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日本労働年鑑 第50集 1980年版
The Labour Year Book of Japan 1980

第二部 労働運動

XIV 政党


2 統一地方選と共闘問題

1 都知事選をめぐる各党の動き
太田出馬表明と社会党

 第九回統一地方選における最大の焦点は東京都知事選であった。美濃部知事は早くから四選不出馬を表明していたから、候補者の選考は各党にとつて重大関心事であり、各党間の共闘問題ともからんで複雑な動きを示した。

 こうしたなかで、いち早く出馬を表明したのは太田薫合化労連委員長で、七八年二月一六日の合化労連の中央委で立候補の決意を明らかにした。合化労連も総評指導部もこれを支持し、七八年七月の総評第五七回大会は太田擁立を正式に決定するとともに、社会党にたいし太田氏を候補者として認めるよう、たびたび要請した。

 これにたいし、社会党の飛鳥田委員長は、太田氏では〃幅広い支持〃を得ることが困難であるだけでなく、社会党員である太田氏が党機関との相談なしに出馬表明をおこない、既成事実を積み重ね、党が主体的に候補者を選考することを困難にしているとして批判的であった。そして社会党としては都留重人一橋大名誉教授に再三の出馬要請をおこなうとともに、一二月一四日、太田氏へは問題を「党に白紙一任」することを要請した。しかし、太田氏は合化労連や総評の決定をタテに、これに難色を示した。これにたいし、飛鳥田委員長は、場合によっては委員長辞任あるいは委員長自身の立候補もありうるとの「重大決意」で太田氏を拒否する方針を固めたと報じられ(『朝日新聞』一二月一七日付)、事実、七九年一月六日には太田氏を名ざしで批判し、これを拒否する委員長見解、いわゆる「飛鳥田メモ」を公表した。

社・公・美濃部三者会談

 一九六七年に美濃部革新都政を成立させて以来、社会党とともに都議会与党を構成してきた共産党は、候補者問題を「明るい革新都政をつくる会」で検討するよう主張し、社会党にも党首会談を開くようたびたび申し入れた。しかし社会党は公明党との提携を重視して、これには容易に応じなかった。一方、七八年四月二七日には美濃部知事の呼びかけで社公両党委員長と美濃部都知事のあいだで「三者会談」が開かれ、候補者問題が検討された。この「三者会談」は七月二〇日にも再度開かれた。この席で竹入委員長は三者会談にたいする公明党の方針をつぎのように述べた。(1)総評の太田擁立決定は都民不在、組合先行の決定で、三者会談に障害を持ち込んだ (2)社会党が党三者会談に相談なく都留氏に出馬要請したのはルール無視だ (3)共産党をふくむ共闘は考慮外であり、その事態になれば三者会談は御破算であることを三者会談の条件として言明してきたが、社会党の「確約は得られていない (4)現状では三者会談は実効がないのでしばらく凍結した方がよい (5)公明党として新たな次元で候補者選考の方法を模索したい (6)ただし、三者会談ルールの提案者である美濃部都知事との話し合いは継続する (7)社会党との共闘を断念したわけではなく、今後もその努力を払う。これにたいし社会党の飛鳥田委員長は、(1)太田、都留両氏も有力な候補の一人である (2)三者会談の結論はあくまでも尊重する、などの見解を提示した。結局、三者は、(1)次の会談は秋口に開く (2)それまでの間、両党は独自性と主体性をもって党内意見を調整し、模索する (3)三者が絶えず連絡を取り合う、で合意するにとどまった。

中道四党と候補者選考

 これより先、七八年五月二三日、七月一一日の二度にわたって公明、民社、新自由ク、社民連の中道四党は党首会談を開いて、当面する政治課題について意見を交換した。第二回の会談では、都知事選の候補者選びが主要テーマになり、民社、新自由ク、社民連の三党は中道四党で候補者の選考をすすめることを主張したが、九日後に第二回の「三者会談」をひかえていた公明党は「承るだけ」と即答を避けた。しかし「三者会談」後の九月八日に開かれた三回目の中道四党首会談では、公明党は中道四党で都知事選の候補者の選考にあたることに積極的な姿勢を示し、四党は九月中にも統一候補を決めることなどで合意した。だが、実際には中道四党の足なみは容易にそろわず、四党の選対委員長会談および都本部レベルの会談が一回ずつ開かれただけで年を越してしまった。

