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日本労働年鑑 第65集 1995年版
The Labour Year Book of Japan 1995

特集 ILOと日本


第一章 ILO創立から日本の脱退まで(一九一九〜一九三八年)

一 ILO創立の趣旨と経緯

(1) ILO誕生の背景

 ILO誕生の背景には、国際的な労働者保護の提唱、公正労働基準による公正貿易の促進、労働組合運動サイドの要求、ロシア革命の影響などがあるといわれている。

■ 国際的な労働者保護

 はじめて国際的な労働者保護を提唱したのは、英国のロバート・オーウェン(一七七一〜一八五八年)だとされている。綿紡工場の経営者であったオーウェンは、人道的にも経済的にも労働者を保護する必要があるとして、みずからモデル工場をつくって、児童労働禁止をはじめ労働条件の改善につとめた。そして、労働条件の改善と労働時間の短縮は国際的に処理されるべきだと考え、ロシア、英国、オーストリア、プロイセン、フランスを中心とする神聖同盟の加盟国君主会議にその旨を建議したが、成果は得られなかった。

 次いでフランスの工場主であったダニエル・ル・グラン(一七八九〜一八五九年)は、さらに具体的に、一日の労働時間規制、女子と年少者の夜業禁止、児童労働禁止などに関する国際協定を提唱したが、具体化には至らなかった。

 これらの先覚者たちの努力は、その後、各国政府も認めるところとなり、ヨーロッパでは一九世紀後半に労働条件規制の国際会議が数回開かれたのち、一九〇〇年の国際労働保護立法会議において、常設の事務局をもつ国際労働保護立法協会が設立された。この協会は、当初から各国政府や労働者団体の支持を得ることができたので、一九一九年のILO創設までの間、有力な団体として活動し、女子夜業禁止、黄燐マッチ製造禁止などに関する国際条約の成立に貢献した。

■ 公正貿易の促進

 国際的な労働者保護を提唱する運動の背景には、人道主義的な配慮のほか、経済的要因もあったとみられている。当時各国は経済発展を進めていたが、そのためには世界市場が安定的に発展することが必要であり、貿易競争は公平に行われるべきだと考えられていた。そこで、一定の国際労働基準を定め、それを履行できない国は不公正競争国としてアウトサイダー扱いにしたらどうか、というのである。

 この考え方は、その後、低賃金によって国際市場の秩序を乱す行為をソーシァル・ダンピングとして非難し、労働条件の低い国を制裁しようとする動きにつながっていった。さらに近年では、国際貿易における「社会条項」という表現で議論されるようになっている。

■ 労働組合運動からの要求

 一八六四年創立の国際労働者協会(第一インターナショナル)、一八八九年の社会主義者会議(第二インターナショナル)をはじめ、一九一三年の国際労働組合連盟などの労働組合運動は、児童労働、女子夜業、その他の労働条件に関する国際条約の採択を要求し続けた。また第一次大戦中は、連合国労働組合会議が開催され、来たるべき講和会議で成立する講和条約のなかに労働条項を設け、労働権、団結権、社会保険、労働時間、労働安全、労働監督などの問題をとりあげるよう要求した。さらに、一九一九年二月には、パリの講和会議と並行して、国際労働者社会主義者会議、国際労働組合会議の二つの会議が開かれ、「パリ講和会議における国際労働憲章の綱領」を採択したが、これがのちのILO憲章の成立に影響を与えた。

■ ロシア革命

 このようにして、労働者を保護するため国際的に労働条件を規制しようとする動きは続いたが、講和条約のなかに労働問題関係の条項を取り入れざるを得ないと関係者に考えさせた決定的要因は、一九一七年のロシア革命とその影響だったといわれている。ヨーロッパでは、ロシア革命のあと、ハンガリー、英国、フランス、イタリアなどで革命的気運が高まり、労働組合運動は過激化するきざしをみせはじめ、オランダやスイスのように比較的安定した平和な民主国家でさえも、影響が心配されるようになった。

 このような事情から、本来は賠償、軍事などを処理する講和条約のなかで、労働問題に十分配慮せざるを得なくなり、国際政府間機関でありながら、政府代表と民間代表(使用者代表と労働者代表)に平等の投票権と対等の地位を与える(いわゆる三者構成)という大胆な構想が実現したのである。

