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日本労働年鑑 第26集 1954年版
The Labour Year Book of Japan 1954

第二部 労働運動

第四編 その他の社会運動


第三章 人権擁護運動

第五節 鹿地事件

 鹿地亘氏が五一年一一月二五日鵠沼で散歩中に消息をたち、米軍機関に拘束されているらしいということはその頃から関係者の間で噂されていたが、米軍に勤務中その事実を目撃した山田善二郎氏は鹿地氏の救出を決意して五二年一二月五日に記者団会見を行ってこの事実を発表し、都内各新聞はこれを掲載した。翌六日、日中友好協会理事長内山完造氏は鹿地氏救援を代議士猪俣浩三氏に依頼し、同氏はこれを国会内で取上げて救出にあたる旨を約した。新聞はこれを報じて漸く世人の関心をあつめ始めた。

 その翌日、一二月七日夜九時頃突然鹿地氏は釈放されて一人で自宅に帰り、八日には猪俣代議士を通じて「私は訴える」と題する声明を発表し、年余にわたって米軍機関に抑留されて拷問を加えられ、米国のスパイになることを強要された事実を明らかにした。

 一二月一〇日に鹿地氏は衆議院法務委員会に証人として出頭し不法監禁の事実を証言し、同時に呼ばれた内山完造氏、山田善二郎氏、斎藤正太郎氏(岩崎邸のボイラーマン)渡辺利三郎氏(東川クラブの使用人)榎本正雄氏(同)鈴木長松氏(茅ケ崎U・Sハウス管理人)の諸証人もこの事実を裏付けた。問題の拡大に応じて在日米軍司令部は鹿地氏釈放の翌日、八日に「司令部の記録書類を詳細に検討したところによれば、鹿地氏なる人物は一九五一年末拘禁され、尋問のため短期間留置の後軍拘禁を解かれている。その後鹿地氏はいかなる米軍機関によっても拘禁又は尋問をうけたことはない」と発表したが、一〇日の国会証言でこの発表が打消されたとみるや、更に一一日に米国大使館は「当大使館のうけた報告によれば一九五一年末に鹿地氏が抑留された理由は日本における某外国スパイとしての関係からであった」旨を発表した。これに符節を合わせて斎藤国警長官も国会で鹿地氏はスパイ事件に関連している旨を報告した。法務委員会は米側が不法監禁の事実について明確な態度を示さないのを不満として外務省を促して米大使館に対する問合せを要求し、外務省もターナー公使と折渉したが一向に渉らず、問題は五三年にもちこされた。

 法務委員会は更に一二月二三日に再度鹿地氏に証人として出頭を求め、鹿地氏は、釈放される直前二月二九日に米軍は鹿地氏を沖縄に送った事実を証言した。他方一九日には衆議院会館に真相報告会を開いて文化人、労組に更に詳細な不法監禁の事実が報告され、二二日にも渋谷公会堂で真相発表会が開催された。鹿地、山田両氏の救援活動は次第に結集して五三年一月六日には鹿地、山田救援会が結成されるに至った。

 この事件に関連して鹿地氏が声明書を発表した翌一二月九日に三橋正雄氏が米軍の命令で国警に自首し、同氏の自供内容が次々と新聞に報ぜられ、鹿地氏とスパイ活動に関連して連絡があったということが喧伝された。

 三橋氏は一二月二九日に電波管理法違反で東京地裁に起訴された。
 鹿地氏が一二月八日に発表した第一次の声明文は次の通りであった。
   
(私は訴える)鹿地 亘

 私は一年余り米軍当局に監禁されていたが昨一二月七日夕刻ふいに釈放された。このときになって知ったことはこの釈放が実は決死の覚悟で私のため奔走してくれた山田善二郎君、および私の諸友たち、さらに事実を知って立上ってくれた日本人民大衆の抗議にうろたえた米軍当局の緊急措置だったことである。

