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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 物価・配給統制と労働者の生活

第二章 配給、消費、生活実態


第一節 食生活の推移(一)――主要食糧の配給と消費――(つづき)

配給内容の低下
 配給米は当初七分づきであったが、食糧事情が窮迫するにつれて五分づきから二分づきの「黒い精米」に変わっていった。さらに雑穀の主食代替による「綜合配給制」が実施され、精麦、大豆、玉蜀黍、甘藷、馬鈴薯などが主食として米と差引きで配給されるようになった。

 すなわち最初主食の配給は米に限られていたが、この米もすでに一九三九年一二月の米穀搗精等制限令の施行によって消費節減のため七分づきが強制された。また当時、京浜、阪神などの大都市においては多量の外米混食が実施され、一九四〇年の夏ごろには外米の混入率が五〇%から七〇〜八〇%にも及んだ(「毎日年鑑」昭和一六年版、二五五ページ)。そして節米が強調され、代用食が奨励された。その後一九四三年一月には五分づきとなり、ついには二分づきとなった。そしてこうした搗精制限の強化に対しては、これらの五分づき・二分づき米はビタミンBの含有量がきわめて多く、また胚芽が残るから野菜の摂取量は七分づき当時よりも少なくてよいといった宣伝が行なわれた。

 さらに玄米食の普及が節米の見地から一九四二年一一月の閣議において正式決定をみ、一九四三年ごろから玄米食普及の国民運動が大政翼賛会の指導のもとに展開された。しかしこの運動は結局において、米穀の消費規制の強化ということを栄養的・精神的に美化し歪曲したものにすぎなかった。すなわち玄米普及国民運動の結果「旅館、飲食店がいや応なしに玄米食となり工場、鉱山に於いても玄米食になりつつあった。‥‥[しかし〕玄米食奨励の根拠は当時の食糧事情に於て玄米食によって出来るだけ食糧を節約し、外米の輸入を止めその船腹を軍需輸送[など〕にむけるといふ船腹節約の問題が直接的の動機であると信ぜられる」(前掲「科学的に見た最近十年間の食糧の変遷」八四〜五ページ)。

 玄米食の利点として当時喧伝されたものは、(1)玄米は糖を除かないため糖に含まれる蛋白質や脂肪を利用しうる、(2)玄米にはビタミンB1およびB6が多量に含まれているから国民の健康ならびに能率を増進する、などであった(「朝日年鑑」昭和一九年阪、三六〇ページ)。これに対して次のような反対論が出された――「玄米の消化吸収は白米その他の搗精米に較べて遥かに悪く、白米よりも多く含まれている蛋白質や脂肪は利用されずに排泄されるばかりでなく、その繊維に依て腸内容物の蔬通を早め、副食物成分の消化吸収も亦阻害されることが明らかである」と(前掲「科学的にみた最近十年間の食糧の変遷」八九ページ)。

 しかし「玄米食の奨励は軍の強力な尻押しに依て推進され、これに迎合する一部学者の一応の科学性を有するかのような賛成論も多く、しかもこれが過大にとり上げられ」た。だが「政府が玄米食については奨励の域を脱せず、法令に依る強制に至らなかったことはまだしも幸いであった。玄米食は国民全般の嫌悪にあって普及の目的を果すことが出来なかった。しかし‥‥玄米に近い九八%搗精の黒い精米となって、家庭に於ける人力に依る搗精が行はれ、米糠の徒らな放棄とエネルギーの浪費が彌漫したのであった」(同書、九一〜二ページ)。

 次に雑穀配給についてみよう。
 一九四二年八月、東京府は一般家庭に米と差引きで乾麺を配給した。配給量は一人当たり二把(七五〇グラム)で、米六六〇グラムが差し引かれた(九月にもひきつづき配給された)。

