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日本労働年鑑 第28集 1956年版
The Labour Year Book of Japan 1956

第二部 労働運動

第三編 農民運動


第四章 土地闘争・軍事基地反対闘争

第二節 土地闘争・接収反対闘争の展開
茨城県勝田町未墾地解放闘争

 勝田町は水戸市に隣接する町で、日立製作所が農村地帯につくった小都市である。一九三九年に水戸工場設置のため農民は土地を取上げられ、戦後農地改革で耕地三〇町、山林五四〇町が解放された。日立製作所は戦後急激に経営を縮少し、一時は一万名の労働者を数えた水戸工場は三千名に、七千六百を数えた傍系会社日立工機は千三百人に減少し、一時に一万人近い失業者が出た。朝鮮動乱後、町には保安隊が招致され、また戦前陸軍の水戸飛行場(現在占領軍使用中)に航空自衛隊を誘致しようとの計画が、町会議長を中心に町当局によってすすめられている。以下日農統一派機関紙「農民運動資料」第六五号(一九五五年一月)によって、この勝田町における未墾地解放闘争の経過を記述しよう。

 戦後工場から排出された多数の失業者や農家の次三男は日立製作所や自衛隊または県町の都市計画にもとずく失対事業に雇われている。とくに日立は社外工として、土建業者を通じて彼らを多く使用している。これらの失対事業日雇や社外工は日賃銀も就業日数も少いので、何とかして安定した職業か土地を得たいとのぞんでいる。一九五〇年七月レッド・パージで日立を整理された労働者を中心に失対事業現場に自由労組がつくられたが、五三年七月には自労の中で開墾入植希望者一三人が集り、四〇町歩の解放計画を作り、労働省に交渉したが失敗した。しかし八月下旬には土地を求める貧農の要求がこれに合流し、同九月には七支部八〇名の親交会が生れた。これが五四年初めには更に成長して一二〇名を越える会員を擁するに致った。

 九月二三日親交会は同町外野部落の山林一六〇町歩の解放指定を町農業委員会に申請した。この部落の山林は四〇町歩をもつ町会議長と、一三町歩をもつ山林地主のほかは、大部分二町以下の零細な農民的所有者によって所有されていた。この親交会の解放申請に応じて他の二部落の農民も申請書を農委に提出した。

 さて右の解放要求に対し町農委は専門委員会による調査を始めることに決定したが、一向に進捗せず、五四年三月に至って漸く七○町歩解放案がまとまった。しかしこれも地主側の圧力で公表されず、四月末に外野部落八二町歩中一〇町歩だけ、それも入植を許さずに増反だけ許可するとの決定が公表された。これに対し、この解放闘争の中心的働き手である自労の組合員は年末闘争、組合大会等のために計画的な未墾地解放闘争の体制が確立できず、他方親交会に対する警察の妨害(駐在の戸別訪問)によって農民の結合がくずされて行った。そしてこの間、町会議長を中心に外野部落の山林を自衛隊に売却する計画がすすめられた。「本年一月一五日、木村保安庁長官が勝田町に来たとき自由党の塚原代議士や永井県議のとりもちでこの話がもち出されたのであった。彼等は下からの農民運動の昂揚に対し、再軍備の勢力吉田政府の売国政策に身をまかせ、町を軍都にし、地価をつり上げ、土地を売りにげすることによってのみわずかに自分の利益を守ろうとしたのである。」(同上二九ページ)。かくて七月一五日には自衛隊との仮調印がおわった。この時日立労組、日本工機労相、国鉄労組、全専売、茨城交通労組等を中心とする演習地反対期成同盟や河北農民同盟、親交会等の反対闘争が始まり、又他方、小地主達は換地に関する町会議長の態度に不満を感じ、対立が表面化した。親交会は日農第八回大会で決定された方針にもとずき、大山林地主=買弁勢力と小地主とを区別し、前者を主要な敵として攻撃した。この闘争と日立労組を中心とする反対期成同盟の活動等で、小地主が町会議長と対立しはじめたのである。

 ところが、六月頃親交会の一支部一四名より「組合長が共産党員だから取れるものもとれない」との理由で脱退を申込んできた。さらに河北農民同盟支部を作ろうとする農民達の動きと合流して親交会員中八〇名の農民が脱会して勝田農民組合がつくられ、ここに一時は一二四名を数えた親交会は僅か一四、五名に減少した。前掲「資料」はこの未墾地解放闘争の失敗、組織分裂の原因をつぎのようにのべている。

 一、農民の気持は農民でなければ分らないといったおくれた農民の感情を、そのままの形で受け入れて農民だけの組織をつくろうとした河北農民同盟の農民活動家にみられる古い農民活動家の農民主義の残りカスである。

 二、日製労組や日立工機労組などの労働組合との共同闘争が、きわめて不充分にしか展開しなかったこと。このことは再軍備反対闘争−軍事基地反対闘争が、失業者の職よこせ、貧農の土地よこせという具体的な生活を守る闘争として結びつく要素をたくさんもち、さらに、米日反動の戦争経済に対する国民の生活を守り、生活を向上させていく平和経済闘争の具体的な展開という方向に闘争の芽を発展させていくことができなかったことである。

