OISR.ORG へようこそ 法政大学大原社会問題研究所

日本労働年鑑 第27集 1955年版
The Labour Year Book of Japan 1955

第二部 労働運動

第一編 労働争議


第三章 主要な争議

第一三節 九十九里浜あぐり漁夫の争議

 かつて「土地の栄える鰯漁」で知られた九十九里浜は「ドカン」の響く「ジャコもとれない浜」となっていることは一般に知られていることである。一九四八年四月、浜の中央豊海に、アメリカ軍のキャンプが設けられ、高射砲の射撃の開始とともに、年々不漁になやむ漁民を、更にどん底の生活においやることになった。一九五〇年二月、質草もつき、生活保護法にすがり、船主にたのみこんだ漁民も、「反植民地闘争デー」を契機に、片貝を中心に画期的な漁民大会をもち、生活の問題として、「ドカン」に目を向けはじめた。だが、そこには占領軍という、漁民にとっては動かしがたいような壁にぶつかった。しかしこの闘争が、全国ではじめて補償金の要求を提出し、獲得したこと、基地問題を政治的な問題としてアッピールしたことは漁民を勇気づけた。漁民たちは、その後の補償金の分配をめぐって、親方と自分たちの封建的な結び目に気づきはじめ、漁村の民主化を意識するようになった。「死んだ海」にも静かな波立ちがあらわれはじめたのである。こうして、五三年の六月から八月にかけて、白里(六月四日)、南白亀(七月一日)、白潟(八月一日)、豊海(八月八日)とあぐり船の船方達が相ついで漁民組合を結成し、県庁の役人でさえ「天然記念物もの」だ、と半ば手をあげていた九十九里浜の封建的な漁業形態に、民主化のクサビを打ち込んだのである。むろん、これは、内灘をはじめ全国的な基地闘争、風水害冷害による農民の闘争、各種各様な平和を守る運動等の全国民的な運動の中に、その指導性を確立しつつある労働者階級の運動を母胎として生みだされていることは忘れられてならないであろう。

 組合を結成するや、各組合とも法定組合としての手続を行うと同時に、組合員数の拡大と船主に対する要求項目の検討をすすめた。そして九月二二日には、白里、南白亀、白潟の三漁民組合(九カ統、約四〇〇名)で九十九里浜漁民協議会を組織し、要求を統一し、二六日に九カ統の船主に要求提出のはこびとなるのであるが、最初は各組合別に要求をとりまとめ、船主に出したところ、逆に船主側から、同じあぐり船で別々では困る、という文句があり、三者協議して、歩合と固定給だけを統一し、他の細かい点は各組合で、ということにまとまり、白里の案で行くことにしたといわれる。組合側協約案(要旨−千葉新聞による)を示せば左の通りである。

 (原案)
(1)船主と組合員は相互に協約を誠実に厳守して両者の平和を維持し、事業の健全な発展をはかる。
(2)労働条件は、船主と組合が対等でこれを決定する。
(3)アグリ網漁業に従事する水夫は組合員であることを承認する。
(8)歩合の配分は総水揚高より女代と経費一万五千円を引いた残額を船主六割水夫四割で分配。
(9)漁獲物の水揚げおよび値立てに際しては組合代表の立合を認める。
 ○職の月給は一カ月二食付六〇〇〇円。
 ミカリの時化日作業は一日二〇〇円一食付とする。
 神の魚は一日一杯をこえないこと。
 出産の場合の休業は五日、経費は船主と水夫で半額負担とする。
 職給は終了後七日以内に精算すること。

 これらの内容をもつ要求をもって九月二六日団交をおこなったが、船主側の一週間の期間の要望を容れ、一〇月二日の回答を待った。

 組合結成当時、封建的な搾取制度の上に安坐して来た船主には、船方達の要求が、彼らの内部にひそむ革命的な底力の素朴な表現であることが目にうつらず、毎日の借金生活に追われながら黙々として働く船方達の弱点を勘定に入れ、適当にあしらえると思っていたらしい。要求を受けた船主達の「組合なんちゅうもののいうことを一度きいたら、次々と出して来てうるさくて困る。つぶしてしまえ」といった態度によくあらわれている。こうしてこの一週間船主側は要求の検討ではなしに、個人的な切崩しとだきこみ、万一の場合を予測して、配下の加工業者や臨時の船方を準備していた。予めこのような船主のうごきを知った三町村の船方たちは、組合の態度はいかに、とばかり白里の協議会本部前に続々集合した。夕方になるも何の回答もなかった。しびれを切らした組合側は電話で団交を申入れしたところ、「今日という日は今晩の一二時までではないか」といった調子の返答であった。直ちに組合代表三名は船主代表の自宅にのりこみ、団交を迫ったが、相変らずらちのあかない押問答に終った。

