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日本労働年鑑 戦後特集(第22集)
The Labour Year Book of Japan post war special ed.

第二篇 労働組合

第三章 労働組合運動


第二節 労働戦線統一運動

 今次の世界大戦を通じて労働戦線は世界的規模で発展を遂げた。フアシズムに対する世界の民主々義勢力の闘いは、その偉大な成果のーつとして、従来分裂抗争の歴史をくりかえし来たつたプロフィンテルン系とアムステルダム系の労働組合を合同せしめ、世界労働組合連盟を生み出した。第二次大戦中を通じて分裂から統一へという発展の流は世界の労働戦線の基本的な傾向であつたが、ひるがえつて我が日本の労働戦線は如何なる発展を示しているであろうか。

 我が国の労働運動は世界の過去の例に漏れず戦線内部において対立抗争に終始し、終に太平洋戦争突入直前組合の解散によつて運動は中断したのであつたが、終戦後の労働組合運動はまさに飛躍的な発展を遂げ、労働大衆の戦線統一を求める気運も亦次第にたかまりつゝある。しかしながらわが国の労働戦線は、依然として産別会議、総同盟、日労会議三者てい立の状態にあつて、統一はおろか尖鋭な対立すら固定化しているのである。むろん終戦後より昭和二十二年末まで幾度か統一の気運に恵まれ、その度に僅ながらも発展を示したことは否定出来ない。

 しかしすべての統一へのこゝろみはいずれも終局的には失敗に帰した。過去に於ける分裂の遺産は未だに継承されているのである。

 結果に於ては此の様な状態にある終戦後の統一運動は、分裂の遺産をなげうつものこそは労働大衆であることを明確に教えている。我々はかゝる労働大衆を基盤にした下からの共同闘争の発展を充分に注目することが必要であろう。

 次に終戦後の統一運動を便宜的に五期にわけて説明しよう。すなわち第一期は終戦後より、昭和二一年のメーデーを契機として戦線戦線統一世話人会が結成され統一気運が頂点に達した時まで、第二期は吉田内閣の保守反動的な労働政策に対する反抗運動より、八月の総同盟、産別会議の創立大会に於ける統一問題に関する白熱的論議を中心とする時期、第三期は国鉄、海員の馘首反対のゼネストに始まる所謂十月攻勢とそれ以後の時期、第四期は二・一闘争とその際ゼネストの為に結成された全国労働組合共同闘争委員会を母胎にして全国労働組合会議準備会の発足となり、全国労働組合連絡協議会結成にいたる迄の時期、第五期は、全労連結成以後二十二年五月二十九、三十の両日にわたつて開かれた総同盟第四回中央委員会に於て決定された「戦線統一要綱」が、他の労働組合にもちこまれて真剣な検討の行われた時期である。

 一、終戦直後より二つの組織原則にのつとつた組合運動が別個に推進されて来た。すなわちその一は日本共産党第四回大会に於て決定された「過去における組合運動の極端な分裂の主因が、日本帝国主義と反動的改良主義の分裂政策にある」とし、「労働者階級の陣営の分裂、或いは分裂を導く如き一切の勢力と政策は断乎として、且つ系統的に闘い、その階級的利益のための労働者階級全体の統一、特に労働組合運動の統一的再建のために奮闘する」という原則によつて指導された関東地方労働組合協議会であり、その二は、総同盟第一回大会で決定された「労働戦線の即時統一の不可能な原因は、日本共産党の非友誼的態度と、産別会議派の中に巣喰う一部極左分子の無責任なる分裂主義」にあり、「御用組合組織の陰謀とさらにこれに便乗する左翼小児病患者の分裂政策を粉砕する」という原則にのつとつている総同盟とである。

 労協と総同盟の対立を緩和し、統一を促進するため、種々のこゝろみが行われ、殊に東交、都従、東急等の十組合は二一年三月二日、労働組合戦線統一促進会を結成して両者の統一をはかろうとしたが失敗に終つた。このような統一の気運は、その後幣原反動内閣打倒人民大会(四月七日)、メーデー,食糧メーデー(五月十九日)等一連の運動を通じて頂点に達した。労働者の利益を目的として団結の威力を示すためこれらの諸運動の共同の準備活動殊に世話人会の活動に於て、総同盟、産別会議準備会、関東労協の間にしばしば懇談を重ねた結果、次第に統合論が台頭するにいたつた。かくして更に戦線統一促進世話人会をつくつて、労働戦線の統一と社共両党を中心とする民主々義戦線の結成のために活動したのであるが、組織論をめぐり意見が対立すると同時に、食糧メーデーを機会に発せられたマツクアーサー元帥の「無規律な暴民デモに対する警告」によつて情勢が変化し、戦線統一の気運もやがて消え失せてしまつたのである。

 二、労協、総同盟の対立は依然として続いていたが、二十一年二月九日に最初の産業別単一組合として全日本新聞通信労働組合が結成されたのを契機に、全日本鉄鋼・全日本印刷出版等の産業別単一組合が続々と結成された。これらの産別組織は労協が母胎となつて居り、事実上労協系の組合が指導したものであつた。このような産別組織は、その後全日本新聞通信労働組合の主唱によつて産業別労働組合会議準備会に結集した。

