主食配給の実施
一九四一年四月、米穀の割当通帳制が東京、大阪、名古屋、京都、神戸、横浜の六大都市において実施されたが、これが食料品に対する最初の消費統制であった。その後この割当配給制は全国的に拡大され、同年一二月現在においては全国九九%の市町村において実施されたが、配給方法も当時は市町村ごとに通帳制をはじめ切符制、カード制をとるものなどが混在しており、配給量についても、六大都市を除いて地方ごとに多少差異があった。この割当配給制は一九四二年三月までに全国的に実施された。
米穀配給の基準割当量は第74表のようであるが、この時設けられた一人一日二合三勺の配給基準は、一九四五年五月まで形式的には一応変わらなかった。
ところでこの二合三勺配給基準決定の根拠やその配給量の栄養上の問題点については、次のような指摘がなされている。
政府当局が普通人一日当りの米割当量を二合三勺と決定したるは栄養的見地よりは寧ろ主として米の供給量より算出せるものの如く、今之を昭和一五年〔一九四〇年〕八月に終る一ヵ年間の全国俸給生活者の消費単位(大人に換算せるもの)一人当りの一日米消費量三合に比較するに約二割強の減少に当れり。‥‥〔またこの基準は〕副食品の豊富にして自由購入容易なりし昭和一六年〔一九四一年〕当時において算定せられたるものにして副食品の自由獲得益々困難となれる昨今〔一九四三〜四四年〕においては中下層階級の主食品に対する不足感を濃化せること少なからずして相当深刻なる場面を展開しつつあり(日銀調査局資料「食糧品の配給ニ付テ」一九四四年一月より要約)。
また木原芳次郎・谷達雄共著「科学的にみた最近十年間の食糧の変遷」(農業技術協会、一九四七年一一月刊)におると次のとおりである。
普通成人‥‥に対する一日の配給量三三〇グラム(二合三勺)の米より摂取できる栄養量は蛋白質二三・八グラム、脂肪一・七グラム、炭水化物二五四・三グラム、一一五五カロリーである。‥‥従来日本人の米の消費量は中等程度の労作を行う成年において一日四三〇〜五〇〇グラム(三〜三・五合)とされている。‥‥この米の配給量は従来の消費量に比して約二割少いのであって、外食、混食、代用食等何等かの方法によって補強しなければ不足勝である。‥‥当時においてはこの配給量を補強する食品の入手もまだ比較的容易でもあったが、三三○グラム、二合三勺は国民栄養の貧しい基盤となり、食生活の組成は次第に内容が悪化し後年に永くその嘆きを繰返したのであった(同書、三九〜四一ページより要約)。
(注)なおこれに関して朝日新聞一九四四年七月一二日付(「食糧行政査察聴取会による」)も次のように記している――二合三勺は厳密にどうして割出されたかは大して意味がない。通帳実施の時の米の消費実積を実在人口で割ったものに多少増したものを基準の二・三合とし、軽労働、重労働の労作別および年齢別に配給量を決めた。当時は他の副食物があったからこの割当に議論も出ずに事足りていた。
なおこの配給制開始以後、次のように部分的な増配措置がとられた。
一九四一年一二月より造船、鉄鋼、炭鉱その他の鉱山の労働者、および沖仲仕に対し一四〇グラム(一合)。
一九四二年三月より右以外の労働者に対し七〇グラム(五勺)。六大都市の妊婦に七〇グラム(五勺)。
同年四月より七〜二〇歳の青少年に対し六〇グラム(四勺)。同年一二月より薪炭生産者に対して一四〇グラム(一合)。
一九四四年四月、六大都市において小学児童に対する学校給食を実施し、パン食と代用食の併用で一人一日一〇〇グラム(〇・七合)分の給食が行なわれた。しかしその後同年夏から学童疎開が実施されたので、この給食は都市残留の一部児童について続けられた。
日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態
発行 1964年
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 東洋経済新報社
2000年2月22日公開開始