 (2) ILO憲章の成立

■ ベルサイユ講和条約「第一三編 労働」

 一九一九年六月二八日に署名されたベルサイユ講和条約は、その「第一三編 労働」によって、労働条件の国際的規制を促進するための常設機関であるILOの設置を定めた。この「第一三編 労働」(第三八七条から第四二七条まで)は、のちにILO憲章となる。この憲章はILOの基本原則、目的、組織などを規定し、一九四四年には、第二次大戦後の世界に対処するための「国際労働機関の目的に関する宣言」(いわゆるフィラデルフィア宣言)が採択され、これが憲章の付属文書となった。

■ ILOの原則と目的

 ILO憲章は、その前文で、「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」、「世界の平和及び協調が危くされるほど大きな社会不安を起すような不正、困苦及び窮乏を多数の人民にもたらす労働条件が存在し」、「いずれかの国が人道的な労働条件を採択しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」として、次のような具体的な労働条件の改善が急務であるとしている。

 (1)一日および一週の最長労働時間の設定を含む労働時間の規制、(2)労働力供給の調整、(3)失業の防止、(4)妥当な生活賃金の支給、(5)雇用から生ずる疾病・疾患・負傷に対する労働者の保護、(6)児童・年少者・婦人の保護、(7)老年および廃疾に対する給付、(8)自国以外の国において使用される場合における労働者の利益の保護、(9)同一価値の労働に対する同一報酬の原則の承認、(10)結社の自由の原則の承認、(11)職業的および技術的教育の組織ならびにその他の措置。

 また、ILOの基礎をなす基本原則として「国際労働機関の目的に関する宣言」(フィラデルフィア宣言)は、その第一項で、次の四点を再確認している。

 (1)労働は、商品ではない。(2)表現および結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。(3)一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。(4)欠乏に対する戦は、……労働者および使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、……遂行することを要する。

 (3)ILOの組織

■ 加盟国

 ILO加盟国は、一九九四年一〇月一日現在一七一ヵ国を数える。ILO憲章(一条二項)によれば、国連加盟国の場合は、ILO憲章の義務の受諾を条件として自動的にILO加盟国となることができる。国連加盟国でない国は、ILO総会の決議によってILO加盟国となることができる。その場合、総会出席の代表の三分の二(政府代表の三分の二を含む)の賛成を必要とする。日本は一九一九年のILO創立以来の原加盟国であったが、一九三八年に脱退し、戦後一九五一年に、国連加盟に先だってILO総会の決議によって再加盟が承認された。

 ILOは国際政府間機関であるから、その予算は加盟国からの分担金でまかなわれる。予算年度は二暦年で、一九九四〜九五年度の予算総額は、四億六六五〇万ドルである。

 一七一ヵ国の加盟国で構成されるILOの主要機関は、憲章第二条の規定によって、加盟国の代表による国際労働総会(ILO総会)、理事会、国際労働事務局(ILO事務局)の三つである。このほかの機関としては、アジア、アフリカなどの地域会議、産業別委員会、課題別の専門家会議などがある。

■ 国際労働総会

 総会は、ILOの最高議決機関で、通常、毎年一回開催される。一九一九年一〇月にワシントンで第一回総会が開かれて以来、一九九四年六月の総会は第八一回に当たるものであった。

 総会は、各加盟国の四人の代表で構成し、四人の代表のうち二人は政府代表、他の二人は民間代表(使用者代表、労働者代表それぞれ一人)とされる。各代表は技術的議題一議題につき二人の顧問をともなうことができる。また、とくに女性に関係のある議題が審議されるときは、顧問のうち少なくとも一人は女性でなければならない。なお、ある国の代表が政労使四人の代表からなる完全代表団でなく、労使の代表のいずれかが欠ける場合は、他の民間代表は発言はできるが投票権は認められない。

 総会の重要な任務は、条約・勧告の形式で国際労働基準を設定し、加盟国によるその批准・適用を促進することである。これは、基準設定または国際労働立法ともいわれる。一九一九年の第一回総会以来これまでに採択された条約・勧告の数は、それぞれ一七五、一八二を数える。加盟国による条約批准数の平均は三六で、日本は四一条約を批准しているので平均をやや上回る。なお、OECD諸国の平均批准数は六七なので、先進国のなかでは日本の批准数は少ないことになる。

