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日本労働年鑑 第27集 1955年版
The Labour Year Book of Japan 1955

第二部 労働運動

第四編 その他の社会運動


第二章 基地反対闘争

 全国各地にばらまかれている七〇〇余のアメリカ軍基地とりのけ闘争は、この年の最も目ざましい国民的運動の一つであった。富士山麓、若狭湾、九十九里浜、妙義、浅間などその代表的なあらわれも少なくないが、とくに内灘の闘争は、それらの先頭に立って最も果敢に長期にわたって闘われたものとして高く評価さるべき運動であった。「金は一年、土地は万年」のスローガンで闘った内灘の闘争は、全国の基地とりのけ闘争にはかり知れない激励を与えたばかりでなく、生活防衛運動と基地地反対運動との関係、反封建闘争と民族独立運動との結合、労農同盟、民主主義と平和の問題等、無数の重大な問題にたいして国民に無限の教訓をもたらしたものであった。以下、信頼しうる資料にもとづいて内灘における基地とりのけ運動の経過を概観することにしよう。

 なお終りに、参考にした各種の文献資料の目録をつけた。ここに取上げることのできなかった内灘以外の基地反対闘争についても資料をあげておいたので、参照されるよう希望する。浅間山の闘争については、第三編第三章第二節を参照。

第一期(五二年九月から一二月まで)

 内灘村は石川県金沢市から北へ向って北陸鉄道電車で三〇分、日本海と河北潟にはさまれた南北約一〇キロ、東西約二キロの細長い砂丘地帯(通称栗ヵ崎)の村であって戸数約一〇〇〇戸、人口約八〇〇〇(出稼人を除いた常住人口は約六五〇〇人)このうち戸数の九割近くが零細漁業に従事し六−七割が出稼ぎ漁夫を出している典型的な寒漁村である。三反未満の農家が八五%以上を占め、出漁期を一日はずしても暮しにひびくような村民は何事も村当局を信ずるよりないという貧しくしかも孤立した離島的存在の中で、男は大部分漁に出てしまい、村内の経済はほとんどもっぱら留守をまもる女子の手に頼っていたことは、この村が古くから「いただき(行商用の桶)の村」と呼ばれていたことにもあらわれていた。戦後の人口増加と出漁制限にあって未開墾地の開拓がこの寒村にとっての必死の更生策とされ(青年たちの手でヤロビ農法による砂丘の緑化は部分的にすでにはじまっていた)国有地の払下げの請願が県議会で採択され、五二年の第一五特別国会では海岸砂丘地振興臨時措置法が成立したので、内灘の砂丘も国の助成でいよいよ農地化が始まるだろうと考えられていた矢先に、接収の問題が起ったのである。初め保安隊の砲弾試射場として愛知県伊良湖浜が候補地に上り、それが農林省によって不適格とされると、こんどは直接アメリカ軍の試射場として軍参謀から申入れが来た。その条件は左のようなものであった。

1、用地は幅一五〇〇ヤード、長さ一万三〇〇〇ヤードを陸上において取ることができ、陸上または海上に一万五〇〇〇ヤードないし二万三五〇〇ヤード程度の射撃ができること。用地が海岸の場合は陸上に幅最低七〇〇ヤード、海上に八〇〇ヤードを必要とする。

2、気象は日中の平均温度が零度以上で、かつ冬期積雪量五〇センチ以下であることが望ましい。
3、地形はなるべく平坦で、適当な観測点がつくれること。
4、弾痕調査のため、土質は砂がやわらかい土でなければならない。
5、交通が便で、なるべく重工業地帯に近いこと。

 この条件に合うのは、伊良湖浜を除けば静岡県の御前崎附近と、内灘海岸しか残らなかった。そして損害補償の点からいうと、内灘を一とすると御前崎は一五、伊良湖浜は三〇の補償を要することがわかった。すなわち内灘は、海岸の砂丘地がほとんど国有地で、しがも地域内に部落や人家がなく立退の問題がおこらないこと、また村民は貧しく出稼に出るものが多いことなどから、補償費が安上りですむという見込がつけられたのである。こうして内灘が第一候補地となった。

