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日本労働年鑑 戦後特集(第22集)
The Labour Year Book of Japan post war special ed.

第一篇 労働争議

第一章 争議の大勢


第一節 概況

 日本の労働運動は明治末期に萌芽し第一次世界大戦後活況を呈するにいたつたが、しかも組織率(労働組合員の全労働者に對する割合)の最高は満洲事変の直前昭和六年における七・九%であり、殆ど大部分の労働者は未組織のまゝ放置された。多くの弾壓法規の下で僅ながら存在していた労働運動の合法的な領域すら昭和十二・三年以降すなわち完全な戦争體制への突入とともに強力におしつぶされ、およそ労働運動と名のつくものは一切官憲によつて制壓されつくした。むろん此の制壓に對する労働者のちみどろな抵抗は最後までつゞけられたが、しかし大勢として労働者の自主的運動にとつてかわつたのは昭和十五年近衛第二次内閣によつてつくられた上からの「産業報國會組織」であつた。

 このような窒息状態にあつた日本の労働運動は敗戦の結果漸く蘇生することができた。すなわち昭和二十年八月十五日に受諾したポッダム宣言の中には「日本國政府は日本國國民の間における民主々義的傾向の復活強化に對する一切の障害を除去すべし」という一項があり、これにもとずいて昭和二十年九月三十日大日本産業報國會は解散され、又十月四日に發表された日本帝國政府に對する「政治・信教並に民権の自由に對する制限の撤癈」についての覚書によつて治安維持法及び特高警察が廃止され、獄中に在つた共産主義者も解放されることゝなり、こゝに労働組合運動の自由な發展を阻止していた障がいはとり除かれた。かくして全國津々浦々に労働組合結成の機運が澎湃として湧きおこることになつた。

 日本資本主義は、敗戦とともにその體制的矛盾を一層拡大し、深刻な生産危機に直面せざるをえなかつた。このように崩壊に瀕した資本主義の再編成のためにとられたインフレ政策は生計費をいちじるしく昂騰せしめ、労働者の生活窮乏は特にはなはだしかつた。敗戦後の労働運動が一方では國際的民主々義勢力の要請にもとずくものであつたとはいえ、かゝる困難な生活状態にあつた労働者が、その生存を維持するためには必然的に自然發生的な労働運動に向わぎるを得なかつたのであり、その意味において日本資本主義の體制的矛盾が生み出した産物に他ならなかつたのである。

 しかしながらこの自然發生的な労働運動も、敗戦直後は古い労働運動家の指導を受けた場合は別として、一般にはいまだ混沌たる状態にあつたことは否定出来ない。このような状態から脱却した第一歩は、昭和二十年十一月二十三日幹部の戦争責任を追求してたちあがつた読売新聞社従業員の闘争であつた。すなわち読売争議は敗戦後の最も大きな問題の一つであつた戦争犯罪人の追放を労働者が積極的にとりあげたこと、及び争議の方法として始めて業務管理を行つたこと、の二つの意味でまさに画期的なものであつたのである。