 船主側の回答は、……文書で回答することになっている、−文書を見せて欲しい−あるところにあずけてある、−どこにあるか−それはいえない、−いつあってくれるか−わからない……、といった風に。

 九人の船主連盟の回答文書は、同じその日の夕刻、元漁協書記某夫人の手を通じて、封筒に入れ、内容もいわず、「帰ったら主人にわたしてほしい」と組合長の自宅にとどけられていた。組合側が正式に受けとったのは午後六時、それも何と九月三〇日付の次のような全面拒否を示すだけの内容のものであった。「貴組合の申入れは業者として他地区への影響を考え全面的におことわりします」。

 その場で三組合の漁民大会となり、これらの事情が報告されるや唯でさえ、ジリジリしている船方たちを憤激させ、「明日からストだ」の声は満場をつつんだ。「実際一度の団交で直ちにストとは無茶だと思われるでしょうが、船主たちの意図が組合をつぶしにかかっている以上、彼等の不誠意にはもはや話合う余地などなかったのです。初めからストなど予定していたわけではないのに、ストに追いやられたといった方が適切でしょう」とは組合役員の語ることばであり、要求提出の時期にしても、不漁期の夏にストにでもなれば船主がつぶれてしまうので、との考慮から職変りの時期をえらんだのだという。

 一〇月三日の払暁、船方達は一斉に浜に出て、船の周りに坐り込み、ピケをはった。しかし、船主に追い立てられた加工業者、その他の臨時漁夫、非組合員、船主との情実関係にしばられる立場のよわい組合員たちが、坐り込む船方たちの制止もきかず全船強行出漁した。実際にピケに参加したのは八割位であった。その日組合側は千葉県労委に、斡旋の申請を行った。

 四日朝のピケは更に強化された。だが「どうせ永つづきしない、結局は屈服だ」(千葉新聞)と威たけ高かに、圧迫を加えてくる船主の強引な出漁を阻止することは出来なかった。出漁阻止の鍵は、あきらかに船主側にある機関士たちを引留めることにあった。

 というのは、あぐり船の場合、船長をのぞいて、船の運航の実権者は機関士であるからである。従って少くともあぐり船の場合(あるいは小漁船といってもよいかも知れないが)機関士は一般の船方より優遇されており(九十九里浜では大体一般の二倍以上の収入)エンジ(エソジニヤ)としての一種の特権的な層として自他共に認められている。そして機関士だけの職能組合を組織し、親方の援助で技術の向上につとめていることは、沿岸・沖合の漁船船員の特徴的な傾向とさえなっている。

 この九十九里の白里にも六月頃、白里、豊海、南白亀のあぐり船で機関士組合(二統、八四名)がつくられていた(勿論、漁民組合に加盟していない)。漁民組合は、これに対してスト協力を申入れたが実情はそう簡単にはゆかなかった。漁民組合の要求では、二代以上の収入が、字づらでは一・五代に抑えられた(実際は固定給その他で今までより多くなる)不満も手伝って、はじめから船主側についていた。しかし同じ「釜のめし」という組合の説得で一応の同調をみせ、組合はスト中止という条件で船主に団交をすすめる仲介役をかって出た。このため、五日はしけのためもあったが、とにかく五、六日の二日間出漁は中止される結果を示したのである。船主側はこのような事態を見過すはずがなく、だきこみの手をうった。それは白里町にあらわれた。六日朝、花沢氏所有の五郎丸、勝丸がひそかに出漁準備をととのえていることを知った漁民約七〇名はアンバに殺到し、出漁をおしとどめた。このようにして機関士は、その後船主側につかされてしまう。

 この間四日には、すでに全日本海員組合、全国漁船労働組合協議会などから応援が入り、五日には県地労委の村山会長はじめ、三ヵ町村長、村会議長、副議長などが仲立ちに入る。

 これら地元関係者、地労委のあっせんによって第一回の団交は六日午後からはじめられた。内容は団交の日取の決定をめぐってのものであり、船主側は、ストを解くこと、一週間のゆう予を要求した。組合側は、誠意が認められないうちは自衛としてのストはとくわけにはゆかない、翌日からの団交という線を一歩もゆずらず、七日午前二時までつづけられた。この結果船主側は一〇日から、組合側は即時にという団交の開催日をめぐって同日八時から再開され船主側の調停者一任案を暗黙に了承し、これとは別に組合側は左の三条件を調停者に提出し、九月の団交にのぞんだのである。

