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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態
The Labour Year Book of Japan special ed.

第二編 兵力・労働力の動員とその配置

第三章 産業労務動員と国民徴用(つづき)


女子勤労者
 一九四四年一〇月には軍需会社および徴用労働者をもつその他の工場で働いている女子も事実上それぞれの業務に釘づけされた。それは徴用という法的強制措置によったものでこそなかったが、「低度の徴用の形態」と呼ばれた方法によってであった。もしみずから志願するのでなければ「ひっぱられるぞ」という警告が、女子に対してしばしばなされていたのである。「オリエンタル・エコノミスト」誌(一九四三年一〇月号、四六五〜七ページ)は次のように指摘している。

 戦時中、女子は表面上自らのやさしい心根から軍需工場で働いてゐた。けれども、正真正銘の事実は、彼女らの属する隣組を通して軍の仕事に引張り出されたといふことであった。上層階級の娘たちは、多くの場合、彼女らの父や親戚の会社に女子事務員として巧みに雇はれ、強制労働を免れることができた。いふまでもないことであるが、これらの女子たちは空襲の危険にほとんどさらされないところで遊び半分に働くことができたのであった。

学徒勤労者
 一九四四年度の動員計画は二〇五万三千人の学生生徒の割当を要求していた。これは前年度計画における五万三千人に比べて著しい対照をなし、学徒は一九四四〜四五年には、兵役に召集されたものに代わる補充労働の最大の源泉をなすものであった。この時期における学徒動員数は第6表にみることができよう。一九四五年七月までには三四三万二千人が動員されていたが、そのうち実際に業務に従事していたのは、前掲「終戦時における労務動員状況」(第3表)によると一九二万七千人であって、かなりのものが、帰郷しもしくは両親によって疎開させられていたのである。

朝鮮人・中国人労働者その他
 太平洋戦争中外地から集団的に移送され、就労させられた朝鮮人、中国人労働者の総数は明確に把握しがたいが、あとにみるごとく朝鮮人労働者は約八○万人(注1)(第7表の4)、中国人労働者は約五万人(注2)にのぼるものと推定されている。また前掲コーヘンの著書によれば、以上のほか、一九四五年三月現在における囚人総数五万一七五八人中の約五六%が軍需労働に就業し、同年八月現在の捕虜総数三万二四一八人中約六〇%のものがなんらかの労働に従事していたと指摘されている。

 産業部門別には、石炭統制会・日本石炭鉱業会調べでみると、最高時一四万五千人の朝鮮人・中国人が炭鉱労働者として就業していたことが知られ(第7表の2)、全炭鉱労働者中における朝鮮人,・中国人労働者の割合は三五・二%に及んでいた。造船業では、一九四四年八月現在数で囚人九八三二人、捕虜四三五二人とともに、保護少年五〇一人、中国人三〇六人(目本銀行調査局「最近の軍需産業における労務構成」一九四四年一月刊)が就労しており、また、同年一〇月および一一月の代表的八大造船所における従業者構成中朝鮮人・中国人労働者の地位は第7表の3のごとくであった。

(注1)一九三九年以後のものを含む推定数、朴在一著「在日朝鮮人に関する綜合調査研究」、一九五七年六月刊、および朝鮮大学校地理歴史学科「太平洋戦争中における朝鮮人労働者の強制連行について」一九六二年三月刊。
(注2)外務省管理局「華人労務者就労事情調査報告書、五分冊」一九四六年三月刊、および中国殉難者名簿共同作成実行委員会編「中国人強制連行事件に関する報告書、第三編強制連行並びに殉難状況」一九六一年四月。

 一九三九年以後終戦時までに、集団移入もしくは徴用により動員された朝鮮人労働者の総数は約八○万人と推定されており、また一方、同じ期間における一般渡来者数は第7表の4のとおりであって、一九三九年から一九四一年にかけて実に約四〇万人が渡来したとみられている。だが太平洋戦争の勃発は朝鮮人の内地への渡来事情を一変させた。すなわち、一九四一年度には一五万人の渡来者があったが、翌一九四二年度の渡来者数はわずかに二万人にすぎず、一九四四年においては、もし徴用動員の数をまちがいないものとするならば最小限約一六万余人が日本から引き揚げていたとみられ、この時期の朝鮮人渡来における特徴的事実は、一方における在日朝鮮人の引揚げと、それに倍する徴用朝鮮人労働者の日本への移送とであった。

 企画院の推定によれば、太平洋戦争勃発当時、わが国には一四六万九二三〇人の朝鮮人が居住し、そのうち七七万七千人が労働者であって、土木事業に二二万一千人、製造工業に二〇万八千人、鉱山業に九万四千人、沖仲仕等として二万七千人が従業していた。そして、朝鮮人労働者の集団移入は、まず炭鉱鉱山部門で一九三九年以来行なわれていたが、その後内地における労働力の枯渇化に伴って、重・化学工業部門における集団移入についても検討され、一九四二年二月の閣議決定「半島人労務者活用に関する方策」によ鉄鋼工場、土木建築業等にも朝鮮人労働者の集団供出が認められることとなり、同年度の国民動員計画のうえでも、朝鮮人労働者の内地移入予定数は、前年度の八万一千人から、一挙に一二万人に引き上げられた。

 右の閣議決定によれば、一七歳ないし二五歳の朝鮮人男子を選抜して訓練隊を組織させ、その組織のまま内地工場に移送し、おおむね二ヵ年を期限として帰鮮させるというしくみになっていた。朝鮮人労働者の集団移入および徴用について、日本炭鉱労働組合一〇年史編纂委員会編「参考資料」は次のように述べている。

 昭和一四〜一六年には各社は募集員を現地に派遣して直接募集を行ったが、昭和一七年以降は朝鮮総督府内に設けられた〔朝鮮〕労務協会〔一九四一年六月設立〕が主体となっての官あっせん募集に移行された。
 だが相次ぐ集団移入のために朝鮮における労力給源も涸れてしまい、割当数に対して七〜八割しか確保できない有様だったので、さらに昭和一九年九月朝鮮人に対しても徴用制が実施されるに至った。同時に従来は南鮮に限られていた募集地域がこのときから北鮮に拡大された。

 また、土木建築業における朝鮮人労働者についても次のごとく述べられている。
 

土木建築業においては一九四二年度一万六千余名、一九四三年度四万名、一九四四年度七万七千余名、一九四五年一・四半期四千五百余名の割当を行っている(「華鮮労務対策委員会活動記録」による)。土建労働者の連行取扱は厚生省より指定をうけた事業場(組)が朝鮮総督府と連絡をとり、募集員を派遣し、また土木工業協会の駐在員を朝鮮内に常置して総督府各道庁と募集員との斡旋を行い、また集団連行者の朝鮮内輸送に協力し、日本上陸地より事業場までの連行は東亜交通社と協力して行った。

 こうして北海道向けの北方軍要員の大部分はこれによって充足され、日発の水力発電工事用労働力、陸軍主要施設にも集団朝鮮人徴用労働者によって補充された(前掲「太平洋戦争中における朝鮮人労働者の強制連行について」)。

 右のごとく内地に移送されもしくは徴用された朝鮮人労働者は、現場において「強制された監禁と労役、非衛生的な状態」のなかにあって、満期日の時がきてもいわゆる「契約継続」を拒否することは事実上不可能であったし、それでもなおかつ「帰国を願い出た者は船便がないといいきかされた」のである(北海道炭砿汽船株式会社「七〇年史」)。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態
発行 1964年
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 東洋経済新報社
2000年2月22日公開開始


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