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法政大学大原社会問題研究所

日本労働年鑑 第59集 1989年版
The Labour Year Book of Japan 1989

序章 政治・経済の動向と労働問題の焦点


1 国際政治の動向

米ソ関係の進展
一九八七年二一月のINF(中距離核戦力)全廃条約の締結以降、米ソ関係は緊密化と緊張緩和の傾向がいちじるしく、八八年中に二回の両国首脳会談が開催された。五月二九日〜六月二日、レーガン米大統領がソ連のモスクワを初めて訪れて開かれた首脳会談では、これまでと同様に、軍縮、地域紛争、人権、二国間関係の四つの議題がとりあげられ、INF条約の批准書交換・発効、アンゴラからの南ア軍・キューバ軍の引き揚げとナミビアの独立合意などの成果があった。しかし、アメリカのSDI(戦略防衛)構想などをめぐる対立は解けず、戦略核交渉の進展もみられなかった。この年二度目の会談は、一二月七日午後、ニューヨークで開かれた。通算五回目にあたるこの首脳会談には、ブッシュ次期米大統領も同席し、戦略核兵器半減・欧州通常兵器削減などの軍縮交渉の早期合意・国連への協力の強化、地域紛争の解決促進などで一致がみられた。この米ソ首脳会談に先立つ一二月七日午前、国連総会で演説したゴルバチョフ書記長は、二年以内に全兵力の約一割にあたる五〇万人を削減し通常兵器も大幅に削減すること、一九九一年までに東欧から五万人.戦車五〇〇〇台を引き揚げること、モンゴル駐留軍の大部分を撤退させることなどを明らかにした。この演説は、過剰軍備の原則から合理的に十分な防衛力の原則への転換という軍事上のペレストロイカ(改革)路線を打ち出したものとして注目された。

進むペレストロィカ
 ソ連共産党は、六月二八日〜七月一日、全連邦党協議会を開催し、ゴルバチョフ書記長のペレストロイカ路線を内政面でもさらに一段と進めた。スターリン時代の一九四一年以来四七年ぶりに開かれたこの協議会は、(1)ソ連最高会議をこれまでの連邦会議と民族会議に加えて、党や労組、青年代表をふくめた三グルーブ制とし、名称も人民代議員大会に変更する、(2)今後これを最高意思決定機関とし、年一回開催、代議員の任期は五年とする、(3)人民代議員大会は、新設される連邦・民族二院制の最高会議の代議員五四二人を選出し、この代議員は職業議員として恒常的に活動する、(4)人民代議員大会は、国家元首にあたる最高会議議長(首相候補者の提案・国防会議議長の兼任など強大な権限を持つ)を選出する、(5)党書記長はじめ選挙で選ばれるポストの任期は最長二期一〇年にかぎる、などの重要な決定をおこなった。また、この協議会では六六人が発言し、毎日その要旨がテレビで放映されるなど、運営面でも開かれた党を印象づけた。
九月三〇日、共産党は中央委員会総会を開き、行政事務を政府機関に任せ、書記局を大幅に統廃合して六委員会に整理した。この会議で、保守派の実力者とみられていたリガチョフ政治局員兼書記がイデオロギー担当をはずされ、二八年間外相を務めたグロムイコ最高会議幹部会議長(政治局員)ら五人が解任され、翌一〇月一日に開かれた臨時の最高会議ではゴルバチョフ書記長の幹部会議長兼任が決まるなど、ゴルバチョフ政権の基盤の強化がはかられた。

米大統領選挙でのブッシュ候補の当選
八八年一一月八日、アメリカで戦後一一回目にあたる大統領選挙が実施された。達挙の結果、共和党のジョージ・ブッシュ副大統領が、マサチュー-セッツ州知事のマイケル・デュカキス民主党候補を破り、八九年一月二〇日、第四一代アメリカ大統領に就任した。得票率ではブッシュ侯補五四%、デュカキス候補四六%と小差だったが、選挙人の数では四二六人対一一二人と大差がついた。しかし、選挙自体の投票率は一九二四年以来の最低記録である約五〇%にすぎず、実際の支持は有権者の四分の一しかなかった。
共和党はこれで過去六回の選挙のうち、カーター当選を除いて五回の勝利を得たことになる。同一政党が三期つづけて政権を維持するのは戦後初めてであり、現職副大統領の当選は一五二年ぶりである。その要因は、INF全廃条約調印をきっかけとした米ソ関係の好転や経済状況の改善などレーガン前政権から受け継いだ遺産にある。「争点不在」といわれた選挙のなかでも、ブッシュ候補は、外交・国防分野で「強いアメリカ」を公約し、対ソ軍備管理・軍縮交渉の推進、MXミナイルの開発、SDIの実戦化などを打ち出した。また、内政では増税せず、軍事費や農業補助金も減らさないで財政赤字をゼロにすると公約し、保護主義に反対した。これらの公約の実現が容易ではないにせよ、日本にたいする軍事分担要求や、市場開放圧力がさらに強まることは確実とみられている。