 (1)団体交渉は労資とも対等の立場たること。
 (2)組合を圧迫せぬこと。
 (3)時間を厳守すること。

 この一見単純に見える交渉は双方にとって極めて重大な意味をもっていた。このときすでにスト参加の船方達の生活はどんづまりの状態に達して来ており、「あの組合は『赤』だ」、「組合をぬければ金をやる」、「納屋から出てゆけ」等の封建的な船主・船方の関係を基盤にした、おどかしとデマ宣伝、買収による船主の攻勢をゆるす条件を生み出して来たからである。実際、その時はスト不参加者(約八十名位、下総方面から出稼に来ているため家がなく、納屋に寝起きしているもの−組合資料)や非組合による「漁民協同組合」という第二組合が作られ、船主側の脱退工作がはげしくなっていた、船主側の遷延策、組合側の即決策はこのような事情を反映していたのである。

 このような組合自体の危機に当面した組合では、七日、この漁民組合の蔭の援助者となって当初から動いて来た千葉県漁民組合協議会の会長中村氏を通じて海員組合に、八日には国鉄千葉支部の加藤閲男氏に援助を懇請し、とりあえず加藤氏名義で千葉労働金庫から五〇万円の争議資金の貸出しを得ることが出来た。海員組合も五〇万円の融資を応諾し、九日には海員組合副委員長中地氏が調査に直接のりこんだ結果、「これは人道上の問題だ、いくらでも援助はしたいが規約の関係から無制限に貸せない」ということが語られ、海員組合への加盟を説いた。漁民組合役員にとっては「渡りに船」、メシアの出現と思えたことはたしかである。「九十九里の現状では将来、法律の保護と財政的な援助がなければどうにもならず、この二つの面から加入した」ものだといっている。そしてその日の中に三漁民組合別の大会が開かれ加盟を決定し、一方一〇日の海員中執委は加入承認と同時に一五〇万円融資を決定し、一一日は「九十九里浜漁民争議指導部」(七名)を編成、東京から宣伝カーを仕立てて白里町にのりこみ、争議団本部を開設して、直ちに宣伝活動に入って行くのである。次の声明書はこのときのものである。

 (声明書)
九十九里浜
全漁船船員諸君
全町村民の皆さん

 白里、南白亀、白潟三カ町村の漁船船員は、船主の封建的支配とあくどいサク取から抜け出ようと、それぞれ漁民労働組合をつくり、交渉申入れを行いましたが、頑迷な船主に拒否せられ、去る一〇月三日早朝から争議を始めたことは、既に御承知の通りであります。

 わが全日本海員組合は、この争議団の諸君から応援を求められ、一〇月九日直ちに現地調査を行いましたが、当地方におげる船主のサク取状態の余りにもひどいのに、限りない憤激を覚えたのです。

 船主と船員の関係、そこで行われていることは、正に徳川幕府以前の状態と言っても過言ではありません。船員は全くのドレイ的労働と人権じゅうりんのもとに置かれている有様は他の地域でその例を見ないほど、甚だしいものであります。

 全日本海員組合は、社会正義のためこの争議を積極的に援助すべく決意したのであります。しかし、非組合員である船員諸君に対する応援には、限度があります。また船員諸君も、この地域だけの小さな組合では、長い間にわたって支配的権力を築きあげてきた船主に対抗し、要求を通すことの困難さを感じました。

 その結果、三カ町村漁民労働組合の全員が、進んで全日本海員組合に加入することを決定し、わが組合でも喜んでそれを受けいれることになり、本一一日、加入のため必要な手続を完了した次第です。

 皆さん

 三カ町村漁民労働組合の諸君は、今日からわが全日本海員組合の組合員となったのです。従って、今日から争議は、わが全日本海員組合と三カ町村船主との間のものになりました。

 わが海員組合は、この争議を勝利に導くため、直ちに争議資金第一回分として一五〇万円を貸し出すことを決定するとともに、組合幹部を当地に派遺し、争議の全面的指導を開始しました。

 三〇年の伝統に輝き、全国一〇万の組合員を擁してわが国最強の組合を誇り、未だかつて一度も争議に敗けたことのない全日本海員組合が乗り出した以上、この争議の勝利は約束されたも同然です。

 たとえどれだけ長期間かかろうとも、海員組合数千万円の争議資金と偉大な組織は、あくまで争議を推進する力をもっています。
 皆さん

 わが海員組合は、いわゆる赤旗組合、闘争組合とちがって、常に堅実な途を歩み、漁業の発展には全幅の協力をしています。しかし、不当な船主のやり方については、断じてこれを許すものではありません。

 ぎりぎり最低の生活と人間としての権利を保障して貰いたいという三カ町村漁船船員の極めて当然な要求を通すため、広く一般の支持を求める次第です。

 この争議が勝利することによって、九十九里浜に、人間的文化の花開く芽が育つのです。わが全日本海員組合は漁船船員の生活権をまもり、民主主義と社会正義のため、皆さんとともにこの争議を闘うことを、広く声明します。(以上)

