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棚橋小虎関係文書

T 棚橋小虎日記

T−A 松本中学
I-A-1 明治35年1月1日−12月31日          ポケット日記
I-A-2 明治36年1月1日−12月31日 ポケット日記
I-A-3
 
 
明治37年8月3日−37年12月31日 中学4年 
明治38年1月1日−38年5月15日       
明治39年3月1日−39年11月28日      
表紙黒ボール紙

 
I-A-4
 
明治38年5月15日−38年12月16日      
          付明治38−42読書録
表紙黒ボール紙
 
I-A-5 明治39年12月8日−41年3月31日 表紙黒ボール紙
I-A-6 明治41年4月1日−43年6月25日 表紙黒ボール紙
 
T−B 三 高
I-B-1 明治43年6月26日−8月19日 ポケット手帳
I-B-2 明治43年6月26日−44年1月12日 大学ノート
I-B-3
 
明治45年1月1日−45年7月31日
大正1年8月1日−2年1月20日
表紙濃カーキ色
 
I-B-4

 
大正2年4月24日−2年12月30日
大正3年3月3日−3年6月29日
大正4年1月1日−4年5月20日
表紙緑ソフト

 

T−C 東 大
I-C-1
 
大正4年10月15日−5年3月10日
大正5年6月21日−5年7月31日
表紙黒ソフト
 
I-C-2
 
大正5年8月1日−6年7月24日
       本荘松本中学校長排斥
表紙青ハード
 

T−D 司法官試補・友愛会時代
I-D-1
 
大正6年7月25日−7年10月7日
        司法官試補任官から友愛会入会まで
表紙黒ソフト
 
I-D-2 大正7年10月8日−8年11月8日 表紙黒ソフト

T−E ドイツ滞在中
I-E-1
 
大正11年1月4日−大正11年1月12日
         ベルリン病状日誌執筆者伊藤 清?
大学ノート
 

T−F 淡路時代
I-F-1


 
大正14年4月16日−14年12月17日(37−40歳)
大正15年1月11日−15年10月29日
大正14年11月29日−15年11月5日(補遺)
昭和2年3月5日−3年7月31日
表紙青ボール紙


 
I-F-2 昭和3年8月1日−4年10月27日 表紙青ソフト
I-F-3 昭和5年4月17日−6年8月31日   衆院選立候補 表紙黒ボール紙
I-F-4 昭和6年9月3日−7年10月31日 表紙青ボール紙
I-F-5 昭和7年11月1日−8年12月11日 表紙かば色 厚いノート
I-F-6 昭和8年12月12日−10年5月31日 表紙赤茶ボール紙

T−G 松本時代
I-G-1 昭和10年6月1日−12年4月2日 表紙かば色ソフト
I-G-2 昭和12年5月23日−13年5月27日 表紙茶レザー
I-G-3 昭和12年11月29日−12年12月31日 華北旅行 表紙薄茶ノート
I-G-4 昭和13年5月28日−14年6月14日 表紙かば布
I-G-5 昭和14年6月15日−15年10月16日 表紙かば布
I-G-6 昭和15年10月17日−16年9月15日 表紙かば布
I-G-7 昭和16年9月16日−18年3月7日   大戦(1) 表紙青ボール厚紙
I-G-8 昭和18年3月8日−18年10月31日  大戦(2) 表紙大学ノート
I-G-9 昭和18年11月1日−19年9月7日   大戦(3) 大学ノート
I-G-10 昭和19年9月8日−20年3月29日   大戦(4) 表紙濃緑ソフト
I-G-11 昭和20年3月30−20年10月17日  大戦(5) 大学ノート

T−H 衆議院議員
I-H-1 昭和20年10月18日−21年10月12日 総選挙−第九十議会 (1)
I-H-2 昭和21年10月13日−22年4月5日 衆議院議員(2)
I-H-3 昭和22年4月6日−22年9月15日 公職追放時代
I-H-4 昭和22年9月16日−23年12月27日 公職追放解除
I-H-5 昭和23年12月27日−24年11月14日 追放解除後総選挙 落選

T−I 参議院議員
I-I-1 昭和24年11月15日−26年11月27日 第1回参議院議員 当選(1)
I-I-2 昭和26年12月1日−28年9月15日 第1回参議院議員時代 (2)
I-I-3 昭和28年9月15日−10月6日 東南アジア旅行日記
I-I-4 昭和28年10月6日−29年7月17日  
I-I-5 昭和29年7月18日−30年10月31日  
I-I-6 昭和30年11月1日−31年6月30日  
I-I-7 昭和31年7月1日−32年6月30日 第2回参議院議員時代(1)
I-I-8 昭和32年7月1日−33年1月31日 第2回参議院議員時代(2)
I-I-9 昭和33年2月1日−33年9月28日 第2回参議院議員時代(3)
I-I-10 昭和33年9月29日−34年5月22日 第2回参議院議員時代(4)
I-I-11 昭和34年5月23日−12月31日 第2回参議院議員時代(5)
I-I-12 昭和35年1月1日−6月30日 第2回参議院議員時代(6)
I-I-13 昭和35年7月1日−12月31日 第2回参議院議員時代(7)
I-I-14 昭和36年1月1日−6月30日 第2回参議院議員時代(8)
I-I-15 昭和36年7月1日−12月31日 第2回参議院議員時代(9)
I-I-16 昭和37年1月1日−6月30日 第2回参議院議員時代(10)

                                     
T−J 隠退時代
I-J-1 昭和37年7月1日−12月31日 自由時代 (1)
I-J-2 昭和38年1月1日−6月30日 自由時代 (2)
I-J-3 昭和38年7月1日−12月31日 自由時代 (3)
I-J-4 昭和39年1月1日−6月30日 自由時代 (4)
I-J-5 昭和39年7月1日−12月31日 自由時代 (5)
I-J-6 昭和40年1月1日−9月4日 自由時代 (6)
I-J-7 昭和40年9月5日−41年1月31日 自由時代 (7)
I-J-8 昭和41年2月1日−10月31日 自由時代 (8)
I-J-9 昭和41年11月1日−42年6月30日 自由時代 (9)
I-J-10 昭和42年7月1日−12月31日 自由時代 (10)
I-J-11 昭和43年1月1日−12月31日 自由時代 (11)
I-J-12 昭和44年1月1日−12月27日 自由時代 (12)
I-J-13 昭和44年12月28日−45年12月21日 自由時代 (13)
I-J-14 昭和45年12月21日−46年12月5日 隠退時代 (14)
I-J-!5 昭和46年12月1日−47年8月31日 隠退時代 (15)
I-J-16 昭和47年9月1日−48年2月19日 隠退時代 (16)


U 棚橋小虎自筆原稿類

U-1-1
  〜11
小虎自筆自伝原稿 少年時代一淡路時代の昭和12年まで
             原稿用紙 2072枚(TXT.fileフロッピーデイスクあり)

 
U-2 作文「仮題 吾が信仰の依って起る所−」毛筆 罫紙2枚   明治40年4月7日
U-3 無題(自伝的創作?)   毛筆 罫紙13枚 紙経り綴り6章建(和田小教員時代のものか)  
U-4 無題(鉢伏山 運動遠足) 毛筆 和田尋常高等小学校の罫紙6枚  
U-5 EXERCISEノート   明治40年4月25日以降のノート 感想 読書ノートなど  
U-6 創作ノート(紺色の表紙)明治40年夏7月27日 病気中これを書くとある  
U-7 論説「読書の目的」 罫紙1枚  年次不明
U-8 論説「人生 果して 如何」(進化論と宗教)毛筆 罫紙3枚   明治40年頃
U-9 論説「名誉」 毛筆 罫紙3枚               明治42年5月1日
U-10 論説「三人生観卜三宇宙観」    毛筆 罫紙3枚      明治42年7月7日夜
U-11-1 論説「余が人生観と宇宙観の由来」    罫紙4枚  
U-11-2 「余の人生観と宇宙観」         罫紙3枚          明治42年頃
U-12 棚橋よし姉宛「僕は真実の利己主義者になりました。」(手紙の下書き 長文・毛筆) 大正3年8月26日
U-13
 
風間八左衛門宛? 「大学教授は私に落第点を付けましたけれども、私はまだ自分に
落第点は付けません。」(手紙の下書き)            
大正3年8月
 
U-14-1 論説「刑法上ニ於ケル罪刑裁量ニ関スル思想ノ変遷」  
U-14-2   「刑法上責任能力ノ観念」  
U-14-3   「罪刑法定主義」  
U-14-4   「刑法ノ解釈」  
U-14-5   「刑事責任能力ニ就テ」  
U-14-6   「慣習及慣習法」       毛筆 罫紙14枚  大正3年10−11月
U-15 論説 披雲会に関するもの・日誌・呼びかけ 4編       大正5年 夏
U-16 論説「社会改革の第一歩(第四階級の教育)」原稿用紙3枚 大正7年9月17日
U-17 論説「政党について」 半紙一枚 細字             時点不明
U-18 随想「評価」(僕は以後評価することは中止したいと願っている)2枚 時点不明
U-19
 
論説「抗日戦線」「兵たん線」「大同大原間」「軍馬のために」「太原」「陽泉」「塘沽」
「北京」「通州」「居庸関」「察南蒙古の風物」「大同」「野戦病院」  200字原稿用紙58枚
昭和12〜13年頃
 
U-20 参議院本会議 外交質問の原稿(2種類あり)A4 12枚  昭和26年10月15日
U-21
 
NHK教育TV「日本回顧録」 放送原稿         
棚橋小虎・高橋亀吉・安藤良雄・吉野信二出演の時間割りと放送原稿
昭和38年10月7日
 
U-22
 
NHK長野放送局 「信州の窓 時の話題 普選40年」放送原稿 
棚橋小虎・辻村輝雄                
昭和41年11月2日
 
U-23 追悼文 松木勝喜代(松本中学第32回明治44年卒)原稿用紙6枚 昭和44年7月24日執筆
U-24 衆議院選挙立候補 演説草稿 便箋22枚 (筆跡 泰助?)  昭和23年12月
U-25 岡村千馬太追悼集 原稿「岡村さんの思い出」       昭和42年1月13日
U-26
 
「労働運動の思出話」原稿10枚(他にその草稿と思われるものがある)
                      
時点不明 (『信毎情報』に掲載?)
U-27 「訪ソの記」 原稿 原稿用紙5枚            昭和42年10月頃
U-28
 
僕は今迄我等の愛は美しいもの、汚れないものであるとのみ信じて居た(抜粋)
(赤羽幾一宛か)原稿用紙2枚

 
U-29
 
君はぢきに帰ると言ふたそうだが多分それは何かの考へ違へであったろう(抜粋)
原稿用紙1枚

 
U-30

 
「蚊」昨夜も深夜蚊に苦しめられた、机の下に頭を突込んだり帽子を顔の上に乗せて(抜粋)
「人間」自分は曽て人間といふものを猜疑の目を以て見て居た(抜粋)
原稿用紙4枚


