青壮年男子を中心とする兵力動員が大規模となるのに伴って、労働力の著しい不足がおこり、生産のにない手は老幼、婦女子、転業者および徴用者などで代替されるようになってきた。これら未経験者の就業が増大し、しかもきびしい監視のもとで最高の能率が強制されたから、当然のことながら、戦時下には労働災害が激増した。
太平洋戦争の開戦当時は、工場法、労働者災害扶助法および鉱業法などにもとづいて、各工場・事業場(厚生省主管)と鉱山(商工省主管)に対し、次のような規定が実施されていた。
○「工場危害予防及衛生規則竝同施行基準」(昭和四年公布、部分的改正二回)
○「土石採取場安全及衛生規則」(昭和九年公布)
○「土木建設工事場安全及衛生規則」(昭和十二年公布、翌年改正)
○「鉱業警察規則」(昭和四年公布、昭和十六年改正)
○「石炭坑爆発取締規則」(昭和四年公布、昭和十六年改正)
そして、一九四〇年九月には、商工省令第六十九号をもって「石炭坑用爆薬類及機械器具取締規則」が公布され、一方、厚生省には「国立産業安全研究所」が設立された。この研究所は、一九四二年一一月になって厚生省研究所へ統合され、産業安全部と呼ばれることになった。
これら一連の政策も、労働者保護に趣旨が存するのでなく、侵略戦争遂行のための手段にすぎなかったことは、いうまでもない。たとえば、一九四二年七月に、厚生省と商工省が主唱して行なった「戦時産業安全週間」の標語は、「誓って安全、貫け聖戦」であった。
また、「安全運動」は、労働者に対する天皇主義の思想教育としての役割をになっていたのである。大日本産業報国会理事であった蒲生俊文らによって宣伝普及された「安全頌」なるものは、「大霊これを天地に受け、肉身これを父母に嗣ぐ。万世一系の聖天子上に在し、秀麗の山河永へに存す。吾らこの神州に生を受け、体健かに気澄みて、今日も亦生産の業に従ふ」という書出しであった。戦時中の労働者は、この「安全頌」を、毎朝整列して朗誦させられたのである(蒲生俊文「戦時下の産業安全運動」参照)。
日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態
発行 1964年
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 東洋経済新報社
2000年2月22日公開開始