 昭和二八年一〇月一一日
                          全日本海員組合

 一方このような中で、九日の午後四時から双方代表各三名の間で白里村長、同町長らの立合いのもとに団交が進められ、協約原案中船主の威厳にかかわらぬ内容の条文一〇カ条についてはほぼ船主も承認、ショップ制の問題(組合はユニオン、船主はオープンで対立)固定給と歩合率、水揚、立値の立合い等の問題をのこして、次回の団交にひきつがれた。次回は一二日の三時からと予定された。ところが一一日、組合役員に対し、ひそかに船主側の一族の口掛りがあり、「某所」で非公式会談が行われるという事態が起きた。これはどのような意図をもって行われたかは明らかにされていない。しかし、丁度このときは、海員が組合の指導権をにぎり、宣伝活動に入った時であり、船主の見通しが大きくくづれ去ったことを意味していた時である。船主はここで、給与の面で折り合い〔固定給五〇〇〇円+食費(二食代)六〇〇円、経費差引一万五〇〇〇円、水揚の立合認む〕、いかに確保するか(封建的な諸関係を)の問題に当面したに違いない。従って、この後の推移は「ドカン」を支える「地盤とカバン」をめぐるはり合いとからみあって展開されて行くのである。

 一二日の団交は海員本部員を交えた正式な第一回の団交であった。県労委からはあっせん員として公・労・資の三名が立合った。問題となったのは次の三点で、午後一一時までつづけられ、一旦休憩し、一三日正午から続けられることになった。

 (1)ユニオン・ショップ制の採用。
 (2)船主は組合が除名した者を解雇する。
 (3)船主はストライキ中組合員以外の者を採用しない。

 これらの三点を含む協約は、外房北部の大原町漁船船員労組などでも早くから採用されていたところであり、協約原案もこれらに基いて作成されたものであった。組合にとってはこれは「絶対条件」としていた。「労働問題の素人だから理窟がわからない」と拒否しつづける船主に理解させるのに手間どった。一三日の団交は、使用者側のあっ旋者から延期の申出でがあり、一四日午前一〇時まで延期された。この日(一三日)白里町議会が開かれ「地労委が介在した現段階では、町として特別に乗出すことはしないが、ストの長期化は町の悲劇であるから互譲の精神で早期解決を希望する」(組合資科)という意味の申合せを行い双方に申入れた。組合は生活資金として組合員各自に三○○○円ずつ貸しつけると共に、組合員家族の訪問、宣伝カーの活躍、ビラ、ポスター、デモ行進(一七日予定の)に用いるプラカード作成準備、一部組合員を土気町のトンネル工事の人夫にあっせんした。ピケはすでにとかれていた(九日間つづけられた)けれども、臨時船方による漁撈作業の能率は「平素の三割以下程度」で、割の合わない出漁デモを行っているに過ぎない状態であった。船主の中には動揺するものも出て来た。「他の船主がやがて倒産するであろうことをひそかに期待している」、「大ボスの支配」を逃れて、各組合に個別交渉を申入れる船主が出て来たことに表われている。そして一五日の団交決裂と同時に和泉丸の解決となるのである。

 一四日の交渉の中で、船主側の難色を示していた三つの点について斡旋側委員より次の試案が示された。
 (1)水夫は原則として組合員である、と「原則として」を入れる。
 (2)組合を除名になったものの解雇については「雇用については協議してきめる」とする。
 (3)スト中の組合員外の雇用についての条項は現在のまま「組合員以外の者を雇ってはならない」として別に平和条項を設ける。

 (1)、(2)については一応同意、「(1)は原案よりきびしいではないか」という船主に対して、幹部側から、「原則として」を挿入すると、水夫中にも非組合員がいること、機関士組合も別個の組合としての存在を認めることになり現状と変らない、それでも将来組合がスト不参加者をいじめると疑うなら、「今回のストについては責任を問わぬ」の覚書を交わしては如何、とこんこんと諭したという。しかし「一族郎党と相談せねば確答できない」としている船主側にとっては、単に個人的な、労働問題についての理解でことたりるような文面上の問題ではなかった。長い間にわたって築き上げられた身分的な隷属、封建的な搾取機構がよって維持されている地方権力の動揺が表われていたのである。組合の言葉をかりれば、旧態依然たる「モグラ」が、近代的な労働組合の「陽光」にぶっつかり、とまどいした。こうして団交は一五日にもちこされた。組合側は、「弱体船主の妥結を望む空気」を勘案し、個別交渉を提議したが、船主側は、元海員組合員三好某(八月に開かれた機関士養成講習会の講師現機関士組合顧問−組合情報による)を介して、第二組合の結集を強化すると共に、統一交渉を固執し、ユニオン・シヨップ制の削除を要求した。組合側の、第二組合や切崩しを中止すれば統一交渉に応ずるという通告にもかかわらず、この一五日団交をもって交渉は決裂した。その後船主達は、一六、一七、一八日の三日間、全く姿をくらましてしまった。