 
U-31
 
非征韓論者、征韓論者の氏名
大久保参議の非征韓意見七ヶ條要領  原稿用紙1枚(続きがない)

 
U-32
 
「二つの精神」(泰助代作?)アプレゲールという言葉はどうもいやな言葉である。
自殺や、家出や、風紀の悪いこと、(抜粋)原稿用紙3枚

 
U-33 日本労働運動史講義案(1〜8)  ノート2枚、原稿用紙1枚  
U-34 日本労働運動史草案(1〜18)  ノート9枚  
U-35
 
人事興信録登載原稿(昭和四十年第二十三版) 便箋2枚、人事興信所からの原稿
作成のお願い(封書)

 
U-36
 
履歴書(弁護士連合会提出)便箋2枚  昭和三十三年八月
履歴書 ノート1枚、在家ノ家族調( 松本市役所 家族名簿)1枚

 


V 印刷されたもの

V-1 麻生久著『労働運動者のひとり言』序(棚橋小虎)(コピー)    大正9年11月20日
V-2 野口義明著「棚橋小虎」『無産運動総闘士傳』社会思想研究所(コピー) 昭和6年6月5日
V-3 棚橋小虎 立候補宣言「我はかく信じかく戦わん」(新聞大) 昭和12年 総選挙  
V-4 棚橋小虎氏(社)「党内左右調整に活躍」『信濃毎日新聞』選良診察室 昭和26年3月14日
V-5 第1陣に棚橋氏立つ 国会きょうから質問戦へ     『夕刊信毎』 昭和26年10月16日
V-6 国会・質問戦を開始 参議院本会議質問 棚橋小虎氏 『信濃毎日新聞』 昭和26年10月16日
V-7 一名にしぼるか?動く社党の参院選地方苦対策    『信陽新聞』 昭和31年5月9日
V-8 えげつない社会党公認争い 参議選候補揃う     『信陽新聞』  昭和31年5月21日
V-9 参議院選挙に必勝の構え 社会党長野県連      『県連情報』 1956年6月1日
V-10 「参院戦保守同志の争奪戦か 漁夫の利しめるか棚橋候補」『週刊 上田新聞』 昭和31年6月10日
V-11 棚橋小虎「農民を裏切った三十一年度予算の批判」  『東信社会新聞』 昭和31年6月10日
V-12
 
長野地方区 棚橋小虎 中央執行委員長鈴木茂三郎 「国民の皆さんへ」
                         『社会新報 参院選挙特集号』
1956年6月15日
 
V-13 参議院議員候補者詮衡資料 棚橋小虎 鈴木茂三郎「棚橋君を語る」を所載 1956年6月ころ
V-14
 
「県下で闘う地方区・全国区社会党公認候補者」長野地方区 棚橋小虎
                         『社会新報 臨時増刊号』
昭和31年6月20日
 
V-15 当選のご挨拶 日常活動にも献身 棚橋小虎 『信濃農民』(日農総本部) 昭和31年6月20日
V-16 四割の得票で棚橋氏圧勝 社会党長野県連機関紙『県連情報』 1956年8月1日
V-17 棚橋小虎「検察審査会制度について」『検察審査会長野県連合会会報』 昭和34年3月31日
V-17’
 
新聞記事 「県政界はどう動く 県民社新党準備委員長 棚橋小虎氏
中産階級の向上と発展」『信濃毎日新聞』 

 
V-18 棚橋小虎「抗争分裂から建設へ」『信陽新聞』コラム「新春に思う」 昭和35年1月3日
V-19
 
棚橋小虎「安保改訂と議会政治の確立」
   民主社会党塩尻支部機関紙『社会新聞』(塩尻版)
1960年6月8日
 
V-20
 
棚橋小虎「国会の混乱に思う」(6月10日記)『週刊 社会新聞』(長野県版)
                         
1960年6月27日
 
V-21
 
棚橋小虎「民主主義の将来=恐ろしい国民の不感症=」『柿八年新聞』
                        
昭和35年7月18日
 
V-22 (欠番)  
V-23 「小沢グループを暗に批判」『信濃毎日新聞』コラム傍聴席  昭和36年3月8日
V-24
 
「棚橋氏出馬を辞退 参院選 候補の擁立困難に 民社県連」『信濃毎日新聞』
                        
昭和36年12月1日
 
V-25
 
「棚橋氏、正式に辞退 参院選候補 民社県連、苦境に」『信濃毎日新聞』
                        
昭和36年12月1日
 
V-26 「棚橋氏正式に辞退 参院選に民社打撃」『信陽新聞』   昭和36年12月2日
V-27
 
棚橋小虎「『友愛会』の思い出」昭和37年2月7日・24日の労働運動史研究会の報告
特集/友愛会     創立50周年『労働運動史研究』第31号抜刷

 
V-28 私家版 自伝(一)中学前後 タイプ印刷         昭和43年8月4日
V-29
 
新聞記事 「カタコト英語と漢字で 若きホー氏と話す 棚橋小虎氏半世紀前に」
             『信濃毎日新聞』夕刊7面 
昭和44年9月4日
 
V-30
 
「名誉党員12氏きまる 民社党発展に尽力の功績賛えて」『週刊 民社』
                          
昭和47年6月16日
 
V-31
 
新聞記事 「私の昭和史4−8」『信濃毎日新聞』
       (現物なし)
昭和47年8月11-16日
 
V-32 棚橋小虎追悼集刊行会『追想 棚橋小虎』       昭和49年12月25日
V-33
 
渡辺悦次「怜悧な歴史眼を発掘 社会運動史上興味深い事実も」紹介『追想棚橋小虎』
『図書新聞』
昭和50年3月22日
 
V-34
 
「新松本百景 旧城下の面影残す遺産」 中日新聞松本ホームサービス (コピー)
                         
1984年6月26日
 
V-35
 
倉科平 述・宮浦真之介画「労働運動の先駆者 棚橋小虎」(松本平 人物誌 31)
松本市民タイムス連載30回 (コピー)              
平成4年3月
 
V-36
 
藤岡改造 「長屋門のこと」(あまのじ記) 中日新聞松本ホームサービスコラム
(コピー)                         
平成4年4月9日
 
V-37 新聞 コラム「みすず野」(人物誌「棚橋小虎」と長屋門のこと) きりぬきコピー 時点不明
V-38 棚橋小虎自伝編集委員会『棚橋小虎自伝』         フロッピーおよびプリント版 1998年
V-39 (欠番)  
V-40 新聞切抜き帖 『戦ノ記 1956 参議院選』             1956年
V-41 棚橋小虎「モスコーへの回想」『信濃往来』(コピー)       昭和26年9月号
V-42
 
棚橋小虎『自由』を求めて 育てたい、その尊さ。「与えられた民主主義」心配
    『信濃毎日新聞』 みんな20歳(18)(コピー)
昭和40年1月20日 記事
 
V-43
 
棚橋小虎「一生を左右した友 自分を拡大すること学ぶ」
     『中日新聞』思い出の人を語る (コピー)              
昭和46年10月23日 記事
 
V-44 棚橋小虎「自由のなかった頃の物語」『同盟』(全労会議)第59号 1963年6月


W 書  簡

W−A 司法官試補−友愛会時代
W-A-1
 
小虎の書簡               岸井寿郎宛(香川県三豊郡常磐村)
東大法科卒業を控え、翌7月2日に鈴木文治に会い、友愛会へ入会する決意を表明することを告げ、「・・去年、妻を貰うとなれば貴様に任せると言ったのは、僕の観念の不明瞭の罪だから此の際謝罪する。当時は結婚問題に対して俺は真剣でなかった事を今感ずる。これは僕の失言である。慚愧に耐えぬ。・・・事情はどうしても僕の結婚を今許さぬ。それを承知して貰いたい。」
大正6年7月1日
 
W-A-2
 
窪田満弥の葉書(和田村)       小虎宛
小虎の保進会員に対する意見に抗議するもの。
大正7年1月30日
 
W-A-3
 
岸井寿郎の書簡(善通寺歩兵連隊)    小虎宛
「孝子を東京の学校に入れよ」という小虎の要求についての回答。
大正7年1月6日
 
W-A-4

 
小虎の書簡              岸井孝子宛
「上京勉学の儀は小生においても賛成に候。学校は女子大学師範か家政学科がよろしかるべしと存じ候。」また角田館消失、被災のこと。
大正7年1月24日夜

 
W-A-5
 
野原俊輔の書簡(熊本県八代郡)     小虎宛         
角田館焼失による野原の持ち物焼失の知らせに対する返事。
大正7年1月29日
 
W-A-6
 
塚本鍼郎の書簡            小虎宛 
松本中学北蛮の様子や自分の心情を述べたもの。書簡計9通
大正7年2月7日、3月24日、4月21日、5月30日、10月14日、11月18日、
11月22日、12月23日、大正8年2月末日

 
W-A-7
 
小虎の書簡              岸井寿郎宛
「僕は孝子さんとの結婚を止すことにした・・・」
大正7年2月15日夜
 
W-A-8
 
岸井寿郎の書簡            小虎宛
「孝子も君の要求通り女子大学の方に入れることにした。」
大正7年2月16日
 
W-A-9
 
岸井寿郎の書簡             小虎宛
小虎の手紙をそっくり書き写して、「僕は君に対して非難もしない。また憤りもしない。・・
しかし理解できない。・・・この問題に関しては今少し虚心坦懐な気分で客観的にも、普遍的
に考えてもらいたい。」
大正7年2月19日
 
W-A-10

 
岸井寿郎の書簡(善通寺歩兵連隊)   岸井孝子宛(常磐村)
「是非御身だけに話をして聞きたいこと、申しおきたい事がある。・・・
東京から近ごろ来た(棚橋の)手紙を全部もって来て見せて下さい。・・・」
大正7年2月25日夜

 
W-A-10'
 
岸井寿郎の書簡            小虎宛
「結婚問題について」
大正7年2月26日
 
W-A-11
 
小虎の書簡               岸井寿郎宛
「僕には凡て結婚は重苦しい抑圧である・・・」
大正6(7の間違い)年
2月27日
W-A-12
 
富士見恵雄の書簡(富士見芳のつれあい) 小虎宛
孝子との婚約破棄を諌める。
大正7年3月3日
 
W-A-13
 
岸井孝子の書簡             岸井壽郎宛
孝子のノートの断片
大正7年3月4日
 
W-A-13'

 
岸井寿郎の書簡(在連隊)         小虎宛(コピー)
孝子の婚約破棄に対する心情を吐露したもの。
(中身は孝子の寿郎宛の手紙とノートの断片)
大正7年3月24日

 
W-A-14
 
岸井寿郎の書簡(在連隊)         岸井孝子宛(本郷菊坂女子美寄宿舎内)
「東京はあらゆる誘惑が雑然とあるところですから、充分心をひきしめて・・・専心ただ芸術
のために奮励してください。なにとぞ万事に気を落とさないことが肝要です。そして丈夫で
ね。」
大正7年4月26日


