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日本労働年鑑 第24集 1952年版
The Labour Year Book of Japan 1952

第二部 労働運動

第一編 労働争議


第二章 主要な争議

第七節 東宝争議(つづき)

 この馘首反対闘争に対しては金属富士三鷹、東京土建はじめ各労組からの応援があり、又撮影所行動隊は連日東宝の各分会、大映、松竹、および私鉄、日立などにくり出し、東宝闘争の波は次第にひろがりをみせ、大映多摩川、松竹大船両撮影所も東宝との共闘を決議、二四日両代表は組合を激励、撮影所全映演組合および渡辺邦男、佐藤武両監督に抗議文を手交し、さらに吉村公三郎監督の『肉体の盛装』スタッフも首切りに反対の態度を示し二六日全員京都ロケから引揚(同日山田五十鈴は「一労働者として」日映演に加入の声明を発表)二七日には日映演松竹支部は東宝との共闘声明書を発表、日映演大映支部も正式共闘の申入れを行った。又日映演の闘争は映画産業としての特殊性から広汎な関心をよび、五月二四日の関東労組共闘会議は「日本映画をつぶすアメリカ映画のボイコット」等を決議し、二六日夜の都中部婦人共闘懇談会では各職場に映画の植民地化を訴え青年行動隊を組織してアメリカ映画とユナイテッド・ニュースのボイコット闘争展開が決議され、又二七日昼頃日劇の真正面に「戦争を挑発するユナイテッド・ニュースをボイコットしろ」といったプラカードが並び、青年祖国戦線の行動隊三〇名が東宝首切りによる日本映画の危機を訴え、「外国映画の無制限輸入反対」のビラがまかれた等、日映演の闘争は次第に広汎に波及しかつイデオロギイ闘争としての色彩を濃くしていったのであるが、かかる動きに対しては、六月九日、警官五〇名が日映演東宝分会を襲って同分会書記局、所内各職場および共産党東宝細胞事務所等を家宅捜査し、五・三〇釈放署名簿同ポスター、マ元帥への公開質問状を押収なお細胞責任者五名を任意出頭のかたちで連行するといった「断圧」も次第に強く加えられ、また『きけわだつみの声』の合評会等の禁止措置などが各所にみられた。(因みに、反戦映画東横『ひめゆりの塔』『日本軍敗れたり』大映『白ゆり部隊』の企画は、八月、映画倫理規定委員会によって禁止。九月二日試写会の予定であった『戦火を越えて』は「やむを得ない事情で」突然無期延期となった)。

 他方、民同派の全映演東宝支部は六月一日に解雇無効の仮処分を申請するとともに首切り撤回、団協締結の団体交渉をもったが物別れとなり、五月二八日のかく首反対臨時大会の決定に基き六月二日スト指令を発し、また伊藤義雄委員以下八名は日劇ベランダで無期限ハンストに入った。翌三日、本社、後楽園東光ビルは予定通り二四時間ストに突入したが、セントラル支配人メーヤ氏の手紙をねたにした噂などのこともあり、次の如き発表を行いストライキを中止した。「ハンスト及三日の本社分会営業分会のストに依り交渉の見透しつきたるによりスト態勢の儘、明四日以後の二四時間ストは一時延期する。尚本社営業分会のストは二〇時を以て打切る」。この突然のスト中止を全映演東宝支部闘争委員会発行の「闘争速報」(六月九日号)は次のように説明している。

 何故ストを一時中止したか
 (一)現社会情勢にあって、左翼の指令に基ずく反米闘争を目的とした一連の政治ストと時期的に一致する事は、対外的に我々の今次闘争を有利に導く事は疑わしい。

 (二)企業自体不安定である……今まで会社に協力的態度をとって来た全映演が完全に会社をつっぱなす事は、対外的信用の失墜から金融の杜絶などを招致し、企業瓦解を早め、会社が思い切った措置(破産申告)に出る事も容易に想像し得る。

 (三)組合内部問題 少くとも、三日本社営業の二四時間スト決行までは組合の団結は充分な態勢にあり一糸乱れぬ統一的行動をとった。しかし会社の切りくずしが激しくなるに及び、組合内の一部にスト反対の色が濃くなり、スト強行の場合、全体の行動態勢が完全とはいえなくなった。

 (四)日映演問題 加えて企業内に二つの組合が存在し全面的共闘の立場をとれぬ場合、一方がストをやる事はその組合の不利をまぬかれぬ。

 ほぼ右の理由から実力行使はとらず、法廷闘争をすすめる一方「あくまでも犠牲者救済の希望は捨てず」「万一をおもんばかる失業対策は会社と連絡し、失業対策機関の設置など具体的推進を促す」(同誌)こととなった。これは、盛会を極めた五月二八日の全映演かく首反対臨時支部大会(一、二二九名出席)に於ける右と全く同趣旨のスト反対者の意見を反ばくした撮影所分会委員長山田氏の現状分折に基き、中闘委員長福田氏が「今や起死回生の途は罷業権の行使以外になにもない、中闘は此処に重大決意のもとに、罷業権中闘一任の要請を表明する」と発言し、否認されれば中闘不信任とみなして中闘解散の挙に出るといったものすごい決意のもとに反対意見を説き伏せおし切って「満場一致可決」されたものだけに、まことに恐るべき転回であり七日の中央執行委員会に於て委員長ほか三役四名が「東宝支部の不明朗なスト中止について単一組織としての指導性にかけた」との理由で辞任を申出るといった事態をも引起したのであった。ともあれこうした全映演の闘争方針は、いち早く六月一六日の妥結にいたったのである。

 これに反して日映演の闘争はその後も執拗につづけられたが、八月一〇日の東京地裁の勧告により会社・組合両者の話合いがすすめられることとなった。しかし会社側は五月の人員整理をレッド・パージに切換えようと九月二五日その措置をとったため交渉は再び暗礁に乗り上げたかにみえた。とはいえ長期に亘る粉争過程に於て、会社側は、日映演以外のスタッフで作った『女三四郎』、『燃ゆる牢獄』(渡辺監督)『夢よ儚なく』『恋しかるらん』『歌姫都へ行く』(佐藤監督)といった一連の安手の映画が興行的にも見事失敗し、製作方針が一般に不評を買ったのと日映演が他社の日映演及び日本映画監督協会、シナリオ作家協会に不協力を呼びかけたのがきいて製作スタッフの編成難に陥り、又製作担当者の不慣れなどのため再建案が軌道に乗らなかった等の理由で早期解決を希み、他方組合側も闘争を続けているのは全国分会を通じて約一八〇名(内撮影所分会が約一四〇名)にすぎず漸く疲労の色濃く、その後数次にわたる交渉の末一二月二八日東京地裁で争議妥結の覚書が作られ、二九日撮影所分会は臨時分会総会を開いて妥結の条件を確認、同日午後五時から本社で仮調印が行われ、二二六日に亘る第四次東宝争議の幕はここに閉じられた。

日本労働年鑑 第24集 1952年版
発行 1951年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社
2000年6月1日公開開始


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