 一四日以来、白潟の和泉丸船主の申出でにより個別交渉を進めていた団交は、一五日夜了解に達し、和泉丸のストは解除された。
 和泉丸の協約ならびに賃金協定は次の通りである。
 (協定書)
 労働協約第九條の定めるところにより、昭和二十九年度各職労働條件を左の如く協定する。
 〔記〕
一、昭和二十九年各職は昭和二十八年 月 日より昭和二十九年 月 日までとする。
二、歩合の配分は総水揚高より女代と経費一万五千円を引いた残額の四割を水夫歩合とする。
三、職の歩合は四割配当額の五〇パーセントとする。
四、職の月給は一カ月一人二食付五千六百円とする。
五、職の時化日の作業時間は八時間を原則とする。
六、ミカリの時化日作業に対する給与は左の通りとする。
 イ 作業一日 二百円一食付
 ロ 〃 半日  百円〃
七、時化日の網干の場合は右に準ずる。
八、神の魚は一日一杯を超えてはならない。
九、水夫歩合より支給する岡作業に従事する者は、岡エンヂン機関士一名、岡廻り一名とする。以上を超える場合は船主負担とする。
十、水夫歩合より支給する役付歩合は左の通りとし不足分は船主負担とする。
 漁撈長  一代 水夫長(サオハリ) 三分
 副漁撈長 半代 網船舵手(トモオシ)二分
 機関長  半代 手船船長     二分
 電探船長 三分 電探長      二分
十一、役付者以外に従来支給していた増代は全額船主負担とする。
十二、出産の場合の休業五日分の月給は船主負担とし、歩合は船主と水夫で半額ずつ負担とする。
十三、餌鰯は水揚高に含むものとする。
十四、歩合の支払は毎月十日、二十日、三十日の三回払精算とする。
十五、この協定に定めのない問題に付いては、その都度両者に於て協議決定する。
 右労働協約締結の証として本協定書二通を作製し、船主、組合各々一通を保有することとする。
 昭和二十八年 月 日
       船主 千葉県長生郡白潟町
       組合 全日本海員組合 組合長代理
               湊町支部長 野沢精吾
 (労働協約)

 片岡七蔵(以下甲という)と全日本海員組合(以下乙という)は、相互の理解と信頼に基いて、九十九里水産業界に於ける民主的労働関係を樹立する目的を以て、○○団に雇用される組合員(以下組合員という)の間の基本的労働関係を律する労働協約(以下協約という)を締結する。

 甲、乙及び組合員は、互にこの協約を誠実に遵守して、組合員の社会的経済的地位の向上と事業の健全な発展のために努力すべきことを誓約する。
 第一章 総則
第一条 協約及び協約に基く諸協定は、甲と乙が対等の立場に於て交渉決定する。
第二条 甲は、その雇用する水夫が原則として組合員であることを承認し、労働條件等に関する交渉はこれとのみ行う。
第三条 この委任を受けた者は、この為に○と労働協約の締結その他の事項に関して交渉する権限を有する。
第四条 甲は乙との団体交渉を正当な理由なくして拒むことはできない。
 第二章 組合活動
第五条 組合員は、正当な組合活動をしたことを理由として解雇又は不利益な取扱いを受けない。
 第三章 人事
第六条 甲は正当な理由ありとして組合員を解雇せんとする場合でも事前に組合と協議して決める。
第七条 甲はこの規約に基いて組合員たる資格を失った者の雇用については協議して決める。
第八条 争議の継続中、甲は組合員以外の者を雇用しない。
 第四章 労働条件
第九条 賃金その他の条件は別途協議して定める。
第十条 賃金のうち歩合給の基準は船主六割、組合員四割の割合とする。

第十一条 賃金の計算は、歩合給を除き毎月二十六日から起算して翌月二十五日を以て締切り、計算明細書を添えて月末に支払うものとする。但し特別の事由が生じたときは、既に働いた分の範囲内で月末を待つことなく支払うものとする。

第十二条 食糧は作業の特殊性に依り甲の負担とする。
第十三条 有給休暇は旧一月一、二、三日間とする。但し、事情により二日は出船することがある。
第十四条 公務(消防、水難救済その他公共の福祉を図る為の行為)上の休業に対しては、甲はその組合員に対して、給与の一切を支給する。
 第五章 災害補償及び福利厚生
第十五条 作業の危険性にかんがみ、甲は労災保険に加入することとする。
第十六条 災害防止の為甲は救命具を備え付けることとする。
第十七条 甲は福利厚生の為必要な施設の充実に努める。
 第六章 雑則
第十八条甲及び乙の承認なくしで乗船契約間内に下船した組合員に対しては乙と甲の協議により解決する。
第十九条 魚獲物の水揚及び値立の際は、この代表者が立会うものとする。