 
岸井寿郎の書簡(在連隊)        岸井孝子宛(本郷菊坂女子美寄宿舎内) 大正7年7月14日
W-A-14'
 
三原林一の書簡             小虎宛
三原林一の書簡             小虎宛
三原林一の書簡             小虎宛
三原林一の葉書             小虎宛
大正7年6月28日
大正7年7月13日
大正7年7月23日
大正7年8月5日
W-A-15
 
岸井寿郎の書簡             小虎宛
「過去は過去だ。最早逝いた。君の今後の計画なり、日常の消息を時々は通知して来いよ。」
大正7年7月23日
 
W-A-16

 
岸井寿郎の書簡              岸井孝子宛
「・・孝子ちゃんの学校は余り引き締まった学校ではありません。どうか自分で気を引き締め
てね。それから女は身のたしなみを忘れてはなりませんよ。・・・」
大正7年9月6日

 
W-A-17

 
岸井寿郎の書簡              岸井孝子宛
品八(孝子の父)が訪ねてきて、加藤との縁談の再燃について寿郎の見解を聞いた時の会話を
再現して、率直な孝子の考えを聞いたもの。
大正7年9月26日夜

 
W-A-18
 
富士見芳の書簡             小虎宛             
司法官退職・友愛会入りを知っての複雑な心を述べたもの。
大正7年10月4日
 
W-A-19
 
富士見芳の葉書             小虎宛            
小虎の依頼を受け母親に伝えたときの母の気持ちを伝えたもの。
大正7年10月17日
 
W-A-20
 
野原俊輔の書簡             小虎宛
ILO代表権問題についての所感。
大正7年10月28日
 
W-A-21
 
岸井壽郎の書簡             小虎宛                
早く兵役を脱するため、司法官になるつもり。
大正7年10月30日
 
W-A-22
 
岸井寿郎の書簡(在連隊)         小虎宛            
一カ月後退営上京の予定の旨。
大正7年11月7日
 
W-A-23
 
岸井寿郎の書簡(本郷初音館)       岸井品八宛    (コピー)
退営上京し小虎に会って、小虎の孝子に対する本心を確かめた経緯を会話風に詳細に述べたもの。


 
W-A-24
 
岸井寿郎の書簡             岸井品八宛               
孝子の小虎との結婚は三四月頃となるであろうこと。司法官試補になるまで、借家を探し操を呼び、資金が必要なので頼む旨。
大正8年1月13日

 
W-A-25
 
岸井寿郎の書簡             岸井品八・孝子宛 (香川県常磐村)
「・・可愛い娘を嫁入りさせる時の馬鹿親のするような事を兄上においてけっしてこれなきと存じ候へども・・・。兄上様ご上京に相成り候ては又々一人の姑が殖え申すべく候。・・ご安心不干渉こそ真の助力に候。・・」
「・・孝子ちゃんは僕の老婆心からか、今までの道徳的教育が累を及ぼして感情を殺すように見受けられます。・・・操と一緒に上京しなさい。」 (コピー)
大正8年1月27日
 
W-A-26 塚本鉞郎の書簡             小虎宛 大正8年9月2日
W-A-27
 
岸井寿郎の書簡              岸井品八宛
孝子の結婚式の日取りや媒酌人や自分の借家探しの苦労を述べたもの。
大正8年1月31日
 
W-A-28
 
小虎の書簡                岸井孝子宛
「二月二日午後二時、磐城国境に近い茨城県石岡炭鉱着、地下六百尺の最深所に入って坑夫の
作業を視察した。・・・
これは人間業とは思えぬ仕事である。・・・翌三日・・午後は隣山の日立鉱山に来り十数名の
支部幹部と協議して其処に一泊した。今日は早朝東洋一の溶鉱炉から灼熱の液体となった銅が滝の如く慣れ落つる有様に度肝をぬかれ、・・・。寿郎と相談して式は五月上旬挙げることした。・・・」
大正8年2月4日夜
 
W-A-29
 
小虎の書簡                岸井孝子宛
治安警察法十七条撤廃要求運動・東京の流感・孝子の大学問題・東京の住居問題など。
大正8年2月20日
 
W-A-30

 
野原俊輔の書簡(熊本県日奈久温泉金波楼)  小虎宛
転地静養の模様、労働運動は内部の発酵を助成するのが急務とする。藤村の「新生」「桜の実の熟する頃」を推奨。小虎の夢を見たことなど
大正8年3月24日

 
W-A-31
 
小虎の書簡  孝子宛
「僕の性向と事業とを理解させる機会を与え、理解させる努力を惜しむなかれというお前の
願いはもっともである。 ・・・」とし、家庭、境遇、友人、キリスト教、教養、少年愛、などについて記す。
大正8年3月28日
 
W-A-32
 
小虎の書簡               孝子宛
「四日に松本に帰ってしばらく雑務をなげうち、環境を変え、新たなる戦闘に対して方針を
定め、精力を養うため、基地を故郷に求めた。・・・」
大正8年4月9日

 
W-A-33

 
孝子の書簡               小虎宛
小虎が死んだと寿郎がいう夢を見たこと。(東京女子大の)安井てつ先生を鶴田夫人とたずねたが留守であったこと。家をもったときの費用は心配いらぬことなど。
大正8年?月10日

 
W-A-34
 
孝子の書簡               小虎宛(松本市徒士町)
大学が4月12日から始まったこと。
大正8年4月13日
 
W-A-35
 
孝子の書簡               小虎宛
大学の様子を伝える。
大正8年4月14日夜
 
W-A-36
 
岸井寿郎の書簡             小虎宛(松本)
「われらは今少し静思と思索を要求せらる。・・・」
大正8年4月15日
 
W-A-37
 
孝子の書簡               小虎宛
月島宛の松本への回送、帰京を待ち望む文面。
大正8年4月23日
 
W-A-38
 
小虎の書簡  孝子宛
孝子を松本に呼ぶ。
大正8年5月1日
 
W-A-39
 
孝子の書簡               小虎宛
「帰国後二十日近く、もう出立したのではないかとも。・・・大学で学び、じっとしていられないような気持ちに襲われている」ことなど。
大正8年5月5日(4月22日づけ書簡も封入)
 
W-A-40
 
小虎の書簡               孝子宛
松本から一足先に帰京した孝子に妻の心得を要求した文面。「お前は一切万事家のことは引き受けて僕をして更に家を顧みる必要のないようにする責任がある。」
大正8年5月16日

 
W-A-41

 
小虎の書簡               孝子宛
自分の無遠慮な上に比較的鋭利な文章についての釈明。「僕はお前の手紙は一度も不快に思ったことはない。・・・」
大正8年5月24日

 
W-A-42
 
孝子の書簡               棚橋小枝(小虎の母)宛
松本での生活と小虎に託した卵への礼状。
大正8年5月28日
 
W-A-43
 
小虎の書簡               孝子宛
婚約した孝子にもっと突っ込んだ精神の交通をもとめたもの
大正8年6月5日
 
W-A-44
 
小虎の書簡(浅草諸星方)         孝子宛
明日上野を発って茨城の炭山に向かう。「お前は僕の沈黙について僕の内部に入りたいと思って苦しんでいるらしい。・・・」
大正8年7月6日

 
W-A-45
 
岸井品八の書簡             小虎宛
「孝子よりの通知によれば金四百円入用の由承知仕候 最早親子ト成レバ御心配無之候 先日御咄し 孝子の内金故何時ニテモ・・・」
同封の毛筆書簡
「陳ハ別紙本富士町 明治商業銀行渡り券ヲ以テ金四百円送付仕候間御受取被下候」
大正8年6月30日
大正8年7月14日
 
W-A-46      小虎の書簡               孝子宛(北千住 名倉病院入院中)
訪れて満たされぬ苦悩について。
大正8年7月30日
 
W-A-47
 
孝子の書簡               小虎宛
松本へ帰省中の小虎に寂しさを訴えたもの。
大正9年8月9日
 
W-A-48
 
小虎の書簡               孝子宛
茨城県磯原町より。茨城県下遊説の状況を報じた。
大正8年8月21日
 
W-A-49
 
小虎の書簡               孝子宛
茨城県日立へ発つ前夜、心のこもった愛の手紙。
大正8年11月13日
 
W-A-50
 
小虎の書簡(水戸未決監)          孝子宛 
同時収容の同僚に書物の差し入れなどを依頼したもの
大正9年1月14日
(現物なし調査中)
W-A-51
 
小虎の書簡               孝子宛
女子教育に対する自分の考えを述べる。
大正9年1月27日
(現物なし調査中)
W-A-52
 
三原正武の書簡(門司市本村三菱会社)  小虎宛
「先日は責付になられて出てこられた事・・・稍々安心しました。・・・血の様な戦をなりたけさけて善い事を生み出す為に実際的に導いてもらいたいと思います。披雲会の大人達は馬鹿なことをしました。僕の意見は関口さんへ言っておきました。」
大正9年2月10日
 
W-A-53
 
上条愛一の書簡             小虎宛
新聞社をやめて、友愛会に入る決意表明。実家の強い反対。老父母を思う断腸の思いなど。
大正9年7月31日
 
W-A-54 関根晃信の書簡             小虎宛 大正10年4月13日
W-A-55
 
佐野学の書簡              小虎宛
「全日本坑夫総連合会会則」の草案を示して棚橋の意見を求めたもの           
大正9年10月20日
 
W-A-56
 
大竹博吉の書簡(在ウラジオストック)    小虎宛
「・・・小生は昨大正九年の正月を、パルチザンの襲撃に橋梁を焼かれつつ零下五十度の黒竜鉄道全線旅行中に迎えましたが、今歳はあたたかいウラジオで春を迎え、目下チタ方面へ旅行計画中であります。極東では一月九日に代表者選挙が行われ極東憲法議会が成立する筈であります。・・・現状の侭を以てする日本の対露外交は『受け身』の立場に置かれること明瞭であります。乾坤の転換とともに、対露政策転換の要なきや否や・・・・」(年賀状印刷のもの)
大正10年正月
(現物なし調査中)
 
W-A-57
 
佐野学の葉書(東中野)          小虎宛
「先日は失敬。足尾はなかなか紛糾らしいね。うまく行けばいいがね。麻生が無事であって欲しいものだ。僕のオーダンは大分いい。然し君のうちから帰って以来床についたままだ。明日あたりよりおきて見るつもり。小包にて箕作のフランス革命史上下を送った。君の旅中の友とならば幸甚。その気で読めば大に発見するところが少なくない。健康を祈る。」
大正10年?月12日
(現物なし調査中))
 
W-A-58
 
小虎(洲本岡林次郎方)の書簡      孝子宛
「高松・福良をへて夜一時に岡林方に着いた。神戸をへて十九か二十日に東京に戻る。」  
大正9年5月16日
 

W−B 友愛会主事辞職後渡欧までの書簡
W-B-1

 
石田行正(足尾)の激励の書簡      小虎宛
「願くば先生よ 今後は我々坑夫の先陣に立って先生の意気を鉱山において発揮してはくださいませんか。・・・」
大正10年7月12日

