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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第四編 治安維持法と政治運動

第二章 無産政党その他の政治活動


第一節 無産政党運動(一)

日本無産党
 一九三七年一二月および三八年二月に、いわゆる人民戦線事件として全国で計四八四名が検挙されたが、その内訳は、日本無産党関係二六五名、日本労働組合全国評議会関係一七四名(日無にも関係あるもの四二名)、労農派グループ三四名、教授グループ一一名であった。そして日本無産党は、「わが国体を変革し、私有財産制度を否認し、プロレタリアートの独裁によりて共産主義社会の実現せんことを目的とする結社にして、当面いわゆる反ファッショ人民戦線の統一強化を標榜するものなり」との定義にもとづき治維法第一条の結社として扱われることとなり、検挙一週間後に全評とともに結社禁止となった。しかし、この結社禁止の意図はむしろ司法省発表に述べられているように、「コミンテルンの人民戦線戦術以来、すべての共産主義者は極力社会民主主義団体に潜入し、もしくはその運動を利用すべくつとめているので、警察の取締ないし警戒の範囲もいきおいこれら団体にまでおよぼしてゆかねばならぬ情勢となってきたことであって、いまや民主主義自由主義等の思想は共産主義思想発生の温床となる危険性が多分にある」という点にあった。こうして社会民主主義の存在自体がこの時から否定されることになったのであるが、日無の運動はそれ自体もともと実体に乏しく、弾圧はむしろ思想的な面に重点があった。日本無産党は、もともと労働組合法など社会立法獲得のため全評(日本労働組合全国評議会)、東交(東京交通労働組合)、関消連(関東消費組合連合会)などを中心に組織されたカンパニヤ組織たる労農無産団体協議会が、戒厳令下の府議選を前にして政治結社に発展したものであるが、政党として社大党とのあいだに摩擦を生じ、内部から全農(全国農民組合)などの脱退を生んだため一応解体の上、あらためて再結成された同名の協議会が、みずから「反ファッショ統一戦線の推進力」になろうとしたが、社大党への無条件合同提案が拒否されて戦線統一を一応断念しつつ、一九三七年三月、社大党に対立する全国的政党として日本無産党と改称したものである。日本無産党は結党以後、「ファッショの撲滅」、「無産政治戦線の統一」等のスローガンをかかげ、四月の総選挙には三名を当選させ(得票数一〇万票)、日中戦争勃発後は、友誼団体を集めて物価対策委員会を開催し、八月には「時局に関する指令(第一号)出征兵士家族救援について」を発言するなどの活動をおこなった。検挙直前における同党の構成は、委員長加藤勘十、書記長鈴木茂三郎、東京府連会長高津正道、支部数は準備会をいれて四四、党員数は七〇四六名(うち八幡支部三〇五〇)といわれた。なお、一九三八年二月に起訴となった鈴木茂三郎は裁判の結果、四二年九月の第一審で懲役五年、四四年九月の第二審で懲役二年六ヵ月の判決を受け、四五年一一月の大審院で原判決破棄、免訴となった。

社大党の分裂と消滅
 社会大衆党は一九三六・三七両年の総選挙で大躍進し、三七年四月の第二〇回総選挙では、当時の記録的な労働争議に示された、労働者のエネルギーにつきあげられて、当選者三七名(その約半数は最高点)、得票数九三万票となったが、七月の戦争勃発とともに「今次事変は日本民族の聖戦である」(戦時下運動方針)として「帝国主義戦争絶対反対」のスローガンを取り下げて侵略戦争への積極的支持を表明し、また綱領を改正して「我党は国体の本義に基き日本国民の進歩発達を図り、もって人類文化の向上を期する」とし、公然と階級的立場を放棄して、国家主義に転向し、人民戦線事件検挙後には、それに連座した党員を除名し、「階級運動をつうじて資本主義を改革せんとする社会運動の過去の理論を揚棄し、全体主義の理論をもって、勤労大衆を中心とする大衆的革新政党をさらに国民の党にまで発展せしめなければならない」(三八年大会一般方針)と、みずから労農無産政党であることを放棄した。一九三九年には、右翼団体の東方会と合同して「革新政党」を結成するとの共同声明まで発したが、旧日労(全労)系と旧社民(総同盟)系の両派が対立して、結局合同問題は失敗した。