第二十条 この協約に規定のない問題については、この都度両者において協議善処する。協議決定した事項のうち必要なものについては文書を作製し双方署名捺印の上保存する。これは協杓と同じ効力を有する。

第二十一条 甲乙間に紛争を生じ、互に誠意をつくして協議してもなお解決しないときは、労働委員会に調停またはあっ旋を申請して解決を図るものとする。労働委員の調停またはあっ旋の受諾を双方あるいは、何れか一方が拒否するまで争議行為として甲は操業停止、ロックアウト、繋船を、乙は罷業、怠業を行ってはいけない。

第二十二条 この協約の有効期間は、昭和二十八年十月十五日から昭和二十九年十月十四日までとする。

 期間満了の一カ月以前に甲又は乙の双方あるいは、何れか一方から更新または改訂の申入れを行ったときは、直ちに交渉を開始し、遅くとも期間満了日までに協定するものとする。

 前項の申入れを行わなかったときは、期間満了の翌日から起算してさらに六カ月間自動的に有効期間を延期するものとする。
 右、協約締結の証として本協約書三通を作製し、甲乙及び立会人各々一通を保有するものとする。
 右協約する。
 昭和二十八年十月十五日
 甲 千葉県長生郡白潟町 和泉丸代表者   片岡七蔵
 乙 全日本海員組合 組合長代理湊町支部長 野沢精吾
 (協定書)
 労働協約第九条の定めるところにより、昭和二九年度冬職労働条件を左の如く協定する。
 〔記〕
一、昭和二十九年度冬職は昭和二十八年九月一日より昭和二十九年五月三一日までとする。
二、歩合の配分は総水揚高より女代と経費一万五千円を引いた残額の四割を水夫歩合とする。
三、職の歩合は四割配当額の五〇パーセントとする。
四、職の月給は一ヵ月一人二食付平均五千六百円とする。
五、職の時化日の作業時間は八時間を原則とする。
六、ミカリの時化日作業に対する給与は左の通りとする。
 イ 作業一日 二百円一食付
 ロ 〃 半日  百円〃
七、時化日の網干の場合は右に準ずる。
八、神の魚は一日一杯を超えてはならない。
九、水夫歩合より支給する岡作業に従事する者は、岡エンジン機関士一名、岡廻し一名とする。以上を超える場合は船主負担とする。
十、水夫歩合より支給する役付歩合は左の通りとし、不足の分は船主負担とする。
 漁撈長  一代 水夫長(サオハリ) 三分
 副漁撈長 半代 網船舵手(トモサシ)二分
 機関長  半代 手船船長     二分
 電探船長 三分 電探長      二分
十一、役付者以外に従来支給していた増代は全額船主負担とする。
十二、出産の場合の休業五日分の日給は船主負担とし、歩合は船主と水夫で半額ずつ負担する。
十三、餌鰯は水揚高に含むものとする。
十四、歩合の支払は毎月十日、二十日、三十日の三回払精算とする。
十五、この協定に定めのない問題に付いてはその都度両者に於て協議決定する。
 右、労働協約締結の証として本協定書三通を作成し、船主、組合及び立会人各々一通を保有することとする。
 右協定する。
 昭和二十八年十月十五日
        船主 千葉県長生郡白潟町
                利泉丸代表 片岡七蔵
        組合 全日本海員組合 組合長代理
                湊町支部長 野沢精吾

 一七日朝九時半から、予定されたデモ行進が開始された。「日本海員組合九十九里争議団」ののぼりをはじめ、各種のスローガンをかかげたデモ隊約三〇〇名は、海員組合のトラックを先頭に、白里町一帯を行進した。聞きなれぬ労働歌と船方達のデモンストレーションに町の人々は好奇の目をみはった。沿道の船主の家の前では、とくに船方たちの隊列はゆれ、「奴隷的きずなをたちきるまで闘おう」と気勢をあげた。この日船主の家族は、「二重橋を除いてはみられないような門の鉄扉を閉ざし、中に猛犬を残して、食糧持参」で避難したといわれる。白潟、南白亀の船主からは早速「第三者を通じて」協約についての「穏健」な意見が組合側にとどけられ、このため予定されたこの方面へのデモは中止された。この日のデモにはオッペシの娘さんやおかみさん、老人までも参加し「大漁ぶし」ならぬ「夜明ぶし」に積年の苦しみをぶちまけた。

 国鉄千葉の加藤閲男以下、県労協が来援した。共産党からの参加申込みは、「逆効をおそれて」ことわった。東金地区署は「万一」にそなえて警官を配置した(一八日も警戒をつづけた)が、挑発もなく、デモは整然と終了した。

 第二組合は一八日夜発会式をあげ、一九日労働委員会に資格審査を出したが却下された。

 一五日以来姿をくらましていた船主は、同じ日、地労委に出頭し、地元の組合役員とのみ合う、という条件で団交に応ずる旨申出た。この通知をうけた組合側は、代表者が「海員組合員たる地元のもの」と了解の上で、団交に応ずることになった。