 
W-B-2

 
酒井興(上海 Eastern Enngineering & Sippbuilding Co.Ltd)の書簡  小虎宛
「貴兄には労働運動より全然退かれたる様、事実ですか。実に意外に堪えません。君の苦衷の存するところも一度話して貰えまいか。」
大正10年7月21日

 
W-B-3
 
石山寅吉(栃木県全日本坑夫連合会)の書簡  小虎宛
「先生が大会後の新聞にて労働運動界を去られしや一般は推測いたしガッカリ致しおる連中も多く、旁々先生のご来山をえば本会の為にも誠に好都合にござ候。・・・研究会は八月の十一日頃より開始仕りたく、佐野・小泉・赤松の諸先生にもご出席を乞うべく本部に打合わせいたしおり候。」
大正10年8月1日
 
W-B-4

 
山名義鶴の葉書             小虎宛
大阪に4−5日いる。「モシ君が帰国するなら上京の途中その方に寄る。神戸の争議に関係した。何者も仕事に堪え得ざるものであった。」
大正10年8月9日

 
W-B-4' 棚橋孝の書簡              小虎宛 大正10年10月16日
W-B-5
 
山名義鶴の書簡             小虎宛
「渡航費のこと。翻訳する本のこと、北沢氏と相談の結果。僕の私事は麻生君に聞け。」
大正10年10月24日
 
W-B-6

 
山名義鶴の書簡             小虎宛
「翻訳料とにかく五十円君のほうに送るように高野先生を通して頼んでおいた。お申し越しの本は送る。」
大正10年12月1日

 
W-B-7
 
小虎の書簡               山名義鶴宛
渡航準備の成り行きに不安を表明した手紙。
大正10年12月8日
 
W-B-8

 
山名義鶴の書簡             小虎宛
「船は大阪商船の方が安いし都合がいい。岸田に手紙を出せ。翻訳は急がなくてもいいが、僕が言ったといってくれては困る。原稿用紙送るのを忘れていた。」
大正10年12月上旬か

 
W-B-9

 
山名義鶴の書簡             小虎宛
「西ノ宮に移った。お初を連れて来た。上京するなら途中寄れ。渡航の方は五月までに何とかする。」
大正10年12月22日

 
W-B-10
 
守田生(周防)の書簡           小虎宛
「今年七八月より・・小作人は団結して小作料不納同盟を作ることにした。」
大正10年10月18日
 
W-B-11
 
棚橋小枝の書簡(中身は富士見芳)    小虎宛
富士見詠子の誕生を告げる
大正?年10月31日
 
W-B-12
 
小虎の書簡               孝子宛
八日夜 岸田・浅田・山名と肉屋で快談。来年五月中の船で行くことに多分なるであろう。・・・・」
大正10年11月10日朝

 
W-B-12' 小虎の書簡               孝子宛 大正10年11月8日
W-B-13
 
中野三郎の書簡(静岡県島田町大井川通船組合事務所)  小虎宛
来遊を願う旨。
大正10年11月16日
 
W-B-13-2 中野三郎の書簡             小虎宛
日程の都合を問う。
続いて11月28日
 
W-B-13-3 中野三郎の葉書             小虎宛     
 
大正11年5月10日
 
W-B-14

 
小虎の書簡(島田町通船組合事務所気付)  孝子宛 
「・・大阪の岸田を山名と訪ねた。・・・」欧州航路の船の手配を岸田に依頼したこと。山名の家庭についての感想など。
大正10年12月29日

 
W-B-15


 
岸田幸雄のはがき4通           小虎宛    
外遊の船の手配に関するもの。

 
年不詳1月17日 
大正10年8月14日  大正11年1月19日
大正11年4月8日
W-B-16

 
秋山清の書簡(赤羽労働連合会)     小虎宛   
「機関紙として『極東労働新聞』を三月一日から月二回発行します。・・・先生の追想記を出します。原稿を寄贈して下さい。」
大正11年1月29日 

 
W-B-17

 
望月源次の書簡              小虎宛
保釈出獄後の郷里に戻っての生活の状況と大正10年の東京連合会大会で自分の取った態度への反省を述べたもの。(原稿用紙6枚)
大正11年1月21日

 
W-B-18
 
北沢新次郎の書簡            小虎宛    
記念論文集 同人社から出してはどうか。その他
大正11年2月14日
 
W-B-19

 
山本懸蔵の書簡             小虎宛 
古賀某の文書13件配布事件について、文書名を記して「此の印刷物をショーコとして古賀氏と同類のものを処理する心組」との文面
大正11年2月18日

 
W-B-20


 
上条愛一の書簡             小虎宛  
古賀事件協議会の模様、古賀氏が発行した14部中12部を見たこと、各争議の内情詳細を極めているが、ほぼ客観的な叙述であること。しかし労組側に秘していたことには問題があることなど。
大正11年2月18日


 
W-B-21

 
山名義鶴の書簡             小虎宛              
金は「結局岸田・浅田・岡林がそれぞれ二百円、中俣が残り不足分を出す。発表は友人の二三が出すということにしておいたほうがいい」
大正11年2月25日

 
W-B-22


 
西たい子の書簡(西雅男の妻)      孝子宛         
東京女子大の学友の動向。大正10年「十二月ごろから「前衛」という評論雑誌を出すことになり、毎日食事に時間が取られ何もできなかったのです。今度前衛が別れて私共二人に無産社の仲宗根貞代が来ることになって、家の仕事が楽になりました。」
大正11年3月3日


 
W-B-23


 
安生鞠子の書簡(京橋月島)       孝子宛   
 [東京市の社会局で比較的自由な研究を許し、時間も余り束縛されずにすむ口を、先生方のお骨折りで得られる事になりましたら、父がドイツなら三四年行かせてやるが、と言い出したのです。・・・多分七月末位の船になろうと思います。・・・」
大正11年3月14日


 
W-B-23-2 安生鞠子の葉書             孝子宛       
 
大正10年11月14日
 
W-B-23-3 安生鞠子の葉書             孝子宛       
 
大正11年4月4日
 
W-B-24

 
上条愛一の書簡             小虎宛
山本懸蔵の渡航計画?はまだはっきりしないこと。横浜争議惨敗は労働者側の無知・無力・松岡の無策。鈴木文治が仙台で衆議院補選に出馬の風評。
大正11年3月27日

 
W-B-25

 
北沢新次郎の書簡            小虎宛
上条氏の件、高野?先生に別人を推薦してしまって、ちょっとまずい状態。山名氏にあなたからお話しください。自分もできるだけやる旨
大正11年4月8日

 
W-B-26


 
西たい子の書簡(大森)         孝子宛
岡山の西雅雄の家と自分の実家へ帰ったところ新聞に主義者になっていて、巡査が訪ねて来た。結婚して6カ月以上、一冊の本もまとまって読んだことがない。お互いに読んだ本を知らせあいましょう。
大正11年4月8日


 
W-B-27

 
西たい子の書簡             孝子宛
女子大クラスの卒業後の動向(安生鞠子さんからうかがったもの)。安生さんは5月26日に渡獨なさるとのこと。
大正11年4月18日

 
W-B-28
 
上条愛一の書簡             小虎宛
結婚することにした。鈴木は立候補断念。近いメーデーは松岡の消極論を押さえて示威をやること。山本懸蔵の過去の女性問題取り上げの松岡派の動き。労働同盟5月から休刊のため赤松・上条の生活ができなくなったこと。選ぶべき道は2つ、組合運動からぬけて運動するか、留まるか。5月小虎上京の折相談したい。
大正11年4月20日
 
W-B-29
 
岡林次郎の書簡              小虎宛
「金の方のこと、君の出発までにはなんとでもして君の困らぬだけの途をつけることに僕も協力するつもり。」
大正11年4月30日

 
W-B-30
 
上条愛一の書簡              小虎宛
麻生父君危篤大分へ帰郷。メーデー無事終了。野坂鉄5・6日前帰国。山本懸蔵を説得。上条の俸給は40円確保。4−50円不足、翻訳でもやるか。労働運動からは手を切らぬ。上京されたら新家庭へ案内したい。
大正11年5月3日
 
W-B-31
 
望月源次の書簡              小虎宛(国東町)
「二審結審。四カ月二十日の懲役と決定。六月六日頃に下獄致します。・・・メーデーの状況。」決意と悲哀を述べている。
大正11年5月3日
 
W-B-32
 
坂口義治(東京牛込)の書簡       小虎宛
渡航旅券・実印を保管の旨。『鉱山労働者』に寄稿を依頼。
大正11年5月6日
 
W-B-33

 
孝子(国東町)の書簡          小虎宛(労働総同盟神戸連合会気付)
小虎の「大井川通船組合より発送の小荷物立石駅に参っておりますけれども・・ほんとうにごめいわくでしょうけれど、おかえりに・それを受け取っていらして下さいませ。・・・」
大正11年2月2日

 

W−C 渡欧中の書簡   (大正11年7月13日 日本郵船北野丸にて門司港発)
W-C-1
 
小虎の書簡(北野丸船中)        孝子宛(大分県国東町)
船中同客・居室・食事・揚子江の様子など
(大正11年7月14日執筆)
W-C-2 小虎の絵葉書(上海港)         品八宛(香川県常磐村)  大正11年7月15日朝
W-C-3
 
小虎の絵葉書(上海)          孝子宛
「今日は酒井君の案内で野坂君の兄さんの車で上海中を乗りまわして見物した。」
大正11年7月15日午後7時
W-C-4
 
小虎の書簡(台湾海峡通過中)      孝子宛
上海からの船客。船中の労働問題。特三船客の気楽さなど。
大正11年7月18−19日
W-C-5 小虎の絵葉書(香港)          岸井品八宛         大正11年7月20日
W-C-6
 
小虎の書簡(シンガポール)       孝子宛
シンガポール到着前の船内の模様を述べる。船客の身の上話、船上プールのことなど。
大正11年7月26日
 
W-C-7 小虎の絵葉書(マレー・女性)シンガポール  岸井君子宛(常磐村) 大正11年7月27日
W-C-8 小虎の絵葉書(シンガポール・ゴム園)    富士見芳宛(長野県笹賀村)       大正11年7月29日
W-C-8' 小虎の絵葉書(シンガポール・バナナの樹)  富士見芳宛(長野県笹賀村)       大正11年7月27日
W-C-9 小虎の絵葉書 (セイロン・コロンボ、釈迦祭りパレード)  富士見芳宛 大正11年8月4日
W-C-10 小虎の絵葉書(スエズのオアシスの写真)  富士見芳 宛                大正11年8月17日
W-C-11
 
小虎の書簡(ポートサイド投函)      孝子宛
「コロンボ出帆以来今朝までまる六昼夜印度洋の激浪に揉み抜かれ・・・まったく甲を脱いだ。・・・おまえがして置いた・・針に止めのついた糸を通してあるのを見て・・心の行き届いているのをいつもの事ながらほんとに嬉しく有り難く思った。」その他甲板部船員と士官の対立のことなど。                                
大正11年8月11日から14日執筆、18日投函
 