 私はここに心から皆さんの愛情に感謝すると共にこの愛情こそは渺たる私個人へのものだけでなく、今日われわれ日本人がおかれている祖国の状態に抗議する互に血の通い合う人民の声であることを切実に感じた。そこで私もまたこの声と愛とに全身をもって答えざるをえない。私は真相をみなさんに報告し、次の様に声明することを私の国民的義務と考える。いきさつの大要はもう山田君の陳述によって明らかであるが要するに私は昨年一一月二五日鵠沼で散歩中逮捕された。無我夢中の中に車中にひきづりこまれ、めかくしをされて拉致され、某所に監禁され、私が日本共産党員であるとか、ソ連のスパイであるとかの自白を強いられ、彼等の意図に従って米軍のスパイになるか、それとも誰にも知られない暗々裡の死を選ぶかを迫られた。私はむろん殺せと要求した。そして一一月二九日夜半隙に乗じて内山完造氏宛の遺書を走り書きし便所にあったクレゾール液をのみ、死の抗議を企てた。残念ながら薬が十分きかず、死に損なってその後一か月瀕死の境をさまよう失敗をした。その間私の決意をみてとって彼等はあわてて医薬療法の手をつくし私の回復を計った。逮捕された当時私は結核の外科手術後の療養中でようやく二〇分程度の徒歩ができる程度に回復した状態であった。肋骨を七本とり去った体に加えて右の事実が重なったため私は精根つきはてていて厳重な監視の中で彼らの加えるこの種の措置に対し全く自分の無力を意識した。そこで私はどうせ死ぬならその前に一切を暴露する機会を作りたい。つまり「一応の自由」を得て国民大衆に私の声を伝える工夫を試みようと決心した。

 さすがに私はうそにもせよ自分の魂を売ることはできなかったが、妥協のできる限りは彼らとも話合おうとする態度をとった。この時期からつまり私は彼らの自由なきお客さんとしての待遇をうけた。そこで私はここに鄭重に声明しておくが、上述の目的に副って私が彼らに迎応した陳述や手記はすべて私の真意でもなく事実でもないということである。

 自由なく一応の自由をうるには別の手段が絶無である情況においてとったそれらの行爲は今日私はそれに対して絶対に責任を負うことはできないものである。併せて声明するが昨日急に私を釈放するようになった時、彼等は私にソ連人と連絡をとっていて捕われたということの確認、および私が右に関し米国政府に何の賠償をも要求しないとの承認、という二ヵ条に署名させた。私にとっては右も卑劣な監禁を脱するための方便にすぎず、私はこれに何の拘束をうけるものではない。

 むろん私は一年余の不法監禁について米国政府に要求するところはある。それは外でもない、われわれの祖国をわれわれ日本人に返せ、ということである。祖国が牢獄となり、同胞が任意に何の手つづきもない逮捕をうけたり生命を脅かされたりするような行政協定を破棄して軍を米国にひきあげよ、ということである。その上で私たち日本人と米国人民との相互尊重の関係に道をひらけ、ということである。今度の私のような遭遇は遇然でもなく、また私個人だけのことではない。全国の誰についても何時でも今日の情態において起りうることである。私はそのような情態に反対する。

 山田君は身の危険をかえりみず私の救出にあたってくれた。というのは外でもない。同じ運命にある日本人としての彼にこれが感じられないはずはなかったのだ。愛国者山田君の至情と正義に私は感泣する。私は訴える、どうか全同胞のみなさん、山田君を守って下さい。同胞諸君、私はみなさんの力づよい救いの手に感泣する。そして私もまた諸君とともに余命をなげうって祖国の独立、自由、平和のための闘いに手をだずさえることを誓う。同胞を捕らえ、自由のために闘う同じ仲間へのスパイに仕立てたり、同じアジア人の血を流し合う戦争にアジア人を奴隷化するような危険に対して断乎として闘うことを誓う。アジアだけではない。今日の日本の処境は全世界のいたるところにある。それと闘う平和愛好の諸君人民にすべて私の誓いはささげられる。これが私のみなさんへの感謝のあいさつです。なお詳細についての私の手記は近くみなさんへの報告としてとりまとめて発表するつもりである。今日はこれ以上体力が許さないので以上の声明だけにとどめます。

  一二月八日


日本労働年鑑 第26集 1954年版
発行 1953年11月20日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社
****年**月**日公開開始


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