 三、親交会自身、アカの団体という印象を町民に与え、農民の中に系統的にその組織を拡大していく方向に活動がおこなわれなかったこと。

 四、未墾地解放闘争が親交会の内部の自労の労働者たちの請負う形でおこなわれ、しかも営農資金よこせとか、その他に色々な農民の要求を一、二回だけはとりあげて討議して要求をだすが、それっきりになってしまい、農民自身が闘う方向に指導しなかったということと、労働者自身が親身になって農民の要求を聞いて、手のとどくような世話役活動がなされなかったことである。

 五、敵を孤立化させる方向に闘争をもっていくことができなかったこと。
 六、闘争をくむ前に全然調査活動がされていなかったこと。

 このように分裂によって闘争は極度の困難におち入ったが、その後演習地反対期成同盟の農村工作も少しづつ進み、親交会と勝田農民組合の共同行動による演習地反対署名運動も千百票の署名を得るなど、わずがながら前進している。他方また、外野部落八二町歩中五一町を自衛隊にとられ、残る三一町歩を小地主と親交会、農民組合と争うことになれば未墾地解放闘争は完敗になるわけである。いずれにしろ、勝田町の闘争は労農同盟の進め方について「貴重な教訓」をなすものである。

茨城県野田奈川干拓地解放闘争

 茨城県稲敷郡浮島村野田奈川干拓地一七〇町歩の解放について、二四〇名の干拓農民は買収期成同盟をつくり、五四年六月より県および農林省当局と交渉をはじめた。七月一日の現地協議会では売渡し価格について結論が得られず同盟委員長、常東総協書記らは上京、農林、建設両省、会計検査院当局と折衝を重ねた。七月六日の協議会では、村長私案として反当三、五〇〇円が提示されたのに対し、免許権者は当初二−三万円を引下げたが一万円案を主張して譲らず遂に物訣れとなった。一一日の第二回協議会では同盟側二、〇〇〇円に対し業者側五、○○○円の意見が対立したまま容易に妥結せず、二〇日の第三回交渉でも免許権者側は五、○○○円案を譲らず、激しい論議が行われた。八月一日村役場における交渉でも容易に業者側は譲歩の色をみせなかったが、夜に至り遂に、野田奈川の機場、耕地一切をふくめて、反当四、〇〇〇円で農民側に売渡すことに妥結した。なお干拓に要した費用一切は免許権者たる土建業者の負担となり、当初の業者側の提案反当二−三万円が大巾に引き下げられて、干拓同盟の勝利に終った(「常東農民新聞」一九五四・八・一〇第三号)。

鹿児島県志布志の接収反対運動

 鹿児島県噌唹郡志布志町外四ヵ町村にまたがる保安隊演習場一、○○○町歩設置のための土地接収は一九五三年より保安隊と現地農民との間に折衝が行われてきたが、農民、地元村民は一致してこれに反対し、一〇月には接収反対大会が開かれ、ついに保安隊は本年接収要求を撤回することになった。(「開拓農民新聞」一九五四・二・一第七七号)。

茨城県土浦地区接収反対運動

 茨城県土浦市右籾町第一開拓農協稲敷郡阿見町阿見開拓農協、東茨城県山根村開拓農協の三地区を、一九五三年二月より保安隊の演習場、射撃場、飛行場用地として接収するため、隊による意向打診が行われていたが、一二月一二日県開拓者同盟と前記三組合は接収問題打合会を開き、絶対反対の意向を固め対外折衝は全て同盟が行うことに決めた。同盟は現地農民の委任状をとり、県段階と全国段階で接収反対運動を展開することになった。(同上紙)

千葉市下志津防空学校開設反対闘争

 終戦前の下志津飛行学校跡は、戦後国有財産として大蔵省の管理下にあったが、全面積八五町歩のうち三〇町歩は、一九四六年以来、若松開拓農協、キリスト開拓農協、三愛開拓農協等が開墾営農して来たものである。防衛庁は防空学校敷地としてこの地区一四万坪に建設計画をすすめ、高射砲の操作訓練を行うといわれているが、地元民はこれに対し絶対反対の強硬態度を表明、社会党両派県連、県開拓連、全農県連等はこれを支持、統一行動をもって、「第二の妙義山事件」になっても反対すると、七月二一日千葉市における防空学校開設反対農民大会のあと地元民各団体代表者は県当局、農林大臣外関係当局に陳情した。

長野有明原接収反対闘争

 長野県南安曇郡有明村の開拓地を保安隊の演習場として使用するため、保安庁は本年一月二〇日安達南原開拓組合長を松本部隊に招致し、買収交渉を始めた。村農地委員会は、開拓用地として払下げた土地を農地以外に使うと自作農創設特別措置法に違反するとの見解をとり、買収賛成者に通達を出して警告した。郡青年団連合会も開拓地の接収に反対し、郡婦人団体連合会も同様反対の意思表示をした。同時に日農、国鉄、その他労組も一致して反対運動を展開した。

日本労働年鑑 第28集 1956年版
発行 1955年11月20日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社
2002年3月5日公開開始


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