 折しも進歩・自由両党の結合した安定勢力の上に立つた吉田内閣はその成立早々「社会秩序保持に関する声明」(六月十三日)を発表した。その内容となつているのは次の三点である。(一)社会秩序を脅かす惧れのある大衆運動の取締り、(二)生産管理は正常な争議行為と認めず、(三)資本家の生産サボに対しては生産命令又は第三者への委託経営の措置をとる。この声明によつて資本家陣営は一斉に態勢をとゝのえ、労働者に対する反撃に転じてきたのである。続いて吉田内閣は労働関係調整法案、及び軍需補償打切りに伴う再建整備に関する諸法案を発表した、前者は官公吏の罷業禁止と公益事業の争議に三十日の予告を義務づけたものであり、罷業弾圧法の色彩をもつたものであつた。後者は擬制資本の打切りと企業再建のための大量馘首を予知せしめ、国鉄に於てはすでに大量整理案すら発表されていた。かゝる積極的な資本の攻勢に対して労働組合は共同戦線をちやくちやくと整備し、七月十五日には産別、総同盟、官公職協議会の三者合同によつて労調法反対のデモを組織するにいたつた。つづいて全日本鉄鋼労組では八月五日を期して戦後初の二十四時間ゼネストを決行し、又日本機器労組、日本印刷出版労組は国鉄と同時に一日ストを決定した。かくの如き共同闘争のもりあがりは八月二日の労農大会となつて結実した。此の労農大会は産別総同盟をはじめ日本農民組合も参加し、政府並びに資本家の攻勢に対して反対の示威を行つたのである。この一連の共同闘争は一時対立状態にあつた産別会議と総同盟の間にふたゝたび統一への機運を呼び起し、八月にひらかれた産別、総同盟の大会に於ても統一問題が白熱的に議論された。

 産別会議の結成大会に於ては戦線統一の問題について一部には無条件合同論が主張されたが、大勢に於ては「現段階では首切り反対、労調法反対、世界労連への参加等の共通点で共同闘争を展開し、徐々に合同の方向にもつて行く」ことが決定され、中央集権(産別)か、共同闘争の協議機関(総同盟)かという組織論の違いも共同闘争を通じてのみ克服されることが強調された。一方総同盟は反共を固守し、今後の目標として「健全なる労働組合主義に則り、全国的産別組織と府県連合会の確立を図り、主体的力の結集に邁進する」ことがあげられ、戦線の即時合同は時期尚早であるとしている。かくして労調法反対の運動を通じて、前進したかにみえた労働戦線も何等の結実をみずに終つた。しかしながら産別会議の戦線統一の闘争方針である共同闘争を通じて統一への方向はその後も推進されつゝあつた。

 三、八月に入つて政府の整理案の具体的な発表があつたのに対して国鉄・海員の労組は、馘首反対の要求を掲げて闘争に入つた。これを前哨戦として、失業の不安と生活の脅威にさらされた産別会議の各単一労組は最高闘争委員会を組織し十月攻勢を強力に推進することゝなり、先ず新聞通信労組を先頭に争議の幕は切つておとされた。この産別会議の闘争に対し、産別会議からしばしば闘争協力方の申し入れを受けた総同盟は経済主義の立場から、最初は傍観的な、時には排撃的な態度をすら示した。すなわち国鉄ゼネストに対しては八月三十日、又産別会議の十月攻勢に対しては十月十二日夫々声明書を発してゼネスト反対の態度を明らかにした。(註)

 註 総同盟原総主事談(読売、二一、十、十二)ストライキは必ずしも労働者が希んでいるものではない。労働者の全要求を貫徹する最後の手段としてのみ行うものだ。利益の公平な分配とか経済協議会が完全に実施していないのに政治ストを行うの自壊作用であり、自殺行為だ。総同盟はこのような産別の政治ストには断乎反対する。彼等は今後も十月攻勢、二月攻勢としつこく波状攻撃を行うであろうが、今同の新聞ゼネストの失敗と同様、輿論の支持を失い失敗するであろう。(後略)

 しかしながら闘争の発展とこれによる労働者陣営の全面的昂揚は次第に総同盟傘下の組合に波及していつた。すなわち総同盟傘下で最も戦闘的な全国金属労働組合は総同盟の他の単一労組に率先し、十月二十二日越冬攻勢の指令を発し、続いて大阪交通労組が関西でゼネストを敢行した。全国金属をしていちはやく越冬攻勢に赴かしめたのは産別会議の闘争が賃上げ団体協約の面で相当な成果をあげたことが大きな原因であろう。総同盟本部は之に関し「産別会議の組織した澎湃たるストライキの波により激成された労働不安と地方政治的迫害の暴威が身近くせまつてきた結果である」と説明している。

 十一月四日終に総同盟も中央委員会を開き、統一闘争目標を明示し全国的に「越冬攻勢」を指令した。総同盟の越冬攻勢がその闘争手段に於いて産別のストライキ偏重に対し極力これを避けんとする相異はあるが、それは従来の傍観的態度を一擲したものといえよう。この総同盟の動きは更に電産、教員組合の争議により強化された。電産争議はその闘争の組織力、粘着力、その要求の科学的基礎に於いて史上特筆に値するものであつたが、これに対する政府の政策は極めて反動的(低賃銀政策、弾圧政策及び中央労働委員の調停案に反対の態度)であつたことは痛く労働者側を激昂せしめた。総同盟系では先ず全国金属労組が十一月八日内閣打倒を決議、ついで全国化学労組がその結成大会で同一の挙にでた。それは終に総同盟全体を動かし、十一月十一日総同盟では中央常任委員会は次の如き声明書を発し吉田内閣退陣を決議するに至つた。

声明

 電産争議調停に関する中央労働委員会の裁定に関し、政府は反対声明を発したが、政府自ら任命せる委員会に対し不信任を表明することは、正に政府政策の破綻である、産業復興の能力を欠き、産業不安を解決できない吉田内閣は退陣し、勤労大衆の民意を反映せる新政権の出現を待望する。

日本労働年鑑 第22集/戦後特集
発行 1949年8月15日
編著 大原社会問題研究所
発行所 第一出版
2000年2月1日公開開始


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