 五二年九月六日、アメリカ軍の用地接収係主任官バーネス大佐が村当局にも知らせずに現地視察にあらわれたのを村民たちが見た。それから一〇日、村民に何の相談もなしにとつぜん農林省農地局長から石川県開拓課長に電話がかかって来て、内灘の接収決定という政府の方針が伝えられ、損害補償などについて交渉するため地元代表を連れて至急上京するようにといわれた。中山村長と村会副会長が上京した。村役場から向粟ヵ崎部落の漁業協同組合に電話でしらせて来たのは一八日であった。向粟ヵ崎部落ではすぐ大騒ぎとなり翌日の漁協組合員大会には組合員一六〇名中一一〇名が集って組合長を反対陳情に上京させることにきまった。県および村当局、村民代表は二〇日の夜行で上京したが、農林省では、正式に砂丘地約七〇〇町歩の接収地域の図面を見せられ、左のような接収要領を示された。

漁業権は買上げる。
海岸から海面五〇〇ヤードは立入禁止。
試射揚は幅七〇〇ヤードないし七五〇ヤード。
一一月から試射を実施する。朝八時から夕五時まで。日曜日はやらない。遠距離砲弾は海面へ向って試射する。

 村民代表は接収絶対反対で押し切った。農林省側では、とっくに話し合いがついているものと思っていたらしく、予期しなかったのでびっくりしたらしい。

 村では二一日に、青年団、婦人会、各部落会長を参加させた緊急拡大村議会が召集され、全村一致で接収絶対反対の決議がおこなわれ、二六日には村長はじめ代表四〇名が県庁へ押しかけて柴野知事に反対陳情した。この間、金沢市内では、左社、労農、共産の三党が接収反対を県に申入れ、労農党はいち早く反対の街頭署名運動を始めた。共産党の工作隊はこれより先一六日から村内で活動を開始していた。三〇日には大山郁夫を迎えて、金沢兼六公園で労農党石川県本部主催の接収反対県民大会が開かれた。このように、村当局をもふくめた全村的な反対運動がまき起り、さらに全県的にひろがろうとする情勢を前にして選挙投票日まぎわの一〇月八日「内灘接収問題は一応白紙に還元して全面的に再検討する」という政府発表が伝えられ、それが村長から村民大会に報告されたため、村の闘争態勢は一たん解かれてしまった。石川県議会は一〇月二五日、満場一致で内灘接収反対を決議した。

 ところが一〇月末に第四次吉田内閣が成立し、地元の石川県出身参議院議員の林屋亀次郎が国務相として入閣した直後、接収問題は再燃した。村長は反対陳情に上京し(一一月一二日)、県教組は首相、関係大臣、県出身議員に接収反対を打電し(一八日)、村民は県庁に反対デモをおこなった(二〇日)。県教組はまた接収反対に上京した(同日)。こうした動きのために二一日の閣議は決定することができなかった。二二日には、内灘村の隣の七塚町民も内灘接収反対を県に申入れし、県連婦人会もこれにならった。内灘婦人会は金沢で反対署名運動をおこなった。こうした中で一一月二五日の閣議は抜打ちに接収を決定してしまった。村民は憤激し、反対運動は大きく燃え上った。口火を切ったのは村の主婦たちだった。翌朝、村の婦人はほとんど総出で金沢市中をデモ行進し、県労評は村民との共闘を決定した。こうして説得のために現地へ向った林屋国務相を金沢駅頭に待ちうけていたのは、内灘村の村民と労働者、学生、市民たち約一五〇〇名のムシロ旗と赤旗であった。はじめ、林屋は、国務大臣となって初めて故郷に錦をかざったのを歓迎してくれるものと思いこんだらしい。しかし帽子をふりふり自動車に乗りこもうとした大臣は、労働者と学生にとりかこまれて立往生し手きびしく難詰される始末であった。大混乱の中を大臣は国警のジープでやっと逃れ去ることができた。一一月二七日朝のこの事件は新聞に大きく取り上げられ、内灘問題を全国に知らせることとなった。

