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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第四編 治安維持法と政治運動

第三章 中国における日本人の反戦運動


第一節 国民党地区

反戦同盟の成立まで
 国民党地区における反戦運動は、日中戦争勃発直後国民党地区に潜入した鹿地亘の手によって、まず華南の桂林で組織された。運動のにない手は鹿地亘をのぞき、ほとんどが捕虜となった日本兵士であった。

 国民党地区の日本無期捕虜は、はじめ洞庭湖畔の常徳の軍政部第二俘虜収容所に集められていた(第一収容所は西安にあり、八路軍から送られてくる捕虜を収容していた)。これらの捕虜将兵は、部隊が全滅に陥り重傷を負って捕えられたもの、中国軍後方に不時着した飛行士、また上官や古兵の虐待に対する憤懣から逃亡したもの、などで、この他に遭難した日本船の船員や日本人居留民も加わっていた。国民党政府ではこれらを捕えると日本側の情報をとった上、中国側の捕虜の取り扱いの寛大さを示す国際宣伝に供したのち、悪環境の収容所に放置していた(その後終戦に至るまで収容所捕虜から病死者を非常に多く出した)。さらに収容所おいては、腐敗した収容所長や関係吏員により自己の売名の手段としていろいろと利用され、また中国側へのオベッカから恭順をよそおう者だけが「反戦分子」として優遇されていた。他方、捕虜兵士のほとんどは、この日中戦争が日本の国土防衛と東洋平和のための戦いであり、日本の勝利を確信しており、捕虜となったことを最大の恥辱として自棄的な灰色の日を送っていた。そして軍隊の階級、性格、考え方の違いなどからそれぞれグループを作り、捕虜のなかの一部のボスに操られて互いにつのつき合っていた。

 こうしたなかで、捕虜兵士達を反戦運動に組織すること、しかもこれを国民党のカイライではなく「日本人の自立した立場」から、戦争に反対し、日中の公正な講和をかちとり、日本の民主革命を目指すという活動を組織することに対しては、国民党政府内部の反対派による妨害がきわめて強く、最初から非常な困難があった。これらの障害を打開し運動を組織することができたのは、鹿地亘の努力・手腕と、中国側の郭沫若をはじめ、一部の関係吏員や軍の協力、支援によるものであった。鹿地亘の反戦同盟の計画は、一九三八年一二月に、ようやく蒋介石の批准をえ、ここに反戦同盟の組織化が着手された。なおこの国民党地区における反戦運動の記述は、鹿地亘「日本兵士の反戦運動」、同編「反戦資料」、およびこれらの文献の原資料である鹿地氏所蔵の大量の反戦運動関係資料のマイクロフィルム版によっている。

反戦同盟西南支部の活動
 一九三九年に入り、収容所から選抜された捕虜が桂林に集められ、鹿地亘の手により同盟員としての訓練――日中戦争の真意と反戦運動の意議などについての教育をはじめ、政治教育や活動のための訓練がなされた。当時この桂林は中国の防衛線の主要拠点であるとともに反蒋介石の広州軍閥の本拠でもあって、反戦運動の組織化に有利な情勢下にあった。

 一九三九年一二月在華日本人民反戦同盟西南支部が桂林で発足した。反戦同盟の本部は重慶におかれることになっていたが、それはまだ組織されておらず、この西南支部がまず第一に組織されたのである。本部代表は鹿地亘で、支部員は当初一〇名であった。彼等は内地において労働者、農民、職人、会社員、青年学校教官、警官、やくざ、など様々の前歴をもつもので、それに女子(戦地に送られチャブ屋勤めをしていた)が一名加わっていた。反戦同盟の結成の意図を西南支部成立大会宣言によってみると次のようである。

 我らはここに在華日本人民反戦同盟西南支部の成立を宣言する。これは近く準備されている在華全日本人革命的反戦同志団結の先声である。その中国西南戦区に於ける支部である。東亜に於ける日本帝国主義の侵略戦争が中華民族の不屈の抗戦により、長期対抗状態に陥りつつ、侵略によって災害を蒙った諸国と日本との間の新たなる帝国主義戦争の危機が著しく濃化しつつある今日、既に百万に近い日本人民の血が流されて居り、中国の幾千万の人民が戦火の中に、殺戮と飢寒に陥れられて居り、その上に更に規模を大にした戦争の暗雲が極東に低迷しつつある今日――戦争挑起者自身の足許を覆し、人類の災害発展を防止、結束せしめることは我ら日本人の光栄ある責務に属する。(中略)