 これは事実上、船主側の一応の敗北を意味していた。組合をおしつぶそうという意図も海員組合のバック・アップ、その他の労働組合や世論の監視のもとにもろくもくづれ去り、懐柔によるボス交渉の道もとざされ、団結の切崩し、第二組合による対決策も、労働委員会の否定によって少くとも現状での不利をさとった船主(正確には船主に代表される実際上の封建的な地元権力者というべきである)に残された道は、「譲歩し確保する」ことだけであった。そしてこれが「幹部組合」の域を脱しきれないでいる漁民組合にとって慎重に対処し取りくまなければならない船主の潜在力として残されることを意味し、「民主化」運動としての漁民組合の運動に、つねに大きな課題としてたちはだかって来た問題であり、漁民以外の問題としても解決されなければならない問題というべきものであった。このような意味で、二〇日午後七時から地労委員の立合で開かれた団体交渉に船主側交渉代表として弁護士石橋信(元副知事の肩書をもち、正木昊著の「弁護士さん」のモデルに書かれているという)を出して来たことは、「地元代表とのみ会う」という条件とともに興味あることといわねばなるまい。組合代表は千葉県漁民組合協議会長中村氏を加えて四名であった。

 交渉は、石橋氏の「中村君なら話がわかる」という切出しにはじまり、「海員組合が入って組合の主体性が変った」、「協議体であるが故に団交権がない」、「斡旋の申請が三組合から出ているのに、違うんじゃないか」、「三組合の解散の証明を出せ」などと弁護士のおどし文句をならべ立てたが、やがて協約中の中心点、「労働条件は船主と組合が対等の立場で決定する」、「地区内のあぐり漁業に従事する水夫は原則的に組合員として承認する」、「各組合の規約に違反し、除名処分をうけたものを雇用するときは双方協議する」等の組合にとっては、絶大な船主勢力の封建的支配下の組合防衛上必須の条件について船主側からの骨抜き攻勢が展開された。

 かくて二二日の午前三時頃まで双方のはげしいやりとりの後、若干の修正を伴って、ほぼ組合の協約案が通り、直ちに賃金協定に入った。この交渉で船主側は一一日の非公式会談で一応了承した意をひるがえし、固定給四〇〇〇円を固執したため、決裂寸前に追込まれたといわれ、結局、一一日の線に落ちつき、「第二組合との間に本組合と協定した内容を上廻るような協定をしない」と船主に確約させてこの問題は落着した。その後、「地元組合が解散し海員組合に加盟したという事実を証明するものがないから、仮調印は三組合長が行うこと」、「海員組合が交渉主体として地労委が確認した後正式調印(一一月一三日に予定された)を行う」ということで二二日午前九時半仮調印を行いストを解除した。

 以上が二〇日間にわたった九十九里浜あぐり船九カ統の争議の概要であるが、この争議の性格については、参考にかかげた別項「夜明けぶし」、「九十九里いろはかるた」が何よりもよく説明している。つまり「犬猫なみより人間なみ」をめざした封建的な浜の「夜明けの端緒としての意義をもったものということが出来よう。現にこの闘争が九十九里八六ヵ統の船主に大恐慌をまきおしたばかりでなく親方の絶大な権力の下で、奴隷賃金と身動きならぬ借金に苦しめられている九十九里浜一帯の船方や零細漁民に大きな波紋をなげかけ、組織への動きをかきたて、活溌化させている。片貝における漁民労働組合の結成、一一月三日から各職への職変り闘争をストで闘った大原漁船労組などその現われともみられよう。しかしこの船方達の闘争の意義は、単にこれに止まらない。それは、たまたま一〇月一七日から三日間、千葉県成田で中央委員会を開き、MSA反対を討議した全逓従組が、中央委の動議に、漁民のスト応援の問題が出され、満場一致で決定されたことにみられるように、直接基幹労働者の注目をあびる内容をもっていることである。いまこの闘争の支援を表明した団体、個人を列挙してみると、国鉄千葉支部、地労協地域の教員組合、海員組合の全国の支部、千葉県漁民組合協議会、野田漁民組合、室戸船員同志会等全漁協傘下組合、左・右両派社会党(浅沼書記長自ら出馬して演説をぶった)、共産党(直接の応援は拒否された)、片岡ふみえ、野老誠両氏等々、その他一般町村民の声なき支援などがある。勿論、この中には「民主化」の名において、遅れた漁民の票をあてこんだ「紳士」たちもいたことはたしかである。このことは戦後の漁民運動につねにまつわりついてきた一つの傾向でさえある。それにも拘わず、一見この地方的な、初歩的な漁民の闘いが、何よりも労働者階級の目にクローズ・アップされてうつし出されるような内容をひそめていること、それ故に九十九里浜演習場の「安全辨」たる地元の封建的な反動勢力に牛耳られている船主団の頑強な抵抗があったこと、このことは重要である。