■ 理事会

 理事会は、ILOの執行機関であって、最高議決機関たる総会の決定を執行し、ILO事務局を監督する。企業でいえば取締役会、労働組合でいえば執行委員会に当たる。

 理事会は、政府を代表する二八人、使用者を代表する一四人、労働者を代表する一四人、計五六人の理事で構成する。政府を代表する理事二八人のうち一〇人は、主要産業国であるいわゆる常任理事国(カナダ、中国、フランス、ドイツ、インド、イタリア、日本、ロシア、英国、米国)が任命し、残りの一八人の政府理事と労使の理事は、三年ごとに総会で選出される。

 理事会は、通常、毎年三回開催され、ILOの政策と事業計画の策定を主要任務とする。とくに、総会の招集と議題の選定、総会の決定事項の処理、ILO事務局の監督、条約・勧告の適用状況の監視などが重要なものである。理事会には、予備的な検討を行うため常設の各種委員会があるが、日本との関係では、とくに「結社の自由委員会」が知られている。

■ 国際労働事務局

 ILO事務局は、ILOの常設事務局で、理事会の監督のもとに、総会、理事会、その他の諸会議の書記局を担当し、これらの会議の議題報告書を作成し、労働生活条件に関する国際的な資料を収集、分析、配布する。また近年は、開発途上国への技術協力を活発に行っている。ILO事務局の本部は、一九二〇年以来ジュネーブに置かれていたが、第二次大戦が激しくなったため、一九四〇年に一時カナダのモントリオールに移り、終戦とともに再びジュネーブに戻った。

 ILO事務局には、理事会の任命する事務局長(現在はベルギーのミシェル・アンセンヌ)の下に一〇〇〇人を超える職員がおり、ジュネーブの本部のほか世界各地の地域事務所、地区事務所、支局などで活動しているが、このうち日本人職員は三〇人ほどである。日本には、ILO東京支局が置かれている。なお、事務局の関連機関として、国際労働問題研究所や国際研修センターも設置されているほか、国際労使関係研究協会(IIRA)と国際社会保障協会(ISSA)の事務局もILO事務局が担当している。

 二 ILO創立時の日本の役割

■ 国際労働法制委員会と講和条約「第一三編労働」

 ILOは、ベルサイユ講和条約「第一三編労働」によって創立が決定されたが、この「第一三編労働」を具体的に審議したのは、講和予備会議が設けた国際労働法制委員会であった。この委員会は、米国、英国、フランス、イタリア、日本、ベルギーから各二人、キューバ、ポーランド、チェコスロバキアから各一人の委員で構成され、「国際的立場から労働条件を調査し、労働条件に影響を及ぼす諸問題について共同の措置をとるために必要な国際的方法を考慮し、国際連盟と協力し且つその指示のもとにこの調査と考慮を継続しておこなう常設機関の形式を勧告する」ことをその任務とした。日本代表の委員は、落合謙太郎(オランダ駐在公使)、岡実(前農商務省商工局長)の二人であった。また米国の二人の委員のうち一人は、米国労働総同盟(AFL)会長サミュエル・ゴムパースであった。

 委員会は、二月一日から三月二四日まで三五回会合して「第一三編 労働」の草案をまとめ、この草案が四月一一日の講和会議総会で採択され、ILOが誕生することとなった。委員会は第一回会合で、ゴムパースを議長に選出したが、これは、外交会議における民間人、とくに労働組合の代表が議長になるという画期的なことであったばかりか、当時の各国政府が、労働者側の意向を大いに配慮せざるを得なかったことを示すものである。

■ 日本の意見

 当時の日本は、富国強兵の国策のもとに、経済的側面を重視して産業を発展させ、労働運動を抑制して秩序を保つ方針であった。そこへ、欧米の進んだ労働基準をもちだされたのでは、産業の発展に打撃を与えるばかりか、労働運動を刺激して日本の国体にも影響を与えるおそれがある、という風潮であった。このことは、最終草案の総括審議の際に岡代表が次のように述べていることからもわかる。

