適確な判断を通報することができた。その代表的な例はヒトラーのポーランド侵入とソ連に対する侵略準備の情報であり、侵略開始の日時まで知らせ(しかしスターリンはそれを無視してしまったという)、また日本が南進策をとり太平洋開戦に戦力を結集しているとの情報を正確に伝えたことであった。そしてこれらの情報の提供にたいして、ソ連最高首脳部からと推定される祝賀、感謝のメツセージを無電でしばしば受け取っていたとゾルゲは書いている。この情報活動は、彼を中心とする国際共産主義者たちが戦争に反対し世界の平和を守るためにおこなったものであり、したがって当時世界における唯一の社会主義国ソ連を帝国主義国家の侵略から守るための闘いが中心となっていた。検事の訊問にたいして、「私をはじめ私のグループは決して日本の敵として日本に渡来したのではありませぬ。また私たちは一般のいわゆるスパイとは全くその趣を異にしているのであります。英米諸国のいわゆるスパイなるものは日本の政治上、経済上、軍事上の弱点を探り出し、これに向って攻撃を加えんとするものでありますが、私たちはかような意図から日本における情報を蒐集したのではありませぬ。私たちはソ連と日本との間の戦争が回避される様に力を尽してもらいたいという指令を与えられたのであります」と答えている。日本の対ソ攻撃の計画が中止され、日本軍の南進作戦が決定的になったあと、ゾルゲは日本における任務はすでに終了したとして、日本を離れて新しい任務につくことについて指令を求めるむねの電報を打電しようとしたが、その電文原稿を執筆した翌朝に検挙された。なおゾルゲは日本にいても党費はきちんと納めていたというが、コミンテルンとは直接の関係はなく、組織的には赤軍第四本部に所属していたらしい。

 尾崎秀実は、多少国士的な漢詩人でありジャーナリストであった父とともに、幼少年期一八年を植民地台湾で送り、若いころから民族問題・中国問題を体験的に肌で接していたが、一高から東大に入学した直後、第一次共産党検挙事件と大震災後の白色テロ事件にあって社会問題の研究に志ざし、大学院に残って中国革命への関心を深めた。大阪朝日新聞社に就職して社会部から支那部に移り、細川嘉六らと中国革命研究会をもったりしたあと、待望の上海支局詰となった。上海では魯迅をはじめ中国の進歩的な知識人たちと交際し中国の文化運動に参加し、在留邦人たちの「日支闘争同盟」などとも密接に結びついた。上海においてアグネス・スメドレーやゾルゲとのむすびつきもでき、社命で帰国したのち、本拠を日本に移したゾルゲと再会し、親密な関係に入った。尾崎は当時すでにすぐれたジャーナリストであり、中国問題の専門家として言論界に重きをなし、また近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内にデスクをもち、秘書官室や書記官長室に自由に出入りしえたし、政界上層部の動向に直接ふれることのできる地位にあった。尾崎にたいする今日の評価はきわめて多様であるが、彼の英雄的ともいうべき努力の中心は戦争を避け社会主義を防衛しようとする必死の抵抗であった。彼はたしかに情報を収集する活動を意識的におこなったが、それも彼のことばによれば政治的な便宜のための手段の一つにすぎなかった。彼がゾルゲに提供したといわれる情報も、新聞社の特派員や在外公館の手に入れる秘密情報と大差ないものであり、むしろ彼は情報収集者であるまえに一個の独立した情報源であり、彼の政治判断や見通しによってゾルゲの活動に協力したのである。彼がゾルゲと深い関係を結んだのも、彼独自の「東亜協同体」論も、日本民族の将来を思いなやんで求めた結果であった。将来ソ連や新中国と提携してゆく場合に予想される日本国内の変革について、彼は労働者階級を主体とする階級闘争によってではなく、もっぱら既成政治勢力内部の工作によって上からなしとげることができるし、またそうあってほしいと考えていたようにみえる。

 なおこの事件に関連して、四二年六月に上海において「中国共産党諜報団事件」として中西功、西里竜夫ら一〇名(うち中国人三名)が検挙された。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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