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日本労働年鑑 第27集 1955年版
The Labour Year Book of Japan 1955

第二部 労働運動

第一編 労働争議


第三章 主要な争議

第一〇節 日産自動車の争議
闘争の第一期

 日経連、自動車協会などの指導を背景とする資本家側は、まず全自動車労組による統一闘争の足並みを乱すことにねらいをおき、比較的たちあがりの早かった京浜支部の各分会にたいしては若干の譲歩(賃金税込一〇〇〇−一五〇〇円値上げ、一時金は昨年末を上廻る)をおこなって妥協をはかり、トヨタとほぼ同時期に要求をだした東海支部の各分会にたいしては回答をひきのばすという戦術をとった。そして、三社共闘ならびに日本自動車工業分会(約三〇〇人)を除く大半の分会は、六月末から七月初旬にかけていちおうの妥結をみるにいたった。この間の情勢について、六月二三−二四日にひらかれた全自動車労組中央執行委員会は、つぎのように分析している。すなわち、「相手の態度から判断されることは、従来の全自動車労組の弱点に集中攻撃をかけて全体の闘争力にヒビを入れようとした態度から進んで、全自動車労組の主力であり中核である三社に攻撃を集中し対決しようとする意図が露骨に現れていることである」と。

 日産では、前記の要求に基く第一回団体交渉が六月四日におこなわれた。しかし、会社は交渉の当初から、「およそ金めのものは全面拒否」という態度にでて、組合の要求を問題にしようとはしなかった。そればかりか、逆に、会社は組合にたいして、第一に五月一八日から表面化してきた課長・同待遇者を非組合員とする問題をくりかえし申入れ、第二に今後の組合活動は会社が二年前に提案した組合活動に関する覚書案(いわゆる七夕提案)の枠内でおこなうことを実施するむね通告してきた。この組合活動に関する覚書案のねらいは、就業中の組合活動に要した時間を賃金支払いの対象にしないこと(ノーワーク・ノーペイ)ならびにほとんどすべての組合活動に届出制を施くことであった。

 会社の態度に憤激した労働者は、翌六月五日から連日、各職場ごとに職場大会をひらき、また大衆的な団体交渉を要求したのである。六月一〇日、ようやく第二回団体交渉がおこなわれた日に、浅原社長の名で「従業員各位宛説明書」が配布された。しかし、第四回団体交渉がおこなわれた六月一五日ごろから、職場闘争はかえってますます昂揚した。会社は、六月二二日、ビラの取外し命令仮処分の申請を裁判所におこなった。

 このような情勢のなかで、三社共闘傘下各分会のストライキ権委譲が、六月一五日、いすゞ八三%、六月二〇日、日産八三%、トヨタ八五%でおこなわれた。

 日産の定期賃金支払日である六月二五日、会社は前記の覚書案を盾にとって、就業中の組合活動時間分を賃金から差引いてしまった。(その差引業務は社外で非組合員の部長がおこない、現金は銀行で袋につめたといわれる。)まだ覚書案は組合の承認を得ていない上に、賃金の査定があいまいすぎるというので激昂した組合員は各課長にその払いもどしを(職場によっては夜を徹して)要求し、多数の課長は善処を約した。読売新聞(労使決戦の場−日産争議の真相、八月一三日)によれば、その差引額は、平均五〇〇〇円から最高一万二〇〇〇円に達したといわれる。

 この事件をきっかけに、会社最高幹部の職制末端にたいする統制が強化され、すべての課長が前約を取消した。とくに横浜工場の闘争は激しく、会社は同日の「吊しあげ」事件を、暴力行為等処罰に関する法律違反の理由で告発した。横浜地検は事件がおこってから四三日目、後に述べる工場閉鎖がおこなわれた直後の八月七日、百余人の警官隊を動員し、益田組合長ら五人の幹部を逮捕した。(八月一四日には吉原工場でも四人が逮捕された。)

 日産の会社側は、一時金についても、トヨタ、いすゞよりことさら低い線を、しかも時期を遅らしてだし、闘争終結をひきのばし、支払時期すら発表しなかった。(六月一六日トヨタ二万五〇〇〇円、六月二四日いすゞ一カ月分、七月九日日産一万四〇〇〇円プラス成績加給二〇〇〇円と、それぞれ会社側が提案した。)