 同年一〇月、農林省は配給飯米に仏印産のひき割玉蜀黍を混入させることにし、東京、神奈川、大阪、名古屋、兵庫、関門の各地方に実施した。米との混合率は各府県当局ともよりの食糧事務所で決定し、ひき割玉蜀黍一三二キロを米一石に換算して飯米割当量と差引きした。

 一九四三年六月、馬鈴薯が米一八〇グラムと差引きで一キロ配給された。最初のうちは、馬鈴薯の一般家庭配給量は一人一日分四〇〇〜八〇〇グラム程度として、その混合割合は二〇%以上にならないようにし、配給回数を多くするといった考慮がなされたが、のちには配給機構の不備と混乱が増大するにつれて、馬鈴薯が収穫期には一時に多量に配給され、さらにまた腐ったものも配給されるようになっていった。

 同年七月、小麦粉七〇〇グラムが米一人当たり六六〇グラムと差引きで配給された。また同じ月に乾パンが米と差引きで配給された(換算比率は乾パン六〇匁に対して米一五〇グラム)。

 同年八月、満州産の大豆が米に混ぜて配給された。その混合割合は大豆一〇%、外米二〇%、稿米二〇%、内地米五〇%となっていた。
 同年秋の甘藷の収穫期からは甘藷が米と差引きで配給されるようになり、主要食糧の綜合配給制がさらに一段と強化され、雑穀混入率は増大した(以上、「朝日年鑑」昭和一九年版、三五九ページなどによる)。

 また同年冬以降においては脱脂大豆(大豆粕)も代替食糧に加わり、一九四四年度からは穀粉もこれに加わった。
 一九四三年冬から一九四四年度にかけての雑穀配給についてみると――生甘藷が一二月〜翌年二月、ついで切干甘藷が三〜四月ごろまで、馬鈴薯が六〜七月ごろ、麦が七〜八月にそれぞれ配給されるといった状況だった。そしてこの間、大豆を中心として高梁や玉蜀黍などの満州雑穀が混合された。こうして一九四四年にはいると、米軍の反攻は激化し撃沈される船舶は急速に増大して南方占領地からの外米輸入はほとんど不可能となり、配給食糧の中心は、国内産の米麦、甘藷類および満州産の雑穀に移っていった。

 主要食糧の国内総消費量(一般消費者配給、農家消費、軍需用をすべて加えたもの)に占める代替食糧の比率をみると第77表のようになっている。一九四二年には麦類が三%でその割合は低かったが、一九四三年からはこれに藷類および内地雑穀、輸入雑穀が加わって代替食糧の割合は五・六%と増加し、一九四四年にはさらにこれが一四%と急増している。

 しかし都市の消費者における代替食糧の配給比率はこの全国平均よりもはるかに高かった。日銀調査局の資料によれば、一九四三年中における東京都の実際は――押麦九日分(米に換算した配給量、以下同じ)、乾麺八日分、馬鈴薯・甘藷六日分、小麦粉四日分、大豆一日分、玉蜀黍一日分、計二九日分となっていた(「食糧品ノ配給ニ付テ」一九四四年一月)。これは一年に対して七・九%、約一ヵ月分である。なお、これに付加して同資料は次のように述べている(要約)――「しかもその配給が米穀端境期の頃比較的短期間に多量に纒りて行はれたるため、一般消費に尠からざる不安を与へ、また馬鈴藷、甘藷の如く従来副食物として摂取し居たるものが主食物として配給せられたる結果、それだけ摂取総食糧の減退を来たすこととなった、と。

 また一九四三年度から一九四四年度の代用食全体の混合率について「毎日年鑑」は、一九四三年度には一〇〜二〇%程度だったものが一九四四年度には三〇〜四〇%以上に増加されとくに大消費地に混合率が高かったとしるしている(昭和二〇年版、二一三ページ)。