 同胞諸君! 中国の友人諸君! 日本軍部とその侵略政府の冒険政策に反対する世界の反侵略友人諸君! 我々はかかる日本人民大衆の海外に於ける分遣隊として、ここに結成したことを諸君に告げる。我々の行動の出発に当り、当然我々は行動の基礎たるべき次の認識を明らかにして置かねばならぬ。第一に、今次中国の帝国主義侵略に対する堅決なる抗戦は、我ら日本人民の自由解放の目的と完全に一致する。随って中国の全民族が我らの革命目的、日本人民の解放に賛助し、援助される以上は、我々はこれを日本人民の友として、その抗戦を絶対に援助する。第二に、我々はあくまで日本人民革命の海外一支隊である。随って我々は当然国内革命運動の指揮を受ける。中国抗戦との協力に関しては勿論友軍としての行動統一のため、中国政府の指揮に服するが、同時に我々は日本人民革命の促進と完成と言う独自の目的を有する。

 我々の行動の初歩的目的は左の如し。
第一、侵略戦争の即時停止、派遣軍の即時撤兵。
第二、軍事資本家、軍事冒険者の奴隷たる官僚政府打倒。
第三、完全なる民権の確立、言論、集会、結社、文化、教育の自由。
第四、戦争の破滅的条件下に呻吟する人民――労働者階級、農民の救済、これらの生活改善。
第五、戦争の犠牲者とその家族の生活の国家保障。
第六、それら一切の解決のため、完全なる民主的条件の下に、日本人民政府の樹立。
 我々はかくて中国人民との協力の下に、この目的完徹のため一意邁進する。我々は世界の反侵略国家と人民とに友誼提携の手を差し延べる。我々は日本国内の人民革命の指導の下に、この組織を在華全日本人の規模へと拡大し、中国並びに世界の反帝国主義、反侵略的友人と日本人民との強力な結合的靭帯となる使命を遂行する。

 西南支部は成立大会後、ただちに、鹿地亘ら同盟員六名をもって前線工作隊を編成し、南寧北方の崑崙関に出動した。一二月二九日工作隊は崑崙関の中国軍陣地の丘の上から日本軍陣地に向かって拡声器により最初の呼びかけを行なった。それは日本政府や軍部、財閥の戦争目的をばくろし、この戦争のために日中両国民は極度の苦しみをうけ、将兵は前途のない犠牲を強いられていること、日中両国民の友情について、犬死をするな、などの訴えであり、はじめ日本軍からは機関銃の威嚇射撃があったが間もなく止み、拡声器の反戦の声が響き渡った。この戦いで日本軍は退却した。

 この活動は中国側に大きな反響を呼び起こした。各戦区から反戦同盟派遣の要請が殺到し、また各地の日本人の捕虜の間に反戦同盟支部結成の機運が起こった。そして一九四〇年五月延安に反戦同盟延安支部が結成されたのをはじめ、のちに記す八路軍や新四軍地区の日本人捕虜兵士による反戦運動にも影響を及ぼした。なおこの国民党地区と八路軍・新四軍地区との二つの反戦同盟の間では、重慶にある中国共産党の出先機関のルートを通じて、その後文書や資料の交換などの連絡がかわされたが、両者の進撃を危険視する国民党側の妨害や禁止にあって、連絡はほとんど断たれ、両同盟はその目標を同じくしつつも相互に独立して活動を進めていった。

 西南支部の前線工作は一九三九年一二月から翌年三月まで統けられたが、三月南寧では日本軍の奇襲により国民党軍が潰滅し、前線工作のため従軍中の反戦同盟員のうち大山邦男、鮎川誠二、松山速夫の三名の犠牲者を出した。

 西南支部はその後桂林で同盟としての教育、訓練を続け、同盟員も増加した。また中国後方の軍隊や民衆に日本人の反戦運動を宣伝する目的で劇団を編成し、鹿地亘の脚本による反戦劇「三人兄弟」を四〇年六月桂林で上演した。続いて巡回公演に移り七月には重慶で公演を行なったが、親日派首領の軍政部長・何応欽により「反戦は中国軍の士気に悪影響を及ぼす」という理由で上演禁止を命ぜられ、八月桂林に帰った。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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