 日産分会は、七月三日以降、連続一時間スト、さらに一一日は半日の波状ストをおこない、三社共闘の団結を固めたが、会社は、これにたいして一三日、一四日の臨時休業という戦術で対抗した。

闘争の第二期

 七月一六日、第一六回団体交渉の席上、組合は、今次賃上要求の保留を会社側に申出るとともに、組合活動に関する覚書案についても、これを修正して承認するという態度を示し、そのかわり一時金について会社が譲歩するよう要求した。「賃金闘争を放棄したことについて、益田組合長は、この賃上げは要求を組織したときから心配があり、昨年秋の惰性で確信のないまま進んだため中途でぐらついたと述懐しているが、理論的に優れた六本柱賃金の要求も、組合員ひとりひとりのものとはなっていなかったと解される」(労働経済四季報第二集一九一頁)。

 だが、全自動車の中核たる日産分会の「組織自体」を問題にする会社は、一時金についての譲歩要求も拒否し、ついに団体交渉は決裂した。後に、日経連の前田専務理事は、「会社の基本態度がこういう争議にあり勝ちな安易な妥協を避け」たことを高く評価している(経営者一九五三年一一月号)。

 三社共闘は、七月三日以降、連続一時間スト、さらに一一日よりいすゞ、一七日より日産、一八日よりトヨタが部分ストにはいった。しかし、いすゞ、トヨタ両分会とも、その闘争態勢はかならずしも強固とはいえなかった。たとえば、トヨタ分会では分裂策動がかなり表面化し、「トヨタを守る会」という署名、あるいは無署名で、次のような多数のビラがまかれた。

 △どこまで続くぬかるみぞ、泥沼闘争はもう御免だ。
 △無駄な一時間ストはやめた方がよい。
 △職揚放棄はもうこりごりだ。
 △七月賃金はどうなるか心配だ。闘争資金を貸出せ。
 △日産、いすゞにしてやられるな。
 △益哲(日産分会益田組合長)の口車に乗るな。
 △全くストはこりごりだ。国産自動車を守るために生産に入ろう。
 △闘争は短期に解決せねばならぬ。長期闘争は御免だ。
 △一時金の額を伸ばす闘争に集中しよう。
 かくて、八月三日にはいすゞ、四日にはトヨタが、それぞれ一時金を中心に妥結し、賃金値上げの要求は「全面的保留」を余儀なくされた。
 (注)いすゞ分会の闘争については、同分会から「闘争経過」(三月二七日−七月一一日)と題する詳細な日誌のプリントが発行されている。

 この時期に、日産では会社側が、七月二一日、組合の部分ストに対抗して整備課などの職場閉鎖をおこない、二五日の定期賃金支払日にはふたたび賃金差引きを断行した。そして、これに対してさらに組合が部分ストを拡大するというように、激しいせり合いが展開されていた。

 会社側は、日産分会が孤立したのを利用して、にわかに攻撃を強めた。日産自動車株式会社弘報班の発行する「御家族の皆様へ」という印刷物は、「商売仇のトヨタ、いすゞが妥結して、どんどん車を造ったら日産の地盤は覆され、あとになって泣くのは日産の従業員だ」と書き、「皆さん、この声をきいて空恐しくなりませんか」と呼びかけた。

 (注)日産自動車の争議中、会社側は、社長名・人事部長名あるいは弘報班の名で多数の印刷物を従業員の家庭へ郵送した。それには、「御家族の皆様へ」、「従業員並に御家族の皆様へ」、「従業員の皆様へ」、「従業員各位」、「組合員の皆様へ」という見出しがそれぞれついており、八月中旬からはタブロイド版の新聞形式を採用した。

闘争の第三期

 いすゞ、つづいてトヨタが妥結した翌日、八月五日午前四時に、日産分会の主力がある横浜・鶴見地区の第一−五敷地および吉原工場の工場閉鎖がおこなわれた。組合はただちに、工場閉鎖が不当であること、閉鎖反対の交渉をおこない、私物その他の保全のため現場へ立入ること、などを会社に申入れたが拒否された。そこで、各工場とも労働者はバリケードを突破して大衆行動の力で工場に進入し、会社側と対峠してゆずらなかった。

