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日本労働年鑑 第27集 1955年版
The Labour Year Book of Japan 1955

第二部 労働運動

第四編 その他の社会運動


第四章 人権擁護運動

第五節 四つの騒擾事件
メーデー事件

 メーデー事件公判は五三年二月四日から再開された。五二年秋来裁判所の八分割審理方針に反対して闘って来た二五三名の被告人は、同年末に統一公判方式で審理を進めることにつき裁判所と弁護人の間で話合いがついたので、新たに担当裁判官となった浜口清六郎裁判長以下六名の裁判官の下で審理再開の運びとなったわけである。

 この間、被告は長い間の釈放闘争の結果五二年末から次第に釈放され、五三年七月には全負が釈放されるに至った。被告総数は二五八名である。

 全員一〇六名の多数に上る文化人労組関係者が特別弁護人になり裁判所は五月にその中わづかに七名を許可したことから、被告、弁護団はその数の少ないことを不満として強硬に接渉した結果、六月五日更に一〇名を許可し、計一七名が法廷に立って被告らの無罪を主張し、警察官の暴虐を攻撃した。その氏名は次の通りである。

 山之内一郎(東大教授)阿部知二(作家)服部之総(歴史家)細川嘉六、村越喜市(国民救援会)堀江邑一(日ソ親善協会)鈴木東民、平野義太郎、柳田謙十郎(哲学者)岩崎昶(映画製作者)代永重雄(池袋職安)渡辺三知夫(世界労連)尾形昭二、井上勤(都高教組)櫛田ふき(婦人民主クラブ)省k根(朝鮮民戦)久保田豊(日農)

 被告団は活版タブロイド版の機関紙「人民の広場」を半月刊で発行して法廷闘争の模様や、法廷外の救援運動の発展を伝えた。

 九月二二日、裁判所の行った証拠決定に関連して被告弁護側は裁判官三名の忌避を申立て、ために公判は翌五四年二月まで停止されるに至った。この間、公判闘争の長期化に伴い被告団は生活の上でも財政の上でも益々困窮したが、一一月にメーデー事件の宣伝を含めて広汎な歳末資金カンパ運動を起すことを決め、一二月末迄の間に三〇〇〇人以上の協力をえて二三万円余のカンパを集めて成果を収めた。

平事件

 四九年六月三〇日、当時の中小炭坑の危機と人員整理反対闘争の最中に、これらの闘争の経過を指導していた平駅前の掲示板の撤去命令に反対して平市の炭鉱労働者は平市署に交渉に赴いたが、これが騒擾事件として起訴され、爾来一五八名の被告は苦しい公判闘争を続けて来た。すべての被告が失職し、しかし被告であることを理由とする就職拒否のなかで、常磐炭鉱の荒廃を背景とする被告たちの闘いは困難をきわめたものであった。五三年一〇月に入って四年余の公判闘争は漸く検事側証人二百余名の尋問を終え、被告弁護側の立証段階に入った。

 一〇月二〇日、被告団は「被告弁護団の立証に入るに際し、平事件について訴えます」と題して次のようたアピールを発表し、各方面に訴えた。
 平事件(昭和二四年六月三〇日)が発生してからもう四年以上過ぎました。公判は検事側の申請の証人二百余名の尋問を終えていよいよ被告弁護団側の立証段階に入りました。

 去る一〇月一二日別紙のような冒頭陳述を行い、私たちの立証段階に入りました。平事件とは冒頭陳述でも指摘しましたように松川事件に二ケ月先立って起きたもので当時全国の労働者から激れいされていた矢郷炭礦の労働者をはじめ、常磐地方の労働者に対する全くのいいがかりで、多ぜいの組合活動に従事していた労働者を経営・組織から追出すための陰謀でありました。即ち矢郷炭礦労働者の闘いを支持し、真実を訴えていた掲示板を何の理由もなしに暴力で撤去しようとした官憲側に対して私たちは憲法で保証されている民主主義的自由を守るためにあくまで平和的に事態を解決しようと交渉を行ったのに対して二百余名が逮捕投獄され、騒擾罪として一五八名が起訴されたものであります。私たちはその後平事件の被告であるという理由で職を奪われ、愛する組織からも追放されてこの四年間、言葉では云いつくせない苦難な生活とそれにつけこむ懐柔や誘惑におそわれてきました。而して私たちは日本労働者の名誉にかけて固い団結を守り、生活の苦難と闘い乍ら公判闘争を進めております。現在日本の労働者階級を始めとする全国民の民主的自由を奪いつつある弾圧の嵐に抗して日本の平和的繁栄と独立と民主的自由を守るために吉田政府の戦争政策に対し敢然と闘っている貴殿に対し真心からこの敬意を表し激れいの言葉を送ります。

 私たちも皆様の御支持を確信して今後の公判闘争を強力に進めてゆく決意であります。

 何卒今後共旧来に倍して御指導と御鞭たつを賜わらんことをお願します。

大須事件

 五二年七月七日、名古屋市大須球場で開かれた帆足、官腰両氏帰朝歓迎報告大会は、一万余名の参会者をえて日中貿易促進の気勢をあげたが、散会後、ヂモに移った会衆は警官隊と衝突し米軍自動車の炎上、警官の拳銃発射、一朝鮮青年の射殺、等をみるに至った。この大須事件を名古屋地検は騒擾罪であるとして名古屋地方に一五〇名の労働者、朝鮮人、学生を起訴した。公判は五二年九月一六日から開かれたが多数被告の審理の方式はメーデー事件の場合と同様に容易に確立せず、翌五三年九月迄は検察官の選んだ指導者グループ二〇名のみが出廷して証拠調をする方式が採られていたが、被告団は一致して統一公判を要求し、その頃からメーデー事件と略同じ形式で被告人全員が出廷する方式にあらためられた。この間、裁判所は被告人側の要請を容れて首魁指揮等の被告についても再度にわたって保釈の決定を行ったが検事の反対で取消され、五四年三月に至って漸く全員の釈放をかちとった。五三年六月頃、獄外被告団が正式に結成され、財政宣伝等の仕事にとりかかり、七月七日には市内労働会館で一週年記念の反ファッショ講演会を開き、名大長谷川助教授らが市民に訴えた。