 一九四〇年二月、衆議院本会議における斎藤隆夫代議士の「支那事変は聖戦なりや」の質問演説が問題になると、社大党は、それが「事変の目的を晦渋にし、帝国不動の方針を中外に誤認せしむるものにして、又挙国的体制にも悪影響あり」として、議員除名懲罰の急先鋒となって軍部に追随した。党内ではこの決定をめぐり、旧日労系を中心とする麻生久書記長ら二一名の除名賛成派と、旧社民系を中心とする安部磯雄党首ら一三名の除名反対派が対立し、前者が多数で押しきった。このため斎藤処分の本会議に、安部・片山・鈴木・西尾・松永・米窪・岡崎・水谷・富吉・松本の一〇名は一斉に欠席して採決に参加することを拒否した。これらの反対派八名(安部党首は病気欠席として責任を追及せず松本治一郎は正式党員でないので社大党代議士会から脱退を要求)にたいし党本部は、「聖戦目的貫徹のために、我等は斎藤氏を断乎除名処分に付した。この党議を無視して態度を曖昧にし、故意に票決を回避したるものをそのまま党内に許すことは、わが立党の精神に照して、容認し能わざるところである」との声明を発して除名した。こうして社大党はますます軍部・ファシストヘの協力を強め、同年七月にいたり、近衛文麿を中心とするいわゆる新体制運動の提唱に呼応して、「内外の時局にかんがみ、政治の新体制を待望するは国内一致の世論なり、日本民族の興亡またこれが成否にかかる。しかしながら政治の新体制は自らにして成るものに非ず、国民決死の努力にまつ、わが党が率先党を解いてこれを推進せんとする所以なり」との解党宣言を発し、大政翼賛会・産業報国会運動の中に姿を没して太平洋戦争に協力した。

 先に除名問題によって社大党から分裂した旧社民系の九代議士は松岡駒吉を加えて協議した結果、社大党を離党した安部磯雄を中心にして新党を組織することに決定し、日本労働総同盟を中心母体として、三月末新党準備会全国代表者会議を開き、五月はじめ「勤労国民党」を結成する準備中、突如「人民戦線運動に乗ぜられる危険性を最も多く有するもの」(内務大臣談)として結社禁止を命ぜられた。同党はけっして「思想的には社会主義により、組織的には事実上無産階級を地盤とする階級的政党を樹立せんと企図」(内相談)したものでないことは、次の新党結成基本方針によっても、また各議員のその後の活動や言論に徴しても明らかである。なお結社禁止時に、大阪等七府県では支部ができ、その他一〇数県で支部組織準備中であった。

 ▽新党結成の基本方針 (一九四〇・三)
 我等は既に再三声明せる如く広く同憂具眼の士と提携協力して、真の国民の信頼に応ふるに足る清新にして発刺、然も強力なる新党を結成せんとする、此趣旨に基き、新党結成の基本方針を定むること次の如し。

一、国民の自立的協力に基礎を置く時局担当の党たること。
 時局便乗に非ず、時局批判に非ず、国民の自立的協力に基礎を置いて積極的に時局を担当し、政戦両略の一致を文字通り具現せんとする党たること。
二、清新なる要素を包含する党たること。
 議員中心に非ず、新進有為の人材を包擁し青年の意気を以て貫く真の革新政党たること。
三、門戸解放の党たることを厳に排し、広く同憂具眼の士と提携協力する党たること。
四、国民組織の推進力たるべき党たること。
 国民各層を貫く国民組織の建設に積極的に協力し、国民の心の底から湧き上る自立的協力精神を喚起する党たること。
五、議会政治再建の党たること。
 わが憲法の大精神に則り、議会の現状を打破し、之を真に国民生活に立脚する国民の議会たらしめ、以て聖業翼賛の実を挙げんとする党たること。
六、勤労国民の党たること。
 勤労国民の伸張が国家民族の興隆発展と完全に一致することを確信し国民生活確保と資本主義改革を主張する党たること
七、聖戦目的貫徹に邁進する党たること。
 叙上の大方針に立脚しつゝ近衛声明の表裏なき実現を通して聖戦目的貫徹に邁進する党たること。

 ▽綱領草案(四〇・五)
一、我等は国体の精華を発揚し国家民族の興隆と勤労国民の伸張を期す。
二、我等は資本主義を改革し、綜合国力の増進と東亜新秩序(又は世界新秩序或は国際正義)の確立を期す。
三、我等は勤労と科学を尊重する精神を昂揚し国民文化の向上を期す。


日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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