W-C-12 小虎の絵葉書(マルセーユの波止場)マルセーユのホテルにて  孝子宛   大正11年8月24日
W-C-13
 
小虎の絵葉書(マルセーユの波止場)   富士見芳宛
「昨安着。はじめて欧州の土を踏みました。・・・」                 
大正11年8月24日
 
W-C-14

 
小虎の絵葉書(パリ)          孝子宛
「パリは・・もう秋です。小松(清)君につれられて・・ペール・ラシェーズの墓地にコンミューン殺戮の痕を訪ねた時は感慨が最も深かった。・・・」。             
大正11年8月30日

 
W-C-14'
 
小虎の絵葉書(パリ)          孝子宛
「パリは・・確かに全市が一つの芸術品である・・・・。」             
大正11年8月30日
 
W-C-15
 
小虎の絵葉書(パリ、ノートルダム寺院) 孝子宛
「今夜ベルリンへ向かって出発するはず」                       
大正11年9月9日
 
W-C-16
 
小虎の絵葉書(パリ・オペラ座)      岸井君子宛
「今夜ベルリンに向かって出発する」                         
大正11年9月9日
 
W-C-17
 
小虎の絵葉書(パリ・カルーゼル広場凱旋門)富士見芳宛  
「パリ・・ゆっくりと半月あまり元気を養いました。今夜ベルリンへ発つ筈。」     
大正11年9月9日
 
W-C-18


 
小虎の書簡(ベルリン)          孝子宛
  「ベルリンへ昨十日午後六時着。森戸君と山之内君(九大法学部教授)の出迎えを受けてこの宿へ落ち着いた。」大使館で孝子の手紙を発見、読んだときの歓びなど。                                   
大正11年9月11日執筆、13日投函
(自伝ベルリン通信1)
 
W-C-19
 
伊藤清の書簡(インド洋上)       小虎(東京府)宛
 「上海・香港・シンガポールに白人は傲然として威張り我等有色人種は奴ひのごとく振る舞う。しゃくに障ることはなはだし。南洋の草木雄大にして色彩鮮明強烈なるは痛快です。遙かにご健勝を祈る。」
大正11年9月14日
 
W-C-20
 
小虎の絵葉書(ベルリンの住居のある建物)富士見芳宛
「九月十日当地につき、森戸辰男君の骨折りで落ち着きました。・・・」
大正11年9月15日
 
W-C-21
 
小虎の書簡(ベルリン)         孝子宛          
 
大正11年9月17日 自(自伝ベルリン通信2)
W-C-22
 
小虎の書簡(ベルリン)         孝子宛
孝子からの手紙が来ないことに対する不満。日本人の陥りやすい女性関係。マルクの動き。労働運動。森戸夫妻 、暉峻夫妻、藤井悌次郎のことなど。
大正11年9月25日

 
W-C-23
 
小虎の書簡(居室の写生あり)      孝子宛      
 
大正11年10月1日夜(自伝ベルリン通信3) 
W-C-24

 
小虎の書簡(ベルリン)         孝子宛
孝子の9月3日付けの手紙に、半月来の憂鬱から解放されたこと。孝子の妊娠中の体調を案ずる。ドイツのインフレ下の暮らし。孝子にベルリンに来るよう勧める。
大正11年10月10日                     
W-C-25

 
小虎の絵葉書(クルザール湖モン・ブラン波止場)  孝子宛 
同時発信の富士見芳宛の絵葉書より日付推定                      
 
大正11年10月18日)
(自伝ジュネーヴ通信1)
 
W-C-26 小虎の絵葉書(ジュネーヴホテル アン・グレテール、孝子宛と同じもの)富士見芳宛    大正11年10月18日
W-C-27
 
小虎の絵葉書(レマン湖ルソー島の絵葉書) 孝子宛                             大正11年10月23日
(自伝ジュネーヴ通信2)
W-C-28
 
小虎の書簡  孝子宛               
 
大正11年10月29日 (自伝ジュネーヴ通信3)
W-C-29
 
小虎の絵葉書(ハイデルベルヒ城)    孝子宛
追記「スイスからの帰途ハイデルベルヒに一泊した。・・・」
大正11年11月5日
       10日
W-C-30
 
小虎の書簡  孝子宛             
 
大正11年11月17日 (自伝ベルリン通信6)
W-C-31

 
小虎の書簡(ベルリン)         孝子宛
四十日手紙が来ないこと。「このやり方にたいし少なからず疑惑を持たざるを得ない。・・」(投函しなかった模様)
大正11年11月26日

 
W-C-32
 
小虎の書簡(ベルリン)         孝子宛
孝子からの手紙が来ないことに不安で不眠に陥り、書いた書簡。しかし投函しなかった模様(封筒を欠く)
大正11年12月11日朝(自伝ベルリン通信8)
 
W-C-33
 
小虎の書簡(ベルリン)         岸井君子宛 
ベルリンの十二月の長く物憂い夜の様子。インフレ下のドイツ人の惨憺たる生活。ドイツの女性の地位。インテリ女性の優秀さ。女子高校の体育の高水準。孝子から六十日以上も音沙汰なく、ひどく心配していることなど。
大正11年12月11日


 
W-C-34
 
小虎の書簡(ベルリン)         孝子宛  
11月17日発信の孝子の手紙と孝子の姉の手紙を受け取ったこと。73日間の音信不通に対する懊悩を披瀝したもの。脚の以前の患部の痛みの再発のこと。ベルリンの冬の夜の長さ。孝子のお産の心配など。(岸井支店ご一同様宛信書を同封)
大正11年12月22日
( その1)

 
W-C-35
 
小虎の書簡(ベルリン)         孝子宛
前便の訂正の意味を込めた楽しい手紙。後半に自伝ベルリン通信九の部分が記されている。
大正11年12月22日(その2)
W-C-36
 
小虎の書簡               孝子宛
暮れの30日の魚の中毒の重態の病状と回復の過程を述べたもの。
大正12年1月14日
(自伝ベルリン通信11)
W-C-37

 
小虎の書簡               岸井保之進宛
義兄に対しては、孝子出産の知らせについての礼状と、脚の調子が悪く、転地療養を勧められていることなど。 (孝子宛の手紙を同封)
大正12年1月27日
(後者は自伝ベルリン通信12)
W-C-38
 
小虎の絵葉書               孝子宛  
 
大正12年2月5日
(自伝ベルリン通信13)
W-C-39
 
小虎39の絵葉書              富士見芳宛
「・・もう足も腸も大丈夫。只衰弱した身体の回復に努めるだけです。・・・」
大正12年2月5日   
 
W-C-40
 
小虎の絵葉書(ブランデンブルク門) 孝子宛 
「十二月二十七日発の葉書 今朝着きました。先ず産後別状なくて何より安心 ・・」
大正12年2月11日
 
W-C-41
 
小虎の絵葉書(旧王宮背面の写真)    富士見芳宛
5月から先の仕送りについて、ご心配ないように。
大正12年2月11日
 
W-C-42
 
小虎の書簡                孝子宛
ベルリン日本大使館が小虎宛の手紙を七通も差し止めていたことなど。
大正12年2月13日
(自伝ベルリン通信15)
W-C-43
 
小虎の書簡(ベルリン)          孝子宛
2月14日・19日に、また今日は1月27日投函の手紙を受け取ったこと。泰助の元気な様子に満足。自然と大気と日光のなかにスクスクと伸びていく儘に伸ばすのが一番よい。健康は殆ど常に復した。けれどもごく幼少の頃患った左の肋膜がこの間の身体の衰弱のために少し悪くなってまだ十分安心できないこと。森戸・大内兵衛・ 岡上皆ドイツを発って、大西俊夫君がやってきた。ドイッチェ・テアターでアルテ・ハイデルベルヒを観た。その筋書きを詳しく述べる。
 麻生が『濁流に泳ぐ』を刊行、送ってきた。なかなか面白い。安生鞠子さんのこと、非常に興味を持って傍観している。
大正12年3月13日
 
W-C-44

 
小虎(ベルリン)の書簡         孝子宛
2月1日出の手紙一昨夜到着。泰助の写真について。二三日前にベルリン大学哲学科へ願書を出した。長野の兄が胃ガン困ったことになった。隣の上等な部屋に移った。
大正12年3月19日

 
W-C-45
 
小虎の書簡               孝子宛
自伝に採録の部分のほか、泰助の育て方についてや同封の写真の説明などが記されている。
大正12年3月28日
(自伝ベルリン通信17)
W-C-46
 
小虎の書簡(ベルリン) 孝子宛(香川県常磐村岸井方)   
「二月二十八日出の手紙四月八日に到着した。・・泰助を、おまえが子供を抱いたり、かかえたりしてやっている様子を想像すると、飛行機か何かで飛んで帰って一目見たいような気がする。そしたら忽ち幸福になれるだろう。・・・兄のこと、ついに医者が胃癌だと言ったとのことで、大分悲観しているらしい。・・・生きているうち にお前も都合して泰助を連れて、一度行ってやってくれ。・・・大阪の河井栄蔵が二、三日前ヒョッコリやってきた。・・ドイツの復活祭について。・・ドイツの娘さんをエスコートしてシラーのウィルヘルムテルを観にいった」こと。ドイツの日本人の退嬰性についてなど。
大正12年4月6日朝
 
W-C-47
 
小虎の書簡               孝子宛(常磐村)
ベルリン大学入学のことなど。
大正12年4月21日
(自伝ベルリン通信18)
W-C-48
 
小虎の書簡(ベルリン)         棚橋亀代太郎宛(小虎の長兄)
病気見舞い。ベルリン大学の様子など。
大正12年5月11日   
W-C-49

 
小虎の書簡(ベルリン)         孝子宛(常磐村)
前半は心のこもった愛の手紙。後半は亀代太郎の死後への心構え(亀代太郎の妻・母・孝子の同居は不可)など。
大正12年5月16日
 
W-C-50

 
孝子の書簡 (長野市)          小虎宛(ベルリン)
亀代太郎の死の模様を報じ、「貴方がご遠方でご心配なさらなくとも、こちらでどういう風にでも片づくと思います。」また小虎の健康を案じ、泰助の成長の様子を述べたもの。
大正12年5月21日

 
W-C-51 山崎義男と小虎の寄せ書絵葉書      孝子宛(常磐村)     大正12年5月26日
W-C-52
 
小虎の絵葉書(ベルリン Lustgarten mit Dom)  棚橋亀代太郎宛 
御機嫌伺い                      
大正12年5月31日
 
W-C-53

 
小虎の書簡(ベルリン)         岸井品八(常磐村、中身は孝子宛)宛     国東から常磐村への孝子の旅を思いやったもの。モスクワ入りのプランと12月までにベルリンへ戻りたい。できるだけ泰助を連れて兄の死の前に長野に行って欲しいなど。 大正12年5月31日