 しかし、翌々七日には、前記のように大規模な争議干渉(組合幹部の逮捕)がおこなわれるにいたったのである。日産と日を同じくして、日本自動車工業分会に対しても工場閉鎖がおこなわれた。

 これに勢いを得た会社は、九日にふたたびバリケードを築いたが、翌一〇日には、またもや労働者がそれを突破して工場へ進入し、そのまま徹夜のすわりこみをつづけ、一一日の「不当検挙・工場閉鎖反対・要求貫徹全支部総決起大会」を迎えたのである。横浜工場でひらかれたこの大会には、全国の日産の工場から約七〇〇〇人の組合員が集ってきた。この日、さきに検挙された者のうち三人が釈放され、組合員の歓声に迎えられて大会に臨んだ。(八月一九日までには全員が釈放された。)

 しかし、工場閉鎖に直面した組合の立場は、日とともに困難を増し、八月二〇日以降、二五〇万円を費したといわれるバリケード(横浜工場)で職場進入を阻止された組合の闘争力低下は否定できないものがあった。これに対して、会社側の動きは、きわめて計画的であり、バリケードの要所に動員した人夫は横浜工場だけで七〇人にのぼり、これをすべて直傭の常傭いとして賃金台帳まで備付け、日給三五〇円、臨時手当五五〇円、酒・タバコ・食事を別途支給した。

 (注)「合理化攻勢と争議−日産の場合」改造一九五三年一一月号。
 八月二一日には、益田組合長以下六名の組合幹部にたいして、会社は懲戒解雇を通告した。

 かくして、組合側も工場進入は諦めざるを得なくなり、闘争体制の強化をはかるため、八月二四日、首切り反対実力行使の全員投票をおこない、八九%がこれを支持した。また、工場閉鎖に対抗するため、居住組織の確立に着手した。二五日、全自動車本部に、各産業部門の労働組合代表が集って拡大共闘会議をひらいた。

 (注)日産分会が準備した闘争資金は一四〇〇万円、他の労働組合(主として総評系)からの融資総額一億三〇〇〇万円。

 八月三〇日、ついに横浜、鶴見両工場の約五〇〇人が分裂し、第二組合(日産自動車労働組合)の結成大会を、東京浅草公会堂でおこなった。つづいて九月四日、吉原工場で分裂がおこり、さらにそれは厚木、新橋、東京、大阪の各支部へ波及した。この分裂策動が初期においては管理、技術部門で激しく、現場でも鋳造関係の職人的な気風が残っているところに顕著であったことは特徴的である。また、この第二組合結成には、民労連系組合幹部が重要な役割を演じている。

 日産分会の組合員にたいする第二組合幹部の切崩し工作は、九月五日の土曜から六日の日曜にかけて、家庭にいるばらばらの労働者にたいし、とくに活溌におこなわれた。それは、組合員の一人一人を目標にして支配を強化するという、日産争議でとくに顕著となった資本家側の戦術のあらわれである。会社は、第二組合員にたいしてだけ、工場閉鎖を解除して臨時休業扱いとし、賃金の六〇%を保証するという挙にでた。

 (注)「日産自動車労働組合結成の趣旨」は、つぎのとおりである(同労組吉原支部のリーフレット「真実を訴う」による)。
 (1)闘争方針の政治的偏向は闘争の長期化に伴い益々組合員大衆の利益を故意に踏みにじっている。

 (2)闘争手段の非合理性、非合法性は官憲介入の口実を与え、組織の弱化を招き自ら労働者の首を絞めている。職制人に対する暴力的吊上げは、個人の基本的人権を無視した暴力行為であって、我々は断じて、看過する事は出来ない。

 (3)組合の非民主性は言論の自由を極度に損い、少数者の建設的反対意見は常に一方的に封殺されている。我々の生活は、そしてそのよって立つ企業は、これを無視した執行部の無責任な指導方針の強行によって危胎に頻している。かかる危機観に立つ時、もはや組織の内部に於て民主的方法によって我我の主張を通すなどという悠長さは許されない。

 分裂の状態を、第一次−八月三〇日の第二組合結成まで、第二次−九月二四日の生産再開まで、第三次−一〇月三〇日まで、に区分して各時期の脱退組合員概数をみると、前頁のとおりである。

日本労働年鑑 第27集 1955年版
発行 1954年11月5日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社
2001年10月16日公開開始


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