 一九四五年にはいると食糧事情は極度に窮迫化した。政府は甘藷の大増産計画をたてるとともに、藷づる、どんぐりなど「未利用資源」の食糧化を画策し、粉食の普及・徹底にのりだした。(「朝日経済年史」昭和二〇・二一年版、一六九ページ)。

 一九四五年二月には小麦粉、藷類、大豆、高梁、玉蜀黍などの混合割合が増加した。六月ごろの東京都における状況は次のようであった――「抱き合せ配給の比率はここ当分の間お米五割に代替物五割の割で、代替物としては主として大豆、食用粉等だが、食糧事情が逼迫するにつれてお米四割に代替物六割となり、その内容も大豆、食用粉から、玉蜀黍、高梁に変って行くかも知れない。‥‥今配給されてゐる食用粉を世間では団栗だといふ人もあるが、団栗はまだ配給されてゐない。この食用粉には玉蜀黍を主体としたもの、脱脂大豆を主体としたものの二種類があり、すゐとんにすれば結構昼食になる」(都経済局の説明――朝日新聞一九四五年六月一二日付)。七月ごろになると実際の混合率は七〇%以上となり「今や全く米穀を主食とするとはいい得られない実情」となった(以上、「朝日年鑑」昭和二一年阪、一五七ページによる)。カテめし、ひえ、ソバなどをこねた焼餅などの「郷土食」、あるいは芋づる、桑の葉、ヨモギ、どんぐり、南瓜のつる、木材くずなどを材料とする粉食、モミガラ食の奨励など雑食総動員計画がたてられたのもこのころであった(下村海南「終戦記」七八ページ――一九四五年七月、石黒忠篤農相の閣議報告の記述による)。そしてついに主食配給量そのものの一〇%削減が実施され(一九四五年七月一一日より、大都市のみ八月一一日より)、八月一五日の終戦にいたった。

 なおこの間における東京都の主食配給の内容構成は東京都食糧営団の資料によると次のようであった(「同営団史」七八六ページ)。
 米 穀混合物資その他代替物
一九四五年四月(%) 90(%) 6(%) 4
五月8710
六月513712
七月4251
八月515623

(注)混合物資は丸大豆、脱脂大豆、玉蜀黍、押麦。その他代替物は馬鈴薯、小麦粉、麺類、パン類、その他の雑穀類。
 ところでこのような代替食糧の混入量の増大は当然配給カロリー量を減少させることになった。代替食糧の米との代替比率――甘藷一キロ=米二〇五グラム、馬鈴薯一キロ=米一八○グラムなど――はもっぱらそれらの重量を基準として設定されたものであり、摂取栄養量の確保にもとづいたものではなかった。この点に関して「科学的に見た最近十年間の食糧の変遷」(前掲)は次のように述べている――「綜合配給といっても結局代用食、混食であ〔る〕。‥‥綜合配給という観念の根本をなしたものは配給基準量即ち配給重量の維持ということであり、基準重量丈を配給すれば配給する側の一応の責任は終っているかのような機械的の考え方が支配していた。個々の食品の食品的価値或いは栄養的考察が不充分であり、従って玄小麦、丸大豆の混合配給というような食品の消化吸収を全く無視したようなことが繰返された。国民は単なる重量を食っているのではなく消化吸収に基く栄養量を食わねばならぬことは自明の理である」と(同書、一〇三ページ)。

 またコーヘン「戦時戦後の日本経済」は――「日本政府は、一九四五年七月までの全戦争期間中主食の配給を確保したし、代用食はカロリーを基準としたから配給量のカロリー内容は低下しなかったと自称したが、アメリカ戦略爆撃調査団の医療班によって明らかにされたところによれば、そのような代用品はカロリーを基準としたものではなかった。また同医療班は配給量のカロリー価値が実質的に低下したことを指摘している」としるしている(大内訳、同書下巻、一五五〜六ページ)。なお栄養摂取量の動きについては第三節でみることにする。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態
発行 1964年
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 東洋経済新報社
2000年2月22日公開開始


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