 
W-C-54

 
孝子の書簡(長野市)          小虎宛
長野での「灰色の生活」の様子。四国の父の援助は不可能。東京に出て岸井寿郎叔父に相談し、自立の途を探す決心を伝える。
大正12年6月1日

 
W-C-55


 
富士見芳の書簡(長野県笹賀村)     小虎宛
亀代太郎の臨終の様子を詳しく伝え、ロシア行きをとりやめるようくれぐれも伝言するように遺言したこと。自分の夫の死の後任の僧が着任したが、約束の三百円がもらえないので、退去できないことなど。
大正12年6月6日
 
W-C-56
 
孝子の書簡(常磐村)          小虎宛
東京を周り、寿郎・麻生に会ったが、仕事など探さず、四国で小虎の帰国を待つようにいわれて、戻ったこと。泰助の成長と母としての深い感情、小虎への愛情と棚橋家という重苦しい家に対する反抗心をのべ、小虎の家に対する考えを叩き割ってしま  いたい気持ちになることを述べたもの。
大正12年6月21日
 
W-C-57
 
小虎の書簡               棚橋久(亀代太郎妻)宛
兄の死についてのお悔やみと、6月ころの日本帰国までなんとか辛抱して欲しいというもの。
大正12年6月29日
 
W-C-58
 
小虎の書簡(ベルリン)         孝子宛
長野の兄の死の知らせ(5月21日付)を見たこと。泰助の写真を飽かずに見ていること。「俺は今まであんまり無愛想でお前に対する感謝も愛情も示さなかったことを心から後悔している。・・・明日は旅に出る。」
大正12年6月29日
 
W-C-59
 
小虎の絵葉書(Berlin Unter den Linden Cafe Bauer und Kranzler)  富士見芳宛
長野の兄さんの死について「僕が留守をしたんで皆さんに大変ご迷惑を掛けた。」
大正12年6月29日
 
W-C-60
 
小虎の絵葉書(Schlossteich Brueckeケーニヒスベルク)       孝子宛
北の国境にちかい田舎町に立ち寄った。
大正12年7月2日
 
W-C-61

 
棚橋萬劫次郎(長野県安曇村)の書簡   小虎宛
亀代太郎の死去に伴う周辺の事情、特に自分がいかに多忙かを述べて、小虎の見解を問うたもの。
大正12年7月4日朝

 
W-C-62
 
孝子の書簡(常磐村)          小虎宛
5月31日の小虎のドイツ出立の手紙を見て書いたもの。12年中にベルリンに戻り、来年5月ころ帰国という予定に賛意を表す。自分は泰助を置いてドイツに赴く気がないこと。小虎が麻生に頼んだ送金について、東京で、麻生・寿郎と相談し、品八に二百円出してくれるよう頼むことになり、孝子が品八の苦境を考えて、言い出しかねていらいらしていたこと。申し出たところ、無言で出してくれたこと。泰助がきわめて順調に育っていることなど。
大正12年7月8日
 
W-C-63

 
棚橋久子(長野市上西之門町)の書簡   小虎宛
亀代太郎の臨終の様子。葬式など後始末のこと。家計のこと。岡林からの送金受け取ったことなど(昌子小学5年生の手紙を同封)
大正12年7月19日

 
W-C-64
 
小虎の書簡(モスクワ→ベルリン経由と推定)  孝子宛(常磐村)          自分の育った家庭環境を説明し、今まで孝子にそれを話さなかったことを詫び、自分の心の持ち方が、知らず知らずに孝子に深い悲しみや失望を与えたことを謝する手紙。岡林次郎が長野へ百円送金してくれたこと。岡上が五百円送ってくれたこと。今は金が不要なことなど。 大正12年8月17か18日

 
W-C-65

 
上條愛一の書簡             小虎宛
震災前の時点での日本の労働界の状況を伝える。
 
大正12年8月22日投函、ベルリン到着は9月19日
W-C-66

 
孝子の書簡(常磐村)          小虎宛
1ヶ月近く体調、心身共に不調のこと。小虎に棚橋家の相続人を放棄して欲しいこと。震災で東京・横濱が全滅したらしいことなど。(岸井君子の書簡も同封)
大正12年9月5日

 

W−D 淡路時代の書簡(昭和5年衆院議員立候補まで)
W-D-1

 
小虎の書簡               孝子宛
「中西さんに診察を受けた結果、東京行も信州行きも見合わせて彼岸過ぎまで静養することとし、直ちに今明日中に洲本へ出発して家を探すこととした。・・・」
大正13年1月31日

 
W-D-2-1
 
孝子の書簡               小虎宛
淡路洲本によい家が見つかってうれしい。自分がジフテリアで高熱の模様など。
大正13年2月7日
 
W-D-2-2
 
孝子の書簡               小虎宛
長野よりの手紙を同封
大正13年2月4日
 
W-D-2-3
 
孝子の書簡               小虎宛
 
大正13年2月14・16日
W-D-2-4 孝子の葉書               小虎宛                   大正13年2月9日
W-D-2-5 孝子の葉書               小虎宛                 大正13年2月11日
W-D-3
 
上条愛一の書簡(香港)         小虎宛
鹿島丸よりILOの会議のため出帆の挨拶。
大正14年4月7日
 
W-D-4
 
上條愛一の葉書(地中海より)      小虎宛
ILOの会議は19日から2週間の予定。
大正14年5月6日
 
W-D-5
 
鈴木文治の絵葉書(香港にて)      小虎宛 
留守中高配を。
大正14年4月7日
 
W-D-6
 
上条愛一の絵葉書(ジュネーブ)     小虎宛
ジュネーブ着。ILO総会は19日から6月6日まで。
大正14年6月1日
 
W-D-7
 
三宅正一の書簡             小虎宛
日本農民組合新潟県連合会の顧問弁護士への就任を懇請したもの。
大正14?年?月5日
 
W-D-8
 
望月源次の書簡             小虎宛
総同盟本部の陣容を知らせる。ついでに金の都合を依頼。
大正14年10月10日
 
W-D-9
 
伊藤 清の書簡             小虎宛
大正14年7月、ベルリンより帰国、東京に弁護士を開業。
大正15年2月9日
 
W-D10
 
三宅正一の書簡(新潟市西大畑)     小虎宛(洲本)
総同盟の分裂を残念とする。
大正15年10月7日
 
W-D-11
 
望月源次の書簡(日本労農党創立事務所) 小虎宛(尼崎市宮川六三坂本勝方)
血染めの帽子に興奮して復讐を叫ぶ。
大正15年12月7日
 
W-D-12
 
激励電文(送達紙五枚)         藤岡文六宛
「組合同盟ソウヨツ委員会は棚橋・国領二氏の遭難に対し衷心からの遺憾と痛憤を覚ゆる。我らは二氏の一日も早く健康回復を祈るとともにこの暴挙に対し断固たる確信をもって階級的正道を邁進することによって報いたいとす。二氏とも今運動の飛躍をよそに病床にあることは残念ならんも、静かに静養せられんことを望む。」
大正15年12月8日 
午前二時〇七分
 
W-D-13
 
小虎の書簡               孝子宛
尼崎、中馬病院より7日総同盟尼崎連合会員に暴行を受け入院の報告
大正15年12月8日
 
W-D-14
 
孝子の書簡               小虎宛
災難に驚き。家には心配なく養生されるように。
大正15年12月8日夜
 
W-D-15
 
望月源次の書簡             小虎宛
冷静を取り戻して、棚橋の労働運動への出馬を乞う。
大正15年12月17日
 
W-D-16 富士見芳の葉書             小虎宛                大正13年2月5日
W-D-17 富士見芳の葉書             小虎宛       大正13年2月9日
W-D-18 岸井品八の葉書             小虎宛     大正13年2月13日
W-D-19 富士見芳の書簡             小虎宛    〔大正〕13年2月16日
W-D-20 上條愛一の書簡             小虎宛      大正13年2月16日
W-D-21 松原栄の書簡              小虎宛       大正15年1月2日
W-D-22 松本一雄の書簡              小虎宛      大正15年8月21日
W-D-23 藤岡文六の書簡             小虎宛     大正15年11月18日
W-D-24 上條愛一の書簡              小虎宛      大正15年12月8日
W-D-25 中野三郎の書簡              小虎宛     〔昭和〕2年7月25日
W-D-26 鈴木秀三郎の葉書            小虎宛 昭和2年8月23日
W-D-27 河合寿雄の書簡              小虎宛               不詳
W-D-28 萩本〔哲郎〕の書簡            小虎宛       昭和2年7月22日
W-D-29 丸山初由の葉書             小虎宛         ( ?  )21日
W-D-30 岸井寿郎の絵葉書            小虎宛(米国ソルトレイクシティ)  昭和2年4月10日
W-D-31 池田徳治の書簡             小虎宛      大正14年6月27日

YーE 昭和5年2月総選挙関係の書簡
W-E-1

 
富士見芳の書簡             孝子宛
今日の新聞で立候補を知り嬉しく泣けてしまった。・・・気がもめて何かのお手伝いに出掛けたい。様子を知らせてほしい。
昭和5年1月24日

 
W-E-2
 
堀口忠次の書簡(群馬県川根郡)     小虎宛
金弐拾円也僅少ながら運動費の一部に。
昭和5年1月31日
 
W-E-3
 
棚橋萬効次郎の書簡           小虎宛
ご奮励、月桂冠を得られるよう。
昭和5年2月2日
 
W-E-3'
 
後藤貞治(大原社研)の書簡       小虎宛
選挙後援会につきお願い
昭和5年2月2日
 
W-E-4
 
富士見芳の書簡             小虎・孝子宛 
最後の日まで丈夫で活動のできるように毎日天神様や神道にお参りしている。
昭和5年2月7日
 
W-E-5
 
山田茂栄の書簡(神戸市前町)      小虎宛
第一回総選挙では米窪滿亮を応援した。今回は棚橋を応援する。演説は早口でなく、強く、静かにせられたし。応援弁士、河上・坂本のあとは嘲笑を買っている。十分以内にせよ。など忠告す。
昭和5年2月7日
 
W-E-6
 
上条愛一の書簡             小虎方藤岡文六宛
「藤岡兄 御芳墨多謝。選挙は阿呆らしい。しかしやり始めたらやり抜かねばならない。紡績の声明書は出しますか。東京では選挙で新聞は声明書等は掲載して呉れません。支部へ送る位のものでしょう。然しやります。会長さんによろしく。」
昭和5年2月7日
 
W-E-7
 
酒井興・高田一の書簡(在上海 金10$入り保険信凾)  小虎宛           「貴兄が此度の立候補、折角ご奮闘、ご当選を祈る。甚だ軽少で汗顔の至り、寸志をご笑納あれ」 昭和5年2月9日   
 
