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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態
The Labour Year Book of Japan special ed.

第二編 兵力・労働力の動員とその配置

第三章 産業労務動員と国民徴用(つづき)


 移入朝鮮人の雇用契約は一年半乃至二年であったので期間満了者が続出するに至ったので昭和一七年九月、石炭統制会は「契約満期朝鮮人居付条件取扱要綱」を制定し、「再契約勧奨」方針をとった。その結果一七年一二月からの「再契約」応募率は九六%という驚異的数字を示した。

 なお、朝鮮人労働者の炭鉱、鉄鋼両産業部門における就業状況については、本編第四章参照。
 一方、内地へ中国人労働者を集団的に移入する政策は、一九四二年一一月の閣議で正式に決定された。この閣議決定「華人労務者内地移入に関する件」は、主として華北の労働者を内地に移送し、さしあたり鉱山、荷役および工場雑役として使用する主旨のもので、同年一二月には、官民合同による華北労働事情視察団が編成され、現地視察ののち、北京大使館関係官との間で港湾荷役と石炭鉱山とに試験的に集団移入を行なうことがとりきめられた。そして、一九四三年四月から一一月までの七ヵ月間に炭鉱に五五七人、港湾荷役に八六三人合わせて一四二〇人が船で移送され、国内の各事業所に配置された。事業所別配置は、日鉄鉱業二瀬二一二人、三井鉱山田川一三四人、同山野二一一人、伏木海陸運送会社二二二人、東日本造船函館四三一人、神戸船舶荷役二一〇人の六ヵ所である。この「試験移入の成績は概ね良好」と考えられたので、一九四四年二月の次官会議は「本格的移入」の実施細目を決定し、一九四四年度国民動員計画には華人労務者三万人の移入が計上された。右の次官会議の決定においては、対象を「訓練せる元俘虜または元帰順兵のほか募集による者」で、年齢おおむね四〇歳以下、なるべく三〇歳以下の独身男子(実際には三〇歳以上が約半数を占め、最低は一一歳、最高七八歳)を優先することとし、これを鉱業、荷役業、国防土木建築業、重要工業その他とくに必要と認める部門に従業させることがきめられた。「試験移入」を含め一九四五年五月までのその総数は三万八九三五人であって、現地収容所からの連行出発以後、各事業場への到着、さらに終戦後の送還までの人員数の変動は左のとおりである(中国殉難者名簿共同作成実行委員会「中国人強制連行事件に関する報告書、第三篇強制連行並びに殉難状況」、一九六一年四月刊)。

中国現地収容所より連行出発人員41,762人
収容所より乗船までの間の減員2,823人
連行乗船人員39,939人
乗船より日本上陸までの間の死亡584人
上陸人員38,355人
上陸より事業所到着までの死亡と行方不明246人
事業場配置人員38,117人
事業場内死亡(不明確11人を含む)6,010人
戦時中帰国1,169人
残留人員99人
行方不明94人
送還人員(うち不明確11人)30,737人
送還船中死亡6人

(注) この数字は、華中、華北、東北の主として陸軍部隊によるもののみであって、このほかに、海軍その他によって行なわれた強制連行があるが、その数は現在までまだ判明していない。

 移送中国人労働者の供出機関および供出方法別数は次のごとくである。
供出地域供出機関供出方法人 員
華 北 華北労工協会 行政供出 24,050
華北労工協会 訓練生供出 10,677
華北運輸公司 特別供出 1,061
華 中 日華労務協会 自由募集 1,455
国民政府機関 特別供出 682
満 州 福昌華工会社 特別供出 1, 020
五 機 関  38,935

(注)外務省管理局「華人労務者就労事情調査報告書」一九四六年三月刊による。
 右のうち「行政供出」は中国側行政機関の供出命令にもとづく募集で、上級官庁から下部機関に対して供出員数の割当を行ない責任数の供出をさせたもの、「訓練生供出」は日本軍が作戦によって得た捕虜、帰順兵のうち一般良民として釈放さしつかえなしと認められたもの、および中国側地方法院において微罪者として釈放した者を華北労工協会で下渡しを受け、各地の労工訓練所において一定期間(約三ヵ月)訓練したうえで供出したもの、「自由募集」は条件を示して希望者を募るもの、「特別供出」は現地において訓練と経験をもつ特定機関の在籍労務者を供出したものとなっているが、その実情については、極東国際軍事裁判の判決(「B部第八章、通例の戦争犯罪」、同裁判所言語部訳)のなかでも左のごとく述べられている。

 戦争遂行に直接役立つ仕事に捕虜と一般人収容者を使用するという方針を決定し、この方針を実行に移す制度を確立した上で、日本側はさらに一歩を進め、占領地の原住民から労働者を徴用することによって、右の人的資源を補充した。この労働者の徴用は、虚偽の約束や暴力によって達成された。徴用されると、労働者は収容所に送られ、そこに監禁された。これらの徴用された労働者と、捕虜および一般人抑留者とのあいだに、ほとんど、またはまったく区別が設けられなかったようである。かれらは、すべて、体力の続く限り使われることになっている奴隷労働者と見なされていた。この理由で、本章において、「一般人抑留者」という言葉を使用するときは、われわれはいつでもこれらの徴用された労働者をも含めたのである。これらの徴用された労働者は、このように異常な、密集した生活状態に適用される衛生の原則について一般に無知であり、かれらを捕えた日本人によって強制された監禁と労役、非衛生的な状態から来る疾病に、いっそう容易に倒れた。このような事実によって、かれらの運命はいっそう悪いものにされていた。

 こうして強制連行された中国人労働者のうちには、軍事捕虜、日本機関および保安隊等原地機関によって「軍事捕虜」と名づけられ、また「囚人」にされたものなどが含まれていた。たとえば三菱大夕張炭鉱に連行された第一次移送中国人労働者一七六人の内訳では、青島憲兵隊より七六人、警察(留置場)よりのもの六〇人、保安隊二〇人、新民会二〇人となっていた。

 なお、朝鮮人および中国人労働者の強制連行に関する資料の詳細については、当研究所資料室報、No.八九、九〇、宇佐美誠次郎「戦時労働力としての中国人捕虜の資料」を参照されたい。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態
発行 1964年
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 東洋経済新報社
2000年2月22日公開開始


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