 船方達の要求は「チッとは人間らしい生活をさせろ」である。これは漁民にとっては永年の「悲願」であり、強力な反封建闘争のエネルギーを内包する要求である。この切実な「非人間」的生活からの解放の叫びが、そのまま、アメリカ占領体制の強化、軍国主義の復活の下での首切り、くえない賃金、労働強化、ファッショ的な労働制度の中で働く労働者の問題としてとらえられることはむしろ当然であろう。

 だが、この労働者階級の支援は、ここではまだ充分なものとして入っていない。漁民組合自身慎重な態度でのぞんでおり、むしろ外部からの積極的な援助をこばんでいるといってもよい。「赤」のレッテルが大きな関心事とされているからである。このことは海員組合が指導権をとってからは宣伝の中心項目に「組合は決して『赤』ではありません」があり、船主側は常にこれをとりあげ、警察が目を光らせていることをみればあきらかである。そしてこのことが、毎日々々浜の人々をおびやかしている「ドカン」にさえ、不感性的態度、意識的にこの問題にふれたがらない態度が出て来ていると思われるのである。この意味では「浜の夜明け」の端緒である、「両者の協力で九十九里漁業の発展に力をつくしたい」という漁民組合に残された前途は困難な道というべきであろう。なお最後に、この闘争後、今まで演習補償金のどんぶり分配にさえ泣寝いりの状態であった船方達も、船方分として一括組合で配分するという条件が生れたことをつけくわえておこう。

 最後に二つの興味ある資料を掲げておく。
 (九十九里いろはかるた)
い 犬猫なみより人間なみ    ろ 論より証こあのご殿
は 羽織の親方裸の船方     に 人情より勘定
ほ ほんとにひどいこの手当   へ 下手な庇理窟通せる親方
と とった魚も雲がくれ     ち 智恵者の多い旦那たち?
り 理窟多いが勘定少い     ぬ 主もわたしも人なみに
る 留守は苦しい火の車     お 親方ワンマン船方ガマン
わ 分け前ゴマカス懐こやす   か 変る世の中変らぬ船主
よ よくも今まで我慢した    た 旅の船方よりつかない
れ 礼儀 人情 愛情で     そ 相談するのがなぜきらい
つ つかみ勘定はもうごめん   ね 眠むっておらずに目をさませ
な なんでもかんでも無礼者   ら 楽じゃないよおいらの仕事
む 昔のままでは通らない    う 海の男も泣くところ
ゐ 一族だけが腹一杯      の 飲ませて丸める親方算用
を ヲッペシ女も世間なみ    く 苦労分け合う親方ほしい
や やっぱり組合は大切だ    ま 真面目な者のくえる世の中
け けとばされたりなぐられたり ふ フカの腹より慾深い
こ 子供のためにも明るい浜を  え エンマ様でも二号に負ける
て 手に手をとって団結だ    あ 呆きれ果たるわからずや
さ 催促するなあるとき払う   き 聞いてあきれる船主の頭
ゆ 勇気の足らぬ裏切者     め 明治も今も石頭
み 見事な団結最後の勝利    し 知ったかみたかおいらの力
ゑ 笑顔で暮せる明るい町を   ひ 秘密勘定争議のもと
も 門の立派な船主さん     せ 船主の嫌うストライキ
す 進んで勝つは争議団
          全日本海員組合 九十九里争議団

 (夜明けぶし−争議ぶし)
一つとせ 人と犬との分れ目だ 夜明け前だぞ九十九里
               浜は夜明けだね(繰り返し以下略)
二つとせ 船方なんぞと馬鹿にすな 世直しするのだ団結で
三つとせ みんな一度に起ち上がれ 自由のための戦いだ
四つとせ 嫁も姑も子も孫も 乱すまいぞえ心意気
五つとせ 今に見ていろ封建の 牙城を俺等でつぶすのだ
六つとせ 無理で太った船主たち 流さにゃなるまい血の涙
七つとせ 名前汚ごすぞ裏切者は 末代までの恥さらし
八つとせ やってみせるぞこの仕事 可愛い吾が子の為じゃもの
九つとせ 苦しみ悲しみふみこえて 住みよい俺等の町つくり
十とせ  とうとう夜が明けた九十九里 町から村から夜が明けた
                全日本海員組合 九十九里争議団

日本労働年鑑 第27集 1955年版
発行 1954年11月5日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社
2001年10月16日公開開始


■←前のページ 日本労働年鑑 1955年版(第27集)【目次】 次のページ→■
日本労働年鑑【総合案内】

法政大学大原社会問題研究所(http://oisr.org)