W-E-8
 
大島岩吉の書簡(兵庫県川辺郡)     小虎宛
左記の人々の宅へ至急貴殿の親展書をご発送下されたく御願い申し上げ候。・・」
昭和5年2月11日
 
W-E-9
 
大島岩吉の書簡             小虎宛
「・・以上の二人へこの際一日も早く貴殿の親展書ご発送相成りたく・・・」
昭和5年2月14日
 
W-E-10
 
堀口忠次の書簡             小虎宛
叔父上様。敗れたりとはいへ、将来に対する数多貴重なる経験を得られた事と思います。
昭和5年2月21日
 
W-E-11
 
山田茂栄の書簡             小虎宛 
血涙の戦績なれども、大衆党の種子永遠に滅せず。
昭和5年2月22日
 
W-E-12
 
中谷勝美の書簡(淡路育波村)      小虎宛
「予想を裏切り・・既成ブルジョアの代議士が当選・・遺憾・・慨嘆・・それも実に戦線の不統一と選挙民の無自覚によることと思い、私は茲に全線的統一を希望・・・」
昭和5年3月1日

 
W-E-13
 
古川磐夫・渡辺寿雄の書簡(兵庫県岩原町)  小虎宛
「なぜ・・現在の日本の無産大衆は今一歩政治に目醒めては呉れないのか。・・敗戦の原因は貴下と米窪氏の対立にあると信じます。・・全国無産政党の惨敗は、分裂・対立・乱立による無産党自身の内面的原因にある・・・」
昭和5年3月2日
 
W-E-14

 
桐花寅吉の書簡(淡路津名郡)      小虎宛
「戦に敗るるとも此光輝ある旗幟を下ろさず如何なる難関に会うとも屈せず、七千万大衆の共存共栄、昭和新日本の創立に尽力せられよ。」
昭和5年3月4日

 
W-E-15
 
岸井壽郎の書簡              小虎宛
「小虎に貸した公債で自分が立候補でもしたようなひどい目にあった。一日も早く供託した公債を返してもらわねばこの先どんな損害を蒙るかも知れぬ。・・・」
(興銀の不足担保品四百円要提供の請求書同封)
昭和5年3月4日


 
W-E-16
 
山名義鶴の書簡(大阪府田辺東町)    小虎宛
「いろいろ話があるから、とにかく一度出て来ぬか。・・・合同問題がまた渦を巻いているが、同盟の態度を固定化させずに極めて自然にもって行くことがよいと思っている。下手をやると大衆と全民に分裂だ。」
昭和5年3月19日
 
W-E-17
 
藤岡文六の書簡             小虎宛 
「選挙の通話料今日限り分七十三円、流用する金がなく困っております。ご考慮願いたい。」
昭和5年3月20日
 
W-E-18
 
阪本勝の書簡              小虎宛
「例によって催促だが、同封の松原の哀訴状。毎日毎日来るけれどももう僕の家内も閉口しきって断りようがない。・・・どうか当方の窮状お察しのうえ、直接に松原への交渉をしてくれたまえ。・・・河上の子供が死んで、ひどい物要り、おまけに第三児が重体で入院。妹も入院。君からの返却もつらかろうが、僕に哀願するけれども僕ももう君にも気の毒で。どうか何分頼み入る。合掌。」
昭和5年3月27日 
 
W-E-19

 
岸井壽郎の書簡             小虎宛
「例の件はどうなったか。毎日鶴首して待っているが・・・困っている。・・至急片付けて貰いたい。」
昭和5年4月15日

 
W-E-20
 
上条愛一の書簡(神田東福田町日本労働組合同盟本部)  小虎
「合同大会を五月二十五日に大阪でやるように打会わせた。青パスからの二百円と六十円の組合同盟の基金の貯金通帳と印とを書留郵便にて拙宅へ至急ご送付ください。会計を中山氏に一任してあったのですが、選挙後同氏がどちらかへ逃亡、後片付  けや鐘紡、メーデー等にて支出多く、しかも会費の集まりが悪いので、少し流用いたしたく・・・」
昭和5年4月21日
 
W-E-21

 
岸井壽郎の書簡             孝子宛
  「例の件について・・・僕としてもあなたをせめるように思われるのも嫌だからと今迄何も言いませんでしたが、棚橋君から何の返事もないので聞き合わす次第です。  ・・」
昭和5年4月23日

 
W-E-22

 
山名義鶴の書簡(芝区尾田村日本大衆党) 小虎宛
「俺はまた合同問題の網のなかに引かかってしまった。・・いろいろ相談することがあるから至急上京せよ。・・・天下は物情騒然・・現存の無産団体の実力には荷が勝ち過ぎる。」
昭和5年4月25日

 
W-E-23

 
上条愛一の書簡             小虎宛
「明後十五日午前十時から全国同盟との合同委員会を芝協調会館於いて開催致しますから、左様ご了承ください。」
昭和5年5月13日朝

 
W-E-24
 
大島岩吉の書簡             小虎宛
「選挙終了後病気にかかり、命を失う際であったが、信仰の道に救われた。一カ月以上も一文の働きもせず、選挙で永々仕事を休み、愈々手元不如意になりました。選挙費用の立て替え分の残金・・・ご送付下されたく候。・・・」
昭和5年5月21日
 
W-E-25

 
上条愛一の書簡             小虎宛
「来る三十一日の合同委員会に・・大阪へお出掛けを願いたく存じます。それから例の二百円何とか一つご都合願えませんでしょうか。・・」
昭和5年5月23日

 
W-E-26
 
白鳥広近の書簡(東京神田関東合同組合)   小虎宛 
次回の総選挙に東京からの出馬を勧める書簡。
昭和5年7月24日
 
W-E-27
 
藤岡文六妻タエ子の書簡(尼崎市昭和通)    小虎宛
「主人出張中 子供が猩紅熱。援助を乞う。」
昭和5年7月26日
 
W-E-28

 
上条愛一の書簡             小虎宛
「・・愚妻四カ月程前から流産で手術し、又最近子宮と肛門との間に腫れ物ができまた手術せねばならぬとか申し弱っております。・・・」
昭和5年9月22日

 
W-E-29
 
諸星まきの書簡(東京荏原町)      小虎宛
病人の病状悪化。万一の時に備える余裕がない旨。
昭和5年10月3日
 
W-E-30
 
諸星まきの書簡             小虎宛
「病人危篤。一両日中。お出でのとき夜具を持参されたし・・」
昭和5年10月11日
 
W-E-31 岩井伊久太の書簡            小虎宛 昭和5年1月11日
W-E-32 山田〔茂栄〕の葉書            小虎宛             昭和5年1月21日
W-E-33 片山久人の葉書              小虎宛             昭和5年1月23日
W-E-34 桐花寅吉の書簡              小虎宛             昭和5年1月24日
W-E-35 大岡鉄吉の書簡              小虎宛             昭和5年1月25日
W-E-36 中野一晴の書簡              小虎宛             昭和5年1月26日
W-E-37 米谷義隆の葉書              小虎宛              昭和5年2月2日
W-E-38 橋本〔不明〕の葉書            小虎宛              昭和5年2月4日
W-E-39 箱山辰雄の葉書             小虎宛              昭和5年2月3日 
W-E-40 野上久萬吉の葉書             小虎宛              昭和5年2月4日 
W-E-41 片山〔不明〕の葉書            小虎宛              昭和5年2月4日 
W-E-42 廣瀬純三の書簡              小虎宛              昭和5年2月4日 
W-E-43 笈田一夫の葉書             小虎宛              昭和5年2月9日 
W-E-44 西堀英吉の書簡             小虎宛               昭和5年2月10日 
W-E-45 農民の一労働人の書簡           小虎宛            昭和5年2月10日 
W-E-46 諸星まきの葉書           棚橋孝子宛           昭和5年2月10日 
W-E-47 洲本町民矢野の書簡           小虎宛              昭和5年2月   
W-E-48 浜田勇松の書簡              小虎宛              昭和5年2月10日 
W-E-49 〔箱〕山弥三郎の葉書           小虎宛            昭和5年2月14日
W-E-50 荒〔倉〕繁夫の書簡            小虎宛            昭和5年2月16日
W-E-51 増田精三の書簡              小虎宛            昭和5年2月16日
W-E-52 富岡兼助の葉書              小虎宛            昭和5年2月17日
W-E-53
 
小林〔?〕の書簡             小虎宛
宮崎龍介より代わりに選挙応援せよと依頼
昭和5年2月17日
 
W-E-54 平山泰の書簡              小虎宛        昭和5年2月18日
W-E-55 洲本一住生の葉書             小虎宛        昭和5年2月19日
W-E-56 石原五郎兵衛の葉書            小虎宛        昭和5年2月19日
W-E-57 山際儀太郎の葉書             小虎宛        昭和5年2月21日
W-E-58 松葉昌一の書簡              小虎宛        昭和5年2月20日
W-E-59 平山泰の書簡              小虎宛        昭和5年2月23日
W-E-60 樫葉一の書簡              小虎宛        昭和5年2月28日
W-E-61
 
松葉昌一の書簡             小虎宛
請求書
昭和5年3月1日
 
W-E-62 村上新作の葉書             小虎宛 昭和5年3月5日
W-E-63
 
松原勝(尼崎新聞社)の書簡       棚橋小虎法律事務所宛 
印刷代の支払いについての不満
昭和5年3月6日
         
W-E-64 平田辰蔵の書簡             小虎宛       年月日不詳 
W-E-65 河野秀の書簡              小虎宛      昭和5年3月6日
W-E-66 大岡(女性)の書簡           小虎宛        昭和5年3月11日
W-E-69
 
中山太一郎の書簡             小虎宛
借金申し込み
昭和5年5月2日
 
W-E-67
 
松原勝(民声社)の書簡         小虎宛
借金返済の催促
昭和5年4月4日
 
W-E-68
 
松原勝(民声新聞社)の書簡       小虎
入金の礼、坂本氏の無責任を怒る     (注)〔坂〕は現物のまま
昭和5年〔6〕月3日
 
W-E-70
 
市川弥三郎の書簡            棚橋小虎法律事務所宛
20円受領、法律事務所の出張所の件
    6月?2日
 
W-E-71 市川弥三郎の書簡            小虎宛 昭和5年6月15日
W-E-72
 
八賀〔 〕の書簡            小虎宛
借金返済の催促
昭和5年7月2日
         
W-E-73 池田恭而(関東合同)の葉書       小虎宛 昭和5年7月16日
W-E-74
 
松原勝(民声新聞社)の書簡       小虎宛
借金返済の催促
昭和5年8月8日
 
W-E-75
 
松原勝内(民声社)の書簡        小虎宛
借金返済の催促と阪本への怒り
昭和5年8月20日
         
W-E-76
 
福島玄(組合同盟阪神連合会)の書簡   小虎宛
選挙で使用の炭・薪の代金を送ってほしい
昭和5年8月20日
         
W-E-77
 
松原勝(民声社)の葉書         小虎宛
催促状
昭和5年8月30日
 
W-E-78
 
松原勝の葉書              小虎宛
60円入金、もう少し送ってほしい
昭和5年9月2日
         
W-E-79
 
松原勝の葉書              小虎宛
入金配慮の礼
昭和5年10月2日
         
W-E-80
 
大島岩吉の葉書             小虎宛
借金催促と就職の依頼
昭和5年11月9日
 
W-E-81 池田〔 〕(関東合同)の葉書       小虎宛 昭和5年12月20日
W-E-82 塚本鍼郎の書簡              小虎宛            昭和8年9月2日