 「日本政府は、労働者の健康および幸福を保護するために努力を払ってきた。現在日本では社会政策を各方面に向って推進する委員会ができて働いている。日本は労働者の物質的および精神的状態を改善する努力においていかなる国にも劣るものではない。しかし英米で行われている条件を日本労働者の習慣特に安易の労働の習慣を無視してそのまま適用することは、黄金の卵を生む野鴨を殺してしまう危険がある」。

■ 総会代表団の構成について

 審議の過程で日本代表がとくに問題とした点の一つは、総会代表団の構成であった。総会に出席する加盟国の代表は、政府二、民間二(使用者一、労働者一)計四人で構成することになったのだが、当時の日本としては、政府代表とならんで民間代表を出すことは革命的なことてあった。そしてとくに、労働組合が未発達ななかでどのようにして労働者代表を選定するかを難問と考えた。労働組合を認めなければならないという大勢は理解されていたものの、産業や政治への影響を考えると、自然発生的な組合を承認していくのが良いか、それともある枠を設けて指導し、助長していくのが良いのか、という選択があったのである。

 そこで岡代表は、「労働組合も使用者団体もない国では、労使の代表者をどうして選定すれば良いのか」と質問し、「総会出席の労使代表に関する規定の目的は、元来、組合組織を奨励することにあり、少くとも何らかの原始的な形の組織が存在しない国はないと思う」との回答を得た。この点は、後述の官選労働代表の問題に関連してくる。

 政府代表二、民間代表二の割合については、岡代表は、「政府代表を二人としておくと一人は使用者側を、一人は労働側を支持し公平なバランスをとることができる。それに日本の事情からいうと、労働立法の進歩については労働者自身よりも政府の方が関心が大きいのであるから、政府の代表力を強くするのに賛成である」として、この割合を支持した。

■ 条約・勧告の国会提出の問題

 次に、条約・勧告の国会提出の問題がある。原案では、総会で採択された条約・勧告はすべて、総会終了後おそくとも一年以内に、立法または他の措置のために、権限のある機関に提出しなければならないものとされていた。日本はこれについて二つの問題を提起した。一つは「一年以内」という期間、いま一つは「権限ある機関」の限定である。

 まず期間については、日本はヨーロッパからは遠隔の地にあり、パリ・東京間では電報でさえも三日もかかり、旅行には一ヵ月以上も要する。また日本の国会は年に一回しか召集されず、期間も三ヵ月程度である。このような特殊事情を考えると、「一年以内」では無理になるので期間を延長するよう提案した。その後この提案が受け入れられ、「且つ、いかなる場合にも総会の会期の終了後一八ヵ月以内に」という文言が挿入されることとなった。「権限ある機関」については、本来は立法府たる国会を意味するものであった。しかし、日本で条約批准の権限をもつのは帝国議会ではなく枢密院であったため、規定上「立法府」と限定されるのは好ましくなく、「権限ある機関」という文言の方が良いと主張、これが生かされた。このため、日本では脱退まで、条約・勧告は帝国議会ではなく枢密院に付議されていた。

 このほか、委員会ではILOの公用語として英語、フランス語の二つが決定されたが、その際日本代表はエスペラント語を提案した。しかし、各国語にはそれぞれの文明があるが、エスペラント語には文明がないとして問題にされなかった。

 農商務省の工場監督官から臨時産業調査局事務官に任ぜられ、ヨーロッパの労働事情を視察中だった吉阪俊蔵は、日本代表の随員として委員会の審議に参加していたが、当時を回顧して次のように述べている。

 「日本は、多年の懸案であった唯一の社会政策立法の工場法を実施したばかりで、この重大な転換期の世界の舞台に上ることになった。日本代表は、維新以来培養し来った産業を保護維持する義務があると共に、一方では歯をくいしばっても世界の進運に追いついて五大国の一という政治的地位を守ろうという熱望があった。委員会で積極的な世界改造の意見をのべるだけの背景をもち合わさぬことを遺憾としながら、世界的文化水準をかち得るために懸命の努力をしたのである。

 ……当時卓を囲んで盛んに議論を上下した各国の委員は一人残らず白玉樓中の人となってしまったが、現在のILOは当時築かれた基礎の上に花を咲き実を結んでいる」(『世界の労働』五六年一月号)。