 警官隊に守られて県庁についた林屋は、バルコニーから「四ヵ月間だけなんとかできないか」と訴えたが、労働者、学生に内灘の青年も加わった「茶坊主」「売国奴」などの罵声によって圧倒されてしまった。ついで県庁内で内灘村代表と会見し、説得に努めたが、地元側は一歩も譲らず、血書とともにいかなる条件にも応じられぬ絶対反対と宣言して物分れとなった。

 翌二八日説得のため同日来県した伊関外務省国際協力局長と平川農林省農地局長をつれて林屋大臣は現地へ説得に出かけたが、丁度村民大会を開いて絶対反対を申し合わせていた村民は説得者の話を受つけようとしなかった。怒りにふるえた村民のはげしい空気に出会って、説得者たちは武装警官に守られながら「民主的でない」といい残して引返した。そして金沢に戻った林屋大臣と伊関局長は、四ヵ月の一時使用が折り合えないはずはないという声明をくりかえした。その夕刻から、中山村長と村会議員二〇名は金沢市百百女木町の林屋邸の奥深く招じられ、邸の周囲は国警の特別警備隊で蟻の入る隙間もなかったという。その会談の内容は不明であるが、その結果、林屋大臣は折衝は円満にいったと意気揚々と帰京し、村にたいしては左の条件が認められたと報ぜられた。

1、四ヵ月以内に八一八町歩の国有地全部を村へ払下げること。
2、四ヵ月使用後即時撤退し、一日も駐留を許さぬこと、一発でも弾丸を射ってはならない。
3、更生資金を一億円とし、補償金は即時現金払いすること。
4、治安風紀上、国警警備員を増加配置すること。
5、社会文化の向上をはかるため文化施設の拡充をすること(学校の防音設備など)。
6、早急に道路を補修すること。このためトラック一〇〇〇台分のバラスを即時搬入して県道の向粟ヵ崎、室間三里を補修する。

 村当局は四ヵ月だけ(兵隊も一七名限り)のがまんという線で怒る村民の慰撫につとめ、一二月一日村長らが上京、二日の閣議で「とりあえず冬季四ヵ月だけ使用」と内灘接収を正式に決定した。以上が一時使用決定までのいきさつであるが、その中でもとくに「白紙還元」発表のあとまもなく接収の閣議内定をしたり、はげしい反対を目の前にして正式接収決定をしたりなど不可解なことが少なくなく、背後に村当局者と政府あるいは林屋国務相の間に村民を無視して取引がおこたわれたのではないかと推定させる事実がいくつか見られる。

 たとえば、反対にわき立っていた一〇月六日、中山村長らが反対陳情に上京したといわれているが、この時、村長はじめ村当局は首相官邸に招待され、のちの国務相林屋が、この時あっせん役に当って、村長らと「了解」をつけたことは、中山村長の次のような回想の中にのべられている(週刊サンケイ、五四年六月一四日号)。

 

……緋じゅうたんを敷きつめた首和官邸で、村長さんたちは、吉田首相からじきじきに盃を頂戴し、すっかり腰がくだけて帰ってきた。「なにしろ横から緒方大臣が《ぜひ承知してもらわなければ日本国がなってゆかん》といわれるし、林屋さんは、永久にというわけじゃなし、たった四ヵ月だからといわれるんで、これは国民として、自分の村の都合ばかり考えておるわけにもゆかんと思いましてな……帰ってきたんですが……」と中山村長は当時のことを回想している。

 こうした抱き込みの地下工作の上で、前述の林屋邸への招待がおこなわれた。県議をまじえての村長、村議たちとの林屋自邸における二八日夜から三日間の「話し合い」は、おそらく内灘問題の経過全部の中で極めて重要な意義をもったものであろうことは推測に難くない。

日本労働年鑑 第27集 1955年版
発行 1954年11月5日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社
2001年10月16日公開開始


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