太田氏で社共共闘成立

 太田氏とともに社会党が「有力候補の一人」として名をあげていた都留重人氏は、社会党都本部を中心とする出馬要請を固辞しつづけた。さらに、七八年一二月九日には飛鳥田委員長が直接都留氏に会って説得したが承諾は得られなかった。さらに一二月二六日には都留氏が記者会見で正式に不出馬を表明したことによって、飛鳥田委員長らの〃太田おろし〃は頓挫した。かわって登場したのが後藤喜八郎武蔵野市長であった。すなわち、七九年一月五日、社会党武蔵野総支部は都本部三役の要請で都知事選候補者として後藤氏の擁立を決め、これをうけて後藤氏も正式に出馬を表明した。前述の〃飛鳥田メモ〃が公表されたのは翌六日のことであった。

 一月八日、これまで候補者問題については「明るい革新都政をつくる会」で政策問題とあわせて検討すべきであると、一般原則を主張するにとどまっていた共産党が、事実上太田支持の態度を明らかにした。ただし、無条件ではなく「社会党員である太田氏が党籍を名実ともに離脱して革新無所属となるならば、革新統一勢力の共同の候補者の一人として検討できる」というものであった。さらに一月一二日には総評、中立労連、新産別の労働三団体も太田支持で一致し、社会党に党大会前に決着をつけるよう申し入れた。

 一方、翌一三日の社会党東京都本部の執行委員会は後藤擁立を決定し、党中央に上申した。ただし、一部に太田支持があったことも併記され、党中央で候補者の一本化をはかるよう求め、中央の決定に従うことを誓っていた。

 一月一六日、太田氏は槇枝総評議長立ち会いのもとで多賀谷書記長に会い〃飛鳥田メモ〃の批判にこたえて、一方的な出馬声明など党イメージに影響を与えたことを陳謝し、(1)党の主体性を守る (2)都政にかんする政策に不充分さを認め、参加、分権、自治の都市デモクラシーの再生に努める (3)美濃部都政の継承発展へ努力し、今後の処理は党機関の決定に一任する、の三点を約束した文書を提出した。同日、後藤氏も多賀谷書記長らに会い、出馬の意思を伝えるとともに、最終的には党の決定に従うとの意向を表明した。こうして翌一七日の社会党臨時中執委は太田氏の推薦を正式に決定し、かろうじて大会前に、長期間の紛糾に決着をつけた。二月五日、太田氏は社会党を離党。同八日、共産党は太田推薦を正式に決定した。同一三日、「明るい革新都政をつくる会」の幹事会は太田氏を推薦し、同候補の確認団体となることを決定した。

自民・公明・民社で鈴木擁立

 中道四党による候補者選考は、新自由クラブが早くから牛尾治朗ウシオ電機社長を推していたが、他党の同調は得られないまま時間が経過した。ただ、この間に中道四党と自民党との話し合いが都議会レベルで進行し、七八年一二月一六日には統一候補擁立の大筋で合意をみた。問題は具体的な人選で、永井道雄元文相、高木文雄国鉄総裁、磯村光雄都副知事、鈴木俊一元都副知事、それに牛尾治朗氏らの名があがったが、調整は難行した。そうしたなかで一月八日、公明、民社両党が都連段階で鈴木俊一公営企業金融公庫総裁を推薦することで合意し、自民党もこれに同調したことで、大勢は決した。新自由クラブは牛尾擁立に固執したが、自民党の支持も得られず、逆に大平首相まで乗り出して鈴木支持の説得工作を受け、結局、牛尾氏の出馬断念によって幕となった。こうして最終的には、東京都知事選は自民、公明、民社三党の推す鈴木俊一氏、社会、共産両党と革自連の推す太田薫氏、それに「無党派」を標榜して立つた麻生良方氏の三つ巴の争いとなった。

日本労働年鑑 第50集 1980年版
発行 1979年11月10日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2001年9月25日公開開始


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