 三 官選労働代表問題

■ 労働者代表選定協議会による労働者代表の選出

 ILO憲章によると、総会に出席する民間代表は、使用者または労働者をそれぞれ最もよく代表する産業上の団体がある場合には、それらの団体と合意して選んだ者を政府が指名することになっている。ところが日本政府は、一九一九年一〇月ワシントンで開かれた第一回総会の労働者代表を指名する際に、日本には労働者を最もよく代表する産業上の団体は存在しないという理由で、七五人の協議員で構成する労働者代表委員選定協議会を設置し、そこで選出された者を労働者代表とすることとした。しかし、この七五人のうち労働者団体といえる者は、友愛会、信友会、日本労働組合、日本労働連合会、大阪鉄工組合の五団体から各一人選ばれた五人にすぎず、七〇人は各府県の代表と官公庁の代表であった。

 協議会で選出されたのは、第一候補本多精一(東京財政経済時報主幹)、第二候補高野岩三郎(東京帝国大学教授)、第三候補桝本卯平(鳥羽造船所技師)の三人だったが、まず本多は労働者側の反対を考えて辞退した。高野は友愛会の顧問でもあったので、いったんは代表を受諾したのだが、友愛会の大勢は協議会方式そのものに反対だったため辞退せざるを得なくなり、結局は残った桝本が労働者代表となった。高野はこの問題のあと東京帝大教授を辞任し、のちに同じ一九一九年に発足した大原社会問題研究所の運営に参画し、所長となった(詳細は本年艦第一集、一九二〇年、参照)。

■ 労働者代表の資格問題

 こうして桝本は、同年一〇月のワシントン総会に労働者代表として出席したのだが、横浜港を出航するとき、松岡駒吉ら労働側の反対デモに会い、ランチに乗って沖合で乗船する始末だった。またワシントンに到着したのちも、自分は労働者の代表ではないと発言したうえ、総会議場で卓上の日本国旗を指し、「この日章旗の下には幾一〇万の可憐の婦人少年が虐待され、酷使されている」と叫んで物議をかもした。

 総会では、労働者代表としての桝本の資格に異議が申し立てられた。資格審査委員会は、日本の労働組合は数百万人の労働者のうち三万人を組織しているにすぎないので、「最も代表的な労働者団体」ではないとする日本政府の見解を承認するとともに、官公庁や企業側が地方から協議員選出に圧力をかけた事実は認められないとして、異議申し立てを認めなかった。なお、桝本は、一九一七年に鳥羽造船所に就職した後の江戸川乱歩の文才に早くから注目し、社内誌『日和』の編集を担当させたことでも知られている。

 総会に出席する日本の労働者代表の資格については、第一回総会だけでなく、もっぱら海上労働問題をとりあげた第二回総会を除き、第三回、第四回、第五回の各総会で引き続き異議申し立てが行われ、各会期において、将来日本の労使代表が憲章の規定どおり代表的労使団体と合意のうえで指名されるよう希望された。とくに第五回総会では、総会の席上、労働者代表として出席した宇野利右衛門(工業教育会長)が、自分自身の資格について疑義を表明するという異常な事態も起こった。このときは、今後は、これまで四回の総会で繰り返されたような異議が生じないような手続きを採用するよう希望が表明されて、資格は承認された。

 このような経過ののち、一九二四年の第六回総会ではじめて、労働組合だけで労働者代表を推薦する手続きがとられ、憲章の規定どおりの労働者代表として鈴木文治日本労働総同盟会長が出席して、いわゆる官選労働代表問題にも終止符が打たれ、以後は労働者代表の資格が問題となることはなかった。

 四 提訴第一号

■ 条約違反の提訴手続き

 ILO憲章は、条約違反の提訴手続きについて二つのものを定めている。一つは、批准条約の遵守に関する申立(二四条、二五条)、他の一つは、批准条約に関する苦情申立(二六〜三四条)である。