西ヨーロッバの状況
フランスでは四月〜五月、七年に一度の大統領選挙がおこなわれ、社会党のミッテラン候補がシラク共和国連合総裁を破り、連続二期大統頷に当選した。ミッテラン大統領は保守内閣との共存を避けるために六月に総選挙を実施したが、単独過半数には届かなかった。ロカール内閣は保守・中道の一部を取り込んだものの、少数内閣のまま政権を担当している。
八八年一月に今世紀最長政権となったサッチャー首相のもとで、民営化による経済の再活性化がめざされているイギリスでは、三月に社会自由民主党が結成され、五月の統一地方選では労働党が躍進した。外国人労働者の帰国政策をめぐって意見の別れている西ドイツでは、極端な排外主義を打ち出している極右政党の地方議会進出が注目された。長い間不況状態にあったイタリア経済は八六年頃から上昇に転じ、八八年も順調な伸びを示した。これにともなって、八八年四月のゴリア内閣からデミタ内閣への政権交代があったものの、政治的な安定度も高まった。

東ヨーロッパの状況
ソ連におけるゴルバチョフ政権の発足とペレストロイカ政策の実行の影響を受けて、この数年間、東欧諸国は民主化要求の波に洗われてきた。そのうえ、経済不振や民族問題の発生などもあって、東ヨーロッバの状況は複雑な様相を示している。ユーゴスラヴィアでは、対外債務・失業・インフレなどの経済問題に加えて、コソボ自治州でのアルバニア人民族問題での対立が表面化し、二三人の幹部会員のうちの五人が辞任に追い込まれた。インフレと対外債務に悩むポーランドでも、八月には大規模なストを背景に三回にわたって内相とワレサ連帯委員長との円卓会議準備のための会談がもたれ、九月には内閣が総辞職してラコフスキ元副首相が首相に選出された。経済運営をめぐって意見の対立があったハンガリーでは、五月の社会主義労働者党全国協議会で三二年間在任していたカダル書記長が辞任し、新設された名誉職である党議長に就任した。後任のカーロイ・グロース首相は株式市場新設などの改革促進策を打ち出すとともに、年末の国会に集会・結社の自由化法案を上程するなど民主化をめざしている。八七年一二月に共産党書記長がフサークからヤケシュに代わったチェコスロバキアでは、一〇月になって、経済改革推進論者だったシュトロウガルからアダメッツに首相が交代した。

中国の動向
八八年の中国情勢で注目されるのは、大幅な人事異動、インフレの加熱、中ソ関係の正常化である。三月一五日〜四月一三日に開かれた第七期全国・人民代表大会(全人代)第一回会議は、人事面で、李鵬首相代理を正式に首相に選出し、副首相を五人から三人に滅らして呉学謙外相などをあて、その後任に銭其[ちん]外務次官を昇格させ、国家首席に楊尚昆党中央軍事委常務副首席を、全人代常務委員長に万里副首相をそれぞれ新たに選出するなど、大幅な人事交代をおこなった。経済改革面では、私営や土地使用権の譲渡を認める憲法の改正、企業所有権と経営権の分離や工場長責任制などを導入した国営工業企業法の採択、最大の経済特区として優遇政策がとられる海南省の設立などがおこなわれ、国務院の省・委員会の統合など政府機構改革も進められた。また、「差額選挙」(複数候補者制)や無記名投票制がひきつづき採用され、投票総数二八八三票のうち、楊国家首席に二一四票の反対が投ぜられて注目された。
ここ数年つづいてきたインフレ傾向は八八年に入ってますます強まり、経済改革の最大の障害になろうとしている。八八年の物価上昇率は一七〜一八%にも達し、加熱しはじめたインフレの抑制が当面の最大の課題になってきており、経済改革路線修正の動きも浮上しはじめた。
中ソ関係では、一二月一〜三日、銭其[ちん]外相がモスクワを訪問して三一年ぶりに中ソ外相会談が開催された。この会談で双方は、八九年前半に北京で中ソ首脳会談をおこなう、両国関係を完全に正常化するなどの点で一致し、関係正常化に向けての動きが強まっている。