 この読売争議は混沌としていた労働運動に對して具體的目標と争議方法の點について多くの示唆を与えたが、しかも組合の結成は常時いまだ何等の組織的連絡もない単位組合の結成という形であり、またこの頃から次第に活溌化してきた労働争議も、その要求事項は簡単な組合承認や、賃金値上等にとゞまり、争議手段も極めて幼稚であつた。又北海道の三菱美唄炭礦におけるいわゆる「人民裁判事件」等において典型的にあらわれているように、戦時中にうつ積された労働階級の不満が一時的に爆發することになつた事例もみのがすことはできない。もちろん再出發しつつあつた、日本の労働運動が、長い間圧迫されてきた廣汎な、後れた大衆がいるといふ條件も加わつて、未だこのような未熟な段階にあつたとはいえ、それが過去に根強く支配していた前期的諸関係の拂拭に大きな役割を果たしたことは否定できないのである。しかしながら同時に戦後の労働運動は、生産の崩かいといふ新しい困難を打開しなければならなかつた。そのための積極的な活路として廣く採用されたのが生産管理(業務管理)である。すなわち読売争議の際すでに行われた生産管理はその後より徹底した形で京成電気鐵道の争議(昭和二十年十二月)に受けつがれた。京成電鐵の生産管理は、その要求を貫徹せしめると同時に作業能率をいちじるしく増進せしめたのである。このことは生産の崩かいという現實を前にした労働運動に大きな示さを投げかけることになつた。すなわち生産管理は、資本家の生産サボタージュを打破すると同時に、生産再開という社會の現實的な要請にこたえるため、生産力のにない手たる労働階級が積極的にあみ出した闘争戦術だつたのである。昭和二十一年の三月から六月にかけて生産管理を争議手段とする争議件数は次第に多くなり、罷怠業をも上まわる数字を示したことは敗戦直後の労働運動の特質をあらわしている。

 さて最初は単位組合の単獨的な争議が相互の連絡もなく行われていたのであるが、昭和二十年の十二月頃から、三菱重工業東京機器製作所や、東京芝浦電気川崎地區等にあらわれているように、同一資本下、あるいは近隣工場における共同闘争が行われるようになつた。このような共同闘争による自然成長的な組織の結合が行われる一方、計画的に各単位組合を、主として地域的に結合させる動きも次第にあらわれるにいたつた。すなわち昭和二十年十二月二十五日には神奈川縣第一回工場代表者会議がひらかれ、神奈川縣下二一工場の代表が参集して共同闘争の展開を決議したのである。つずいて東京に於ても城南、城東、城西等の各地区で協議會が結成された。共同闘争を母胎として生み出されたこれらの協議会は組織的な共同闘争の指導機關となり、東芝川崎地区六工場、日本鋼管鶴見工場等の争議は神奈川縣労働組合協議會に、日本起重機、電業牡の争議は城南地区協議會にという形でそれぞれ地域的な指導體に指導されて大きな成果をあげることができた。

 地区的組合の基礎の上に更に大きな地方的結合體として結集した開東地方労働組合協議會は、産業別整理の過渡的な指導機関たる役割を果し、漸次全國的単一産業別組合に再編成を行つた結果、昭和二十一年二月二十日いち早く産業別整理を終つた日本新聞通信労働組合の主唱により、全國産業別労働組合會議準備會の発起人會が開催されるはこびとなつた。組織上では以上の様な発展を示した労働運動も、二十一年二月、三月は、全般的に退潮を示したが、四月七日の幣原内閣打倒人民大會、さらに五月のメーデー闘争にかけて再び運動は高揚し、労働組合の経済主義的闘争は政治的闘争の色彩をおびるにいたつた。かくして全國映畫従業員組合同盟の共同闘争を契機に闘争の形態は質的に転化し、異つた資本のもとにおける同一産業の大規模な共同闘争が展開された。全映につずいて全日本印刷出版労働組合、日本発送電従業員組合、日本鐵鋼労働組合、全日本機械器具労働組合等がそれぞれ共同闘争に立ちあがつた。これらの産業別共同闘争を通じて六月二十六日産業別労働組合準備大會がひらかれ、そこで當面の闘争方針、組織方針、労働戦線の統一方針が審議された結果、八月十九日には産業別労働組合會議の結成が行われることゝなつた。産別會議の結成は、労働組合運動を経済的な枠内から更に政治的に高度化しようとする労働階級の成長のあらわれとみることができよう。

 先に二十年十月十日、かつての日本労働總同盟、日本労働組合同盟、日本労働組合全國評議會等の指導者を中心とした単一労働組会結成懇談會によつて発足した總同盟は、二十一年一月に「日本労働組合總同盟」として正式に決定された。このようにして結成された總同盟は、共同闘争を通じて組織された産別會議と對立し、その後労働戦線統一世話人會等によつてしばしばこの両組織を合流せしめんとする動きがあつたにもかゝわらず、労働戦線に於ける二大分野を畫することになつたのである。