 前者によれば、使用者または労働者の産業上の団体(労使団体)は、ある国が批准した条約の遵守を行っていないと申し立てることができる。問題の処理は理事会にまかされ、ふつう政労使三者構成の三人委員会がこれを審査する。理事会は、問題となった加盟国政府に弁明を求め、結果が不満足の場合、あるいは弁明が提出されなかった場合、理事会の権限でこれを公表することができる。この例として、日本の海員組合と海員協会が日本政府を相手として申立を行ったものがある。日本のILO提訴第一号といえる。

 後者の苦情申立には三つの方法がある。同じ条約を批准した条約当時国間、理事会自身の意思、総会出席の代表のいずれかから提起されるものである。苦情申立があると、理事会は、専門家で構成する審査委員会を設置してその案件を審査させ、勧告を含む最終報告を作成させる。最終報告は理事会からの関係国政府に通報されるとともに、公表される。関係国がこれに不満な場合には、国際司法裁判所に付託することができ、同裁判所の決定は最終的なものとなる。

■ 海員組合と海員協会の申立

 日本の海員組合と海員協会の申立は、一九二四年に行われた。日本政府は、一九二〇年の海員紹介条約(第九号)を批准していたが、国内の法規慣行にこの条約に違反するものがあるとの申立である。たとえば、(1)一時的に存続が認められている営利目的の海員紹介機関の政府による監督が厳格でなく、一時的であるべきものが長期化している、(2)営利目的の海員紹介機関は可能なかぎり早期に廃止すべきなのに、政府はそれを実施していない、(3)政府は無料の海員紹介業務を日本海員掖済会に委託しているが、その運営に労使団体が関与していない、ことなどが問題とされた。

 これに対して日本政府は、同年九月三日付の弁明のなかで、営利目的の海員紹介業務はあくまでも過渡的なものとして、早期にこれを廃止するための措置がとられていることを詳細に述べた。また、日本海員掖済会への無料海員紹介業務の委託は、条約にいう代表的労使団体が存在しなかったためであり、事態を改善するため、船主と海員を代表する合同機関の設置を促進する措置をとったことが報告された。

 翌一〇月のILO理事会は、労働者側理事の完全な合意を得て、日本政府が、条約の諸規定を可能なかぎり早期に完全に適用するため、引き続き必要な措置をとるという了解のもとに、日本政府の弁明を満足なものとして承認した。かくして、日本のILO提訴第一号は、比較的短期間のうちに解決した。

 五 ILO担当の行政機関と東京支局

■ 内務省社会局の設置

 パリ講和会議の国際労働法制委員会には、日本から、落合謙太郎オランダ駐在公使、岡実前農商務省商工局長の両委員が参加した。当時の日本には、もっぱら労働問題を担当する官公庁がなく、工場法との関係もあり、主として農商務省が担当していた。

 前記の委員会で日本はILOの誕生にひと役を果たし、第一回総会には五八人という大代表団を派遣して注目された。さらに日本政府は、主要産業国の一つとして常任理事国となり、ILOにおいて重要な地位を占めるようになった。

 他方、毎年の総会や理事会その他の諸会議に日本代表の出席する機会は多くなり、官選労働代表問題の処理などの難問もあって、ILO関連の業務が増加した。こうして国内でも労働関係の業務を一括して処理できる行政機関の必要性が生じ、政府は、一九二二年一一月、内務省に社会局を設置し、国際、国内の労働行政を担当させることになった。翌一九二三年一月には、ジュネーブに国際労働機関帝国事務所が設置され、ILO関連業務を現地で直接行う体制をととのえた。さらに一九二六年一一月には、それまで外務省の主管だったILO関連の業務が、すべて内務省に移管された。

 「社会」といえば社会主義を連想させるので、この言葉は好ましくないという風潮だった当時、政府機関に社会局と名づけたことは時代の流れを反映するものであった。社会局はその後、ILOと日本との相互理解を促進し、協力関係を発展させるために活動したが、同局で内外の労働問題を手がけた多くの人材は、戦後日本の労働社会問題の分野において、大きな役割を果たしたといわれている。

■ ILO東京支局

 日本政府は、一九二一年七月、農商務省鉱務官だった浅利順四郎を、ジュネーブのILO本部に日本人職員第一号として派遣した。浅利は、一九二四年早々に帰国、同年一月に開設されたILO東京支局の初代支局長となり、一九三五年までその任にあった。東京支局は、ILO本部が主要国の労働事情に関する情報収集と調査研究のため、パリ、ロンドン、ローマ、ワシントン、ベルリンと並んで日本に設置したものである。