吹田事件

 五二年六月二四日、大阪府下豊中市で開かれた朝鮮動乱発生二週年記念日前夜祭は千名の会衆を集めて軍事基地粉砕、軍需輸送粉砕等が決議されたが、同日深夜に二手に分れて開始された会衆のデモ行進は国鉄吹田操車場を中心として警察官と衝突し、吹田駅構内では拳銃発射により大混乱を起したが、この事件は騒擾罪として一一〇名の労働者、学生、朝鮮人等が大阪地裁に起訴された。第一回公判は五二年九月一一日に開廷されたが、大須事件、メーデー事件等と異って当初から全被告一堂に会する完全な統一公判の形式で行われた。被告、弁護団側は本件は憲法擁護のデモ行進に対する警察官の不当な襲撃に端を発したもので被害をうけたのは警官乃至駐留軍関係者のみであるから騒擾罪にならないと主張して公判闘争を続けて来たが、五三年七月二九日第二九回公判において、朝鮮人被告姜淳玉の首唱により全被告が同月二七日に成立した朝鮮休戦を祝い、同時に戦乱にたおれた人に感謝するための黙祷を行い、佐々木哲蔵裁判長が検事の反対を斥けてこれを禁止しなかったことに端を発し、八月二日には大阪地検主脳部が上京して最高検に訴え、同時に衆議院法務委員会、裁判官弾劾訴追委員会にもこれが裁判の中立性を害するものとして適切な措置をとるように申入れたので、ここに吹田黙祷事件として注目されるようになった。法務委員会が八月六日に調査を開始するや、佐々木裁判長はこれが裁判の独立を害するものとして反対の意見を表明し、更に訴追委員会は八月一一日大阪高裁に三人の委員を派遣して調査をしたが、佐々木裁判長はこれに応ずることを拒否し、大阪高裁安倍長官も反対意見を述べ、吹田事件被告団、弁護団はもとより、全国司法部職員労組大阪支部もこれに反対し、他方自由党総務会は訴追委の行動を支持したが、現実にその調査に応じたのは検事だけであった。

 全司法大阪支部の組合員はこの調査を目して司法権の侵害であるとし、調査の中止方を申入れ聞き入れられなかったので制止を排して高裁長官室に入ったため武装警官が裁判所構内に入る騒ぎを起した。このため一〇月一七日に大阪支部の組合活動家八名は懲戒免職処分に付せられた。

 その後、訴追委は一〇月一二日から三日にわたって現地調査を行う方針を定めたが、これに対しても大阪地裁裁判官会議は反対を声明して記録の提出を拒否し、更に高裁会議室の使用も拒否したために、訴追委員は大阪高検会議室に移らざるをえなかった。

 尚問題の起った二九回公判において被告三帰省吾につき検事側は公判分離請求を出したが、その前に三帰被告自身から裁判所に提出されていた分離請求の上申書を弁護人も知らない間に検事側が読んでいた事実が明らかになり、検事側は弁護団からはげしい攻撃をうけた。

 三帰被告の分離問題や黙祷事件について五三年八月七日、被告団は要旨次の様な声明書を発表している。
 朝鮮の休戦は成立した。世界の平和勢力はアメリカ帝国主義者を先頭とする戦争屋共を極東の一角でぶち破った。

 民主主義と自由、平和と独立を求める人民の闘いは全世界にみなぎり朝鮮からアメリカの撤退を余儀なくさせた。だがアメリカ帝国主義者は世界侵略の野望をすてず、日木を前線基地とし、第二の朝鮮にするために軍事基地化と再軍備を一層激化して来ている。彼等のあがきとあせりは暴力支配以外にないことを益々国民の前にバクロして来た。吹田事件公判に於ても此の事は最近益々顕著になって来た。検事共は三帰省吾に系統的悪質な拷問を加えデッチ上げの声明書と分離請求書を作り、初め山田弁護人を通じて分離を出してきたが、被告団、弁護団にその陰謀をたたかれ、今度は検事自らが出して来ている。更に黙祷を裁判官が禁止しなかったといって裁判官にくってかかっている。そして公判後直ちに大阪地検市丸検事正と公判部藤田主任検事は佐藤検事総長の所へ行って指示を仰ぎ、各種商業新聞を動員し、裁判官に重大な対決を迫るとかきたて、憲法と民主主義を破って暗黒裁判を強行しようとしている。此の法廷に破防法が適用されているとかつて山本弁護人が叫び、佐々木裁判長が吉田政府の政治的圧迫に対して民主主義と司法権を守るといったことは極めて当然の事であって吾々は如何なる者と雖も民主主義を守る者を支持し、ファッシズムと戦争に反対する。吾々は全国民と共に益々確信を深め、平和と民主主義の闘いを正々堂々とおし進めるものである。」

日本労働年鑑 第27集 1955年版
発行 1954年11月5日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社
2001年10月16日公開開始


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