 以上の如き組織的な大發展を背景として、組合の要求も高度化し、賃金値上げと共に團體協約の確立、経営参加の要求となつてあらわれている。

 労働運動の、飛躍的な活溌化にくらべて、資本家階級の立ちおくれはいちじるしかつたが、二十一年六月十三日の「社會秩序に閻する声明」に於ける生産管理否認の方針の確立にあらわれた如く、資本家側も労働者の組織に對して組織的な整備をはかり、六月の読売争議には三百名の警察官を用いて直接的な反撃を加えてきた。資本家のこのような攻勢の後だてとなつたのは自由、進歩両党の結合の上に立つた吉田内閣だつたのである。六月以降労働争議に若干下火になつたが二大組織の結成(産業別會議及び總同盟)に促進され、九月十月にかけて大規模な闘争が執拗なストライキの下に展開された。これがいわゆる産別會議の十月攻勢である。十月攻勢のような大規模な共同闘争が組織の力によつて始めて可能であつたことはいうまでもないが、それを可能ならしめた條件は更に深い所にあつた。すなわち敗戦後、體制的危機に面した日本経済の救済手段として第一にインフレーションによる実質賃金の切り下げ、第二に大量馘首による産業合理化がとられたのであるが、その結果、労働者の生活が全體として窮迫化したことが、このような大闘争を可能にした最も深い條件であつた。

 大量馘首がます具體化したのは二十一年九月、海員及び國鐵の両組合に對してであつた。海員、國鐵の労働組合は馘首反對のストライキを以てこれに對抗したが、この闘争は、失業の不安におびやかされた労働階級の防衛であつた。すなわち戦後日本の船舶保有量は激減したことを理由に、海運總局並びに船舶運営會は六萬のクビキリを計畫したのに對し、海員組合は闘争を開始し、組合内の混乱をおしきつてゼネストを敢行するにいたつた。

 同じ頃鉄道省は大陸の鉄道より十八萬、復員者二十萬を迎えいれるという口実のもとに、七萬五千の馘首を計畫した。國鐵労働組合總連合は之に對しゼネストを決議して對抗したが、ゼネスト決行寸前で當局との妥結なり、整理案は取消された。海員、國鐵を中心とした九月における馘首反對闘争は、防衛的な闘争であり廣汎な共同闘争として展開された十月闘争の先駆的役割を果した。

 十月闘争の幕をきつておとしたのは東京芝浦電気株式會社労働組合協議會の闘争である。すなわち東芝では最低賃金制の要求、産業復興會議開催等の要求を提出して交渉した結果決裂し、十月一日から一せいにゼネストに入つた。東芝につずいて全國炭礦労働組合、全日本新聞通信労働組合、日本電気産業労働組合協議會、全日本機械器具労働組合、全日本電気工業労働組合、日本映畫演劇労働組合等が続々と闘争に立ちあがり、争議はかつてない規模の大きさを示した。罷業に入つた労働者の参加人員が飛躍的に増大したばかりでなく、その闘争態勢の組織、及び要求内容の点に於ても格段の成長がみられる。すなわち十月闘争は産別會議が自からゼネストの機関たることを確認して統一的な指導にあたり、要求にも産業別単一組合による統一團體協約の締結と、生産復興の積極的な意慾が充分にあらわれている。このことは九月闘争が馘首反對という自己防衛的色彩を有していたのに反して、労働者階級が日本の復興のイニシアティーブをとろうとするものであり、その意味に於て十月闘争は本質的に「攻勢」の意義をもつものであつた。

日本労働年鑑 第22集/戦後特集
発行 1949年8月15日
編著 大原社会問題研究所
発行所 第一出版
2000年2月1日公開開始


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