 ILO東京支局は、日本の労働事情の本部への報告、ILO諸会議出席の日本代表への情報や助言の提供、ILO普及啓蒙のための定期刊行物の出版、ILO出版物(原書)の販売などを行った。定期刊行物としては、一九二四年六月に月刊『国際労働局東京支局々報』が刊行され、のちに『国際労働』、『世界の労働』と改称されて、一九三九年五月の支局閉鎖まで刊行が続けられた。

 支局はまた、日本国内で労働立法を促進する世論を喚起するための団体である国際労働協会(のちの社会立法協会)の設立に尽力した。同協会は一九二五年三月に設立され、理事長に高野岩三郎、主事に浅利順四郎が就任した(この間の事情は大内兵衛ほか監修『高野岩三郎伝』岩波書店、一九六八年にくわしい)。当時の関係者の中には、大内兵衛、北沢新次郎、武藤山治、西尾末広、森戸辰男、清瀬一郎、安部磯雄、鈴木文治、前田多門、那須皓らの名がみえる。

 六 日本のソーシァル・ダンピング問題

■ モーレット次長の日本派遣

 一九三〇年代に入り、日本は低賃金によるソーシァル・ダンピングで国際貿易を乱しているとの非難が高まり、ILOでもこの問題をとりあげることになった。ILOは、一九三四年、たまたま教育問題に関する助言のため中国を訪問したフェルナン・モーレット次長をその後日本に派遣し、日本の労働生活条件を調査させることとした。

 モーレットは、同年四月三日から二一日までの約三週間、東京、名古屋、一の宮、大阪、神戸、京都の各都市で、紡績、鋳造、ガラス、マッチ、窯業、絶縁体、電球、時計、自転車、万年筆、ゴム、ビール、印刷、漆器、などの二二の工場を訪問して実情調査を行ったほか、政府、労使団体、学者、報道機関の代表者らとも意見を交換した。なお、モーレットはこのとき、大原社研を訪問している(MAURETTE,Fernand:”Social Aspects of Industrial Development in Japan”ILO,Geneva,1934)。

■ モーレット報告の公刊

 モーレットは、これらの工場を訪問して得た、労働時間、休日、賃金、生活水準、付加給付、生計費、能率などに関する情報と、その他の関係者から得たものを総合して、帰任後報告書をまとめた。これは、その後ILO本部発行の調査研究シリーズB(経済事情)21『日本における経済発展の社会的側面』と題して公刊され、のちに「モーレット報告」として知られるものとなった。

 六九ページにわたる「モーレット報告」は、はしがきで「百聞は一見にしかず」という諺に言及したのち、詳細な統計表をまじえて日本の事情を紹介し、いわゆるソーシァル・ダンピングが労働条件の引き下げや生産費の削減によって輸出を促進する行動だとするならば、このような意味におけるソーシァル・ダンピングは日本には存在しないといい得るとして、次のように結び、日本に好意的なものとして注目された。

 「私が日本で見聞したことはすべて、一切の経済的・技術的進歩は必ず早晩社会的進歩をともなうものであり、ひとたび達成された社会的進歩は決して経済的・技術的進歩を阻害せず、かえってこれを助長するものである、という大真理をさらに新たに私に確認させるように思われた」。

 七 戦前における日本の条約批准

■ 一四の条約批准

 ILOは、一九一九年の創立から、日本が脱退した三八年までの二〇年間に、二四回の総会で六三の条約と五三の勧告を採択した。この時期は、国際労働基準の黄金時代ともいわれ、重要な基本的条約の大半がこの時期に採択されたが、労働時間、休日、最低賃金、社会保障、婦人夜業禁止、最低就労年齢など労働者保護に関するものが多かった。

 日本は、脱退までにこのうち一四の条約を批准しているが、脱退の年でさえも一つの条約を批准していることをみれば、条約批准に努力していることがうかがえる。また、戦後五一年に再加盟してから四〇年余りの間に批准した条約数が二七であることと比較しても、遜色ないといえるだろう。戦前批准の一四条約はつぎのとおりである(カッコ内は批准年月)。

