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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第四編 治安維持法と政治運動

第三章 中国における日本人の反戦運動


第一節 国民党地区(つづき)

 この前線工作は四〇年一二月から翌年一月まで約一ヵ月続けられたが、この効果について鹿地亘「日本兵士の反戦運動」はつぎのように記している。「効果は二つの点で顕著にあげられた。ひとつは南京の傀儡政府と傀儡軍の擁立という当面の日本側の苦心を、宣昌方面では完全におしつぶし、中国軍側の士気をかきたてたことであった。第二には、日本軍第一線の将兵の間に深刻な影響を与え、それを怖れた日本軍側では、とうとう着手していた宣撫工作を放棄し、工作隊に集中砲火で対抗しなければならなくなったことである」(同書T一八六ページ)。この前線工作はまた蒋介石等から感電が送られるなど中国側に大きな反響を起こした。

 他方、西南支部でも同年九月第二回の前線工作隊を編成して(隊員は六名)広東方面に出動し、約三ヵ月間にわたり前線工作を行なった。そしてこうした日本人の手による反戦活動は、中国の民衆や兵士に対し、日本軍兵士もまた政府・軍部の侵略戦争に狩り出された犠牲者であることを身をもって理解させることになり、彼等の日本軍捕虜に対する憎しみの態度を変えさせるのにも役立った(日本軍は彼等の憎悪の的であり、捕虜将兵も後送の途中しばしば殺害されたのである)。

 しかし、国民党地区における反戦運動はこれをもって終りをつげた。一九四〇年三月南京における汪精衛のカイライ政権成立を一つの契機として、国民党内部に対日妥協・降服派の勢力が増大し、これと同時に、四一年一月安徽省南部において国民党軍が新四軍部隊を襲撃し、将兵九〇〇〇人を殲滅、軍長葉挺を捕えた「安徽省南部事変」(皖南事件・新四軍事件)をはじめ、統一戦線を破壊する動きがひん発し、反共体制が強まった。

 なお新四軍内にも日本人の捕虜兵士によって反戦同盟の新四軍グループが作られていたが、右の事件で国民党軍にほとんどのものが殺された。

 反戦同盟の活動もこうした動きのはねかえりを受け、国民党によって共産党と同様の危険分子と見なされるようになった。さらに捕虜関係の中国吏員らによる同盟組織の破壊工作が激しくなり、これに操られて同盟員の脱走事件が発生するなど同盟内部のごたごたも生ずるにいたった。

 そして反戦同盟は一九四一年八月、国民政府軍事委員会政治部より「思想妥当ならざるものあり………」などの理由をもって突然解散を命じられ、重慶総部と桂林支部の全同盟員――重慶総部七名、桂林支部一六名――が鹿地亘から切り離され、手錠と鎖をかけられた上、貴州鎮遠の第二捕虜収容所へ送られた。西南支部発生以来約二年のことであった。この解散命令は当時「小新四軍事件」といわれ、中国人の支持者の怒りと同情を集めた。鹿地はこの解散処置に抗議し奔走したが及ばず、同年八月重慶の国民党政府の政治部内に鹿地研究室を設けることのみが許可され、それによって日本の政治、経済、軍事の情報分析などに従事した。その後四三年八月にはこの研究員に収容所から旧同盟員の幹部三名を研究員として引き取った。

収容所内での活動
 一九四一年八月、貴州鎮遠の収容所(通称「和平村」)に送られた反戦同盟員は、他の捕虜が彼等の思想の影響を受けることを警戒した管理者によって隔離・監視状態におかれたが、同盟員は収容所内で和平村訓練班を自主的に組織し、困難な条件の下で政治や経済問題、世界情勢などについての研究会をもち、互いに学習を続けた。また同年一二月にはこの旧同盟員のうち六名が英国大使の希望により工作隊を編成してシンガポールヘ派遣されることになったが、国民党側の引きのばしによって出発手続きがはがどらぬうち、四二年三月シンガポールは陥落した。このため工作隊派遣の目的地は印度のデーリーに変更されたが、結局国民党の妨害のため中止となった。

 一九四二年から終戦時にかけて、旧反戦同盟員は収容所内において、既存の捕虜グループや新来の捕虜兵士に働きかけ、捕虜の日常生活の改善を目的とする「新生活協会」(会員は百数十名)、さらに「和平村日本民主政治研究会」、「和平村教育部隊」、「和平村日本民主革命工作隊」などの組織を次つぎに編成し、グループ活動を統けた。

 また旧同盟員達は新来の捕虜兵士から部隊や内地の状況を座談会などを設けてくわしくききとり、それにもとづいて戦時下の農村や工場の実態など各種の調査報告を作成し、これらは鹿地研究室に届けられて情報資料として発表された。さらにこれらの調査や自己の研究にもとづいて、「農村、工場出身の兵士達へ」、「労働強化に喘ぐ農民に訴える」、「祖国日本の子等はこうして死んで行く」等々、内地生活の窮状や軍部・上官の腐敗などを暴露した、日本向け放送テキストや宣伝ビラ、パンフレットを作成した。「一九四二年初頭から四四年半ばに至る二年半の間、鎮遠から重慶に送られてきたそれらの労作はおおよそ百五十種以上に」達した(「日本兵士の反戦運動」U三五四ページ、これらの資料は、「反戦資料」およびそのマイクロフィルム版に収録されている)。なお収容所は四四年一二月、日本軍の攻勢のため貴州鎮遠から重慶近郊の鹿角郷に移動したが、この移送の難行から旧同盟員を含む多くの病死者を出したのをはじめ、収容所内での病死者はあいつぎ、捕虜兵士はきわめて苦しい生活を送った。

 終戦後、一九三九年反戦同盟結成以来の同盟員で生存していた者(第一期同盟員)は、鹿地を除いて二○名であった――収容所一六名、鹿地研究室三名、他の収容所一名。この他、和平村訓練班への参加者(第二期同盟員)が一七名――第二収容所一六名、鹿地研究室一名。さらに国民党政府の公認を経ていない未公開同盟員が八名(軍政部集中営収容)あり、同盟員は総数四五名となっていた。また外廓団体として、平和の友の会会員が一〇〇名(第二収容所)、民主同志会中の航空兵グループが一九名(軍政部集中営などに収容)あった。これらの広い意味での反戦同盟員は、日本の降服直前において約一七〇名といわれる。これらのうち第一期同盟員二〇名の年令、前歴をみると、年令は二〇代から四〇代まででうち三〇代がほとんどを占めており、旧軍隊内での階級は一等兵、上等兵、伍長など、そして戦前の職業では工場労働者や店員がもっとも多く、以下農業、商業、小学校教員、会社事務員、自動車運転手、石工、船員などとなっており、また学歴は小学校卒が過半数を占め、残りは中学、実業学校などの卒業、中退者となっていた(以上一九四五年一二月現在の状況、反戦資料マイクロフィルム版第五巻による)。これらの反戦同盟員は終戦の翌年四六年三月国民党政府により帰国が許可され、同年五月内地に帰還した。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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