ソウル五輪と朝鮮半島情勢の変化
八八年の朝鮮半島情勢で注目されたのは、九月一七日〜一〇月二日、一六〇カ国・地域の参加という史上最大の規模に達したソウル・オリンピックの開催である。このオリンピックを契機に、盧泰愚大統領が二月の就任早々から推進してきた中・ソ・東欧圏との「北方外交」が新たな展開を示した。オリンピック期間中・ソ連船やソ連機の初入港・初飛来、中ソ・東欧圏への自動電話の開通など東側諸国との交流は一気に拡大した。一二月二日には、八九年前半に貿易事務所を相互に開設するとの協定が結ばれるなどソ連との交流拡大はめざましく、ハンガリーとは、両国商工会議所の経済協力業務協定の締結や常駐代表部設置と大使派遣、ユーゴスラヴイアとの貿易事務所の開設、ポーランド・ブルガリアとの貿易事務所の相互設置の合意など、東欧向けの直接貿易も拡大した。さらに北朝鮮への配慮から慎重な構えをみせる中国への韓国企業の進出も活発化し、初の観光団の訪中や釜山−上海定期貨物船航路の開設などがあった。
これらの「北方外交」展開にうながされるように、南北朝鮮間の対話も、盧大統領の南北主脳会談のよびかけ、南北国会予備会談の開催、南北学生会談の動きなど新たな進展を示した。しかし、北側は五輪テロ否定声明を出したとはいえ五輪そのものには参加せず、南側も全前大統領一族不正問題、光州事件の解明、民主化への巻き返しや労働争議の高まりなど数々の問題をかかえており、今後も紆余曲折があるものとみられている。

地域紛争の解決
八八年には、イラン・イラク戦争、アフガン問題、カンボジア和平など、長年にわたった地域紛争の解決に向けて、重要な動きがあいついだ。まず、すでに受け入れを表明していたイラクにつづいて、七月一八日、イランも即時停戦を呼びかけた国連安保理決議の受け入れを表明し、八年にわたり両国で一〇〇万人に達するとみられる死傷者を出したこの戦争は、八月二〇日午前三時の停戦によってひとまず終結した。八月二五日から、両国の直接和平交渉がはじまったが、国境線の確定・捕虜の釈放、戦争開始責任などをめぐって対立し、交渉は難航している。同じく年余にわたって一〇万余の兵士と近代兵器が投入されたソ連のアフガニスタン軍事介入も、四月一四日にアフガニスタン・パキスタン間接和平交渉の決着によって基本的な解決がみられた。五月一五日から八月一五日までの半数撤退、その後九カ月以内の撤退完了を定めた「アフガニスタン情勢解決のための相互関係に関する協定」など四協定の調印によって、これは最終的に決着したが、国連の仲介、米ソの保障という形での紛争解決は初めてのことである。
カンボジア和平については、七月に、ヘン・サムリン政権、民主カンボジア、ベトナム、ラオス、ASEAN六カ国が参加してジャカルタ会談が開かれた。協議の結果、実務作業グループを設置して政治解決に向けての問題点を検証することなどが決定され、一一月にはパり郊外で、これまで敵対してきたカンボジア各派指導者の直接対話ももたれるなどの進展があった。

その他の第三世界の状況
その他の第三世界の動きとして、とくに注目されたのはビルマでの政変である。三月一三日の治安警察の発砲に端を発した大規模なデモや抗議行動は六月から九月にかけてエスカレートし、唯一の政党であるビルマ社会主義計画党(BSPP)に二六年間君臨したネ・ウィン議長の辞任とセイン・ルイン新議長の選出、八月の戒厳令発動とマウン・.マウン新議長への交代、九月のソウ・マウン国防相兼参謀長の実権掌握と国家法秩序回復評議会の発足と、あいつぐ政変を引き起こした。この間、九月一〇日、BSPPは緊急臨時党大会で複数政党制の導入と三カ月以内の総選挙実施を決議し、この選挙に向けて、九月二六日、民族統一党と改名した。他方、アウン・サン・スーチー女史などの反政府勢力側も全国民主連盟(NLD)などを結成し、選挙準備を進めている。
長年の懸案となっているパレスチナ問題でも新たな展開があった。パレスチナ人の国会にあたる民族評議会(PNC)が一一月にアルジェで開かれ、パレスチナ独立国家の樹立を宣言するとともにイスラエルの生存権を間接的に認め、テロ活動を否定した政治宣言を採択した。この宣言によってPLOの穏健化を確認したアメリカは、一二月に入ってからPLOとの直接対話に踏み切った。
以上のほか、アンゴラからのキューバ・南ア両軍の撤兵とナミビア独立手続きの開始合意、西サハラでのモロッコ・ポリサリオ戦線両当事者の国連調停案の原則的受け入れ、スーダン南部での反政府ゲリラとの停戦協定の締結、台湾の蒋経国総統兼国民党主席の死去と李登輝副総裁の昇格、パキスタンでのハク大統領事故死とベナジル・ブット女史の率いるパキスタン人民党の一一年半ぶりの総選挙での過半数獲得、首相就任、チリ・ピノチェト大統領信任投票での不信任などの動きがあった。

日本労働年鑑 第59集
発行 1989年6月26日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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