 (1)失業条約第二号、(2)海員紹介条約第九号(以上、二二年一一月)、(3)農業最低年齢条約第一〇号(二三年一二月)、(4)海上最低年齢条約第七号、(5)海上年少者体格検査条約第一六号(以上、二四年六月)、(6)工業最低年齢条約第五号(二六年八月)、(7)労働者職業病補償条約第一八号、(8)災害補償均等待遇条約第一九号、(9)移民監督条約第二一号(以上、二八年一〇月)、(10)石炭夫・火夫最低年齢条約第一五号(三〇年一二月)、(11)船舶運送貨物重量標示条約第二七号(三一年三月)、(12)強制労働条約第二九号(三二年一一月)、(13)労働者職業病補償改正条約第四二号(三六年三月)、(14)土民労働者募集条約第五〇号(三八年九月)。

■ 二つの監視機関

 国際労働基準の黄金時代に、ILOは、条約・勧告の実際の適用を促進するため、加盟国の状況を監視する仕組みを設けることになり、二六年の総会決議ののち二七年から二つの委員会が活動をはじめ、今日に至っている。一つは、条約勧告適用専門家委員会、いま一つは条約勧告適用総会委員会である。

 専門家委員会は、労働法、社会法、国際法の国際的な専門家で構成され、委員は純粋に独立した個人として審議に参加する。委員会の任務は、条約勧告の適用に関して加盟国から提出される報告(批准条約の適用報告、権限ある機関への提出に関する報告、未批准条約および勧告の現況報告など)を、純粋に法律的な見地で専門的に検討することにある。この検討の過程では、政治的配慮はまったく入れず、慣例として、全会一致で結論を採択することになっている。

 総会委員会は、総会に出席する政府代表、使用者代表、労働者代表の三者で構成し、総会の三者代表間で相互に、基準適用状況を監視しあう。ここでは、政府代表は批准や適用の困難性を弁明する機会を与えられ、労働者代表は批准の促進を要求したり、適用不十分を指摘したりする。また使用者側は独自の立場で見解を発表する。委員会の議論の経過は委員会報告としてまとめられ、総会で過半数の賛成によって採択される。

 八 日本のILO脱退の経緯

■ 軍国主義の台頭と国際的孤立化

 一九一九年のILO創立以来一〇年あまり、日本は毎回の総会に大代表団を派遣し、二二年には主要産業国として政府が常任理事の席を占め、二四年には東京支局開局、二八年にはアルベール・トーマ事務局長の来日など、協力関係は強化されていった。

 しかし、三〇年代に入ると、日本では軍国主義が台頭し、三一年九月の満州事変、三二年の五・一五事件、同年九月の満州国承認と日本の国際的孤立化が進行し、三三年三月にはついに日本は国際連盟脱退を通告した。この脱退は二年後の三五年三月に発効したが、ILOは国際連盟のような政治的機関ではなかったため、ILOと日本との関係は継続された。その後、国内では軍国主義がますます力を得、国際的孤立化がすすみ、三六年の二・二六事件をへて、三七年の日中戦争突入という事態にまで進展した。

■ 協力関係終止の通告

 このような状況のなかで、日本政府は、三八年一月の閣議において、「内外の情勢を考慮して、本年度ILO総会には国内からは代表を派遣しない」ことを決定した。このため、同年六月の第二四回総会には、ジュネーブ駐在の北岡寿逸帝国事務所長が、一人だけの政府代表として、顧問ら三人とともに出席するにとどまった。そして同年一一月二日、日本政府はついに、ILOに対して協力関係の終止を通告することとなった。

 こうして、一九年の創立以来二〇年にわたって継続されたILOと日本との関係は断たれることとなったが、ILO東京支局はその後もしばらくは業務を続けていた。しかし、当時日比谷公園の市政会館にあった事務室の上の階を右翼団体に占拠され、業務が妨害されるほど状況が悪化したため、翌三九年五月末に東京支局は閉鎖された。なお、ILO出発物の販売業務だけは、その後四一年末まで続けられた。

日本労働年鑑 第65集
発行 1995年6月26日
編著 
法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2006年10月28日公開開始


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