WーF 淡路時代のつづき
W-F-1
 
小松清の絵葉書3枚入り封書(阪急 六甲)  小虎宛
「最近久しぶりで日本に帰って、大兄に会いたいのに所がわからなかった。僕の近所にいる河上丈太郎さんの奥さんから君が淡路の洲本にいられるのを聞いた。パリ生活の後長くご無沙汰してしまった。が、忘れてしまったのではなく兄のことは絶えず新しい記憶として残っていた。僕は淡路の出身である。この1月には淡路に四五日帰る。その時には兄にもあって見たいと思っている。大兄の健康を祈って」
昭和5年12月29日
 
W-F-2
 
岸井統一の書簡(大阪布施町)      小虎宛 
 株式市場の混乱の解説と指南。
昭和8年2月7・19日
 
W-F-3
 
上条愛一の書簡             小虎宛
 昭和7年夏、全国労働の分裂で主事を辞任。浪人生活。4月頃から労働学校に手を染めよ
 と準備中。子供が中耳炎・はしかにて、困却。2・30円融通願いたき旨。山名氏は国家
 会主義でときどき朝鮮・満州へ出掛ける様子。
昭和8年3月13日


 
W-F-4
 
富士見春子の書簡            小虎宛
名古屋逓信講習所を卒業の予定の知らせ。
昭和8年3月17日 
         
W-F-4' 〔富士見〕芳の葉書           小虎、孝子宛    昭和8年2月13日
W-F-5
 
上条愛一の書簡             小虎宛
送金への礼状。近ごろのような運動では力いっぱい働く気がしない。やがて近い将来一大混乱期が来よう。天下大いに動くとき、小虎の出馬を願う。妻から時々家を畳んで信州に帰って、しばらく別居するほかないと威嚇されるのが一番閉口。
昭和8年3月26日          
W-F-6
 
富士見芳の書簡             小虎宛
送金に対する礼。「いつまで送っていただいても際限のないことでですから、今月から子供等の収入でどうにかやって見たいと思いますから、・・・ほんとうに永い間なんとも有り難う・・ただただ厚く厚くお礼申し上げましす。」
昭和8年6月1日
 
W-F-6'
 
富士見芳の葉書             小虎宛
送金の礼
昭和8年5月1日
 
W-F-7

 
富士見芳の書簡             小虎宛
第五子の出産予定を祝う。昌子の工業試験場のサナギから造った醤油名の募集に春子の案の「銀嶺」が当選。
昭和8年6月23日

 
W-F-8

 
富士見芳の書簡             小虎宛 
鞠子の誕生を祝す。子供たちを招いてもらったが、忙しくて暇が無いこと。猛暑で水争いや日射病が頻発していること。泰助・雄三宛の春子の手紙同封。
昭和8年7月8日

 
W-F-9    岸井昌子の書簡(大阪岡町桜塚)     小虎宛
孝子出産への祝い。
昭和8年7月15日
         
W-F-9' 岸井昌子の書簡             小虎宛        昭和8年7月28日
W-F-10   
 
諸星まきの葉書(東京荏原中延)     小虎、孝子宛
出産を祝う。「マリコさんとはなんとモダンな御名でしょう。濱口さんに似ておられるのですって、未来は女総理大臣疑いなしと私はかたく信じます。」
昭和8年8月11日

 
W-F-11

 
上条愛一の書簡             小虎宛
小虎に信州行きを誘われたが原稿書きに追われ不可能。東京へ回ってくれれば酒でも酌みながらゆっくり話したい。
昭和8年8月10日

 
W-F-12
 
窪田満弥の書簡(長野県山形村)      小虎宛
結婚。36歳一念発起、弁護士を目指す。いかにすれば弁護士に成れるかを問う。
昭和8年1月23日
 
W-F-13

 
富士見芳の書簡             小虎宛
母の新盆に小虎が来なかったことを残念とする。
 
昭和8年8月21日

 
W-F-13'
 
諸星まきの書簡  小虎宛   
 
昭和8年2月13日、7月4日、11月13日
W-F-14
 
岸井統一の書簡(大阪府豊能郡)     小虎宛
株取引の件。
昭和8年12月10日
 
W-F-15      棚橋萬劫次郎の書簡           小虎宛
出産を祝す。市議選の状況。大衆党山本初吉 得票七九票。など
昭和8年7月2日
 
W-F-15'
 
棚橋萬劫次郎の葉書  小虎宛 
 
昭和8年2月10日、
 〔8年〕11月18日
W-F-16  箱山平八郎の葉書            棚橋小虎、叔母上宛         昭和8年7月4日
W-F-16' 箱山キクの葉書             孝子宛              昭和8年2月10日

WーG 松本時代書簡(戦前期)

(社会大衆党華北視察旅行)
W-G-1
小虎の書簡(大阪ステーションホテル)  孝子宛     
「・・・危険はないと思うが戦地のことだから、十分用心して行くつもりだ。・・・佐久間象山の書は買えないから先方に返すように。・・・」
昭和12年12月2日夜

 
W-G-2
 
小虎の書簡(長城丸船上)        孝子宛
「同行者、河上・西尾・河野・河井義一(兵庫三区)・田万・植田(岩手県)・金子(栃木)・佐竹(広島)と僕会わせて九名、明日門司より、浅輪・山崎・川俣の三代議士が乗る。それから立川平・中井一夫など兵庫県の代議士も乗船するとのことだからこれは代議士船だ。」
昭和12年12月2日夜
 
W-G-3

 
小虎の書簡               孝子宛 
「・・船には立川平、洲本の山崎さんの婿の多田衆議院書記官、西尾、河野、栃木県の金子、川俣清音が・・・加わっている。
昭和12年12月6日朝

 
W-G-4
 
小虎の書簡               泰助(中身は孝子宛)宛 
塘沽に上陸前の様子。
昭和12年12月9日
 
W-G-5
 
小虎の書簡(北京ホテル)        孝子宛(松本市片端町)
社会大衆党華北視察「・・北京の市街は・・規模宏大堂々たるものだ。至るところ金壁絢爛たる美しい楼門や建物があり美しい樹木が沢山あり、市街といえば民衆多くにぎやかなものだ。・・」帰国までの日程を告げ、短縮の難しいことを述べる。
昭和12年12月10日朝
 
W-G-6-1
 
小虎の絵葉書              泰助・雄三・五郎宛  
 
昭和12年11月30日 昭和12年12月8日朝
昭和12年12月8日夕
昭和12年12月13日
W-G-6-2
 
小虎の絵葉書              泰助宛
            
昭和12年12月10日
昭和12年12月12日
W-G-6-3 小虎の絵葉書               孝子宛             昭和12年12月11日
W-G-7
 
百瀬嘉郎の書簡(北支派遣第八十二野戦局気付) 小虎宛 
 「恭賀新春  小生吾乍ら思わずも北支の天地にて賀詞申し上げることになりました。  ・・・小生は郷土に於て青年に関係する以前に支那に於てその支那を通して列国の先端の相摩擦する真情や又支那に於ける日本人の進出状態 乃至軍の支那経営及これに伴ふ一種の統制経済の実施状態を見究める必要を痛感しています。支那が果して半植民地であるならば従来の考えを改めて、これが経営方針も考慮する必要はあると思います。然し在支半歳にして内外共に戦禍の甚大なるを思い、また出征将士の個人的状 況に思いを及ぼすならば、戦争は避けたかったことは事実です。然しそんなセンチメンタルも今はせんない事です。この上はこの大なる犠牲乃至国民的試練の上に将来において大を期待するより他ありますまい。・・・・」(盲腸手術入院の弟と共に撮影した軍装の写真を同封)
昭和14年1月5日
 
W-G-8
 
阪本勝・安芸盛の書簡(東京市牛込)   小虎宛
(社会大衆党解党前)「いよいよ天下は御一新になろうとしています。先生のご決起を待つもの多大・・・(安芸)。・・・新党いよいよ来る。天下多事なり。自愛健闘のほどを。(阪本)」
昭和15年7月2日

 
W-G-9
 
阿部磯雄の書簡(東京市牛込)      小虎宛
「先日は思ひがけもなく拝顔の機を得て喜びに耐えませんでした。往年を顧みれば実に感慨無量です。先日の御厚情に対し厚く御礼申上げます。」
昭和16年8月2日
 
W-G-10

 
中野三郎の書簡(静岡県小川村)     小虎宛
「小生も老境に入りました。・・・相変わらず闘争癖は直らず村の異端者としての存在を続けております。・・・今春から思い立ちまして百姓を始めました。」
昭和18年11月25日

 
W-G-11
 
中野三郎の書簡             小虎宛 
「・・雀百まででありますか、何時の世にも非妥協の性ではどの道、世間的に伸びることは不可能と覚悟しております。・・・」
昭和18年12月13日

 
W-G-12
 
阪本勝の書簡              小虎宛
「寒中如何。昨日故麻生久君の『濁流に泳ぐ』をはじめて全編通読。貴兄らの若かりしころの姿に接し感慨無量。・・・世界東西ま将た怱々、帝都の明日の生活もどうなるか分からぬ。露のいのちである。毎日空襲を受けつつ生きている。日本の明日を思い夜半眠りをなさぬこと幾度。切に大兄の御健祥を祈る。」
昭和20年2月3日
 
W-G-13
 
中野三郎の書簡             小虎宛
空襲・地震にめげず健在のこと。耕作者不利、地主有利の供出米制度が耕作放棄を生んでいること。去年大井川通船70年の歴史に終止符を打ったこと。など
昭和20年2月7日
 
W-G-14
 
餅田守一の書簡             小虎宛         
 
〔昭和12か13年〕
8月30日
W-G-15

 
赤羽幾一の葉書             小虎宛                  

 
昭和13年3月13日
昭和13年7月26日
昭和13年8月9日
W-G-16-1 軍事郵便 笠原左門の葉書         小虎宛 年度不詳 2月20日
W-G-16-2 軍事郵便 笠原左門の絵葉書(上海)    小虎宛 年度不詳 3月7日
W-G-16-3 軍事郵便 笠原左門の絵葉書(南京)    小虎宛 年度不詳 3月23日
W-G-16-4 軍事郵便 笠原左門の葉書         小虎宛    年度不詳 4月20日
W-G-16-5 軍事郵便 笠原左門の絵葉書(南支風景)  小虎宛 年度不詳 4月29日
W-G-16-6 軍事郵便 笠原左門の絵葉書(国会議事堂) 小虎宛 年度不詳 5月31日
W-G-16-7 軍事郵便 笠原左門の葉書         小虎宛 年度不詳 7月7日
W-G-16-8 軍事郵便 笠原左門の葉書         小虎宛 昭和13年9月19日
W-G-16-9 軍事郵便 笠原左門の葉書         小虎宛 昭和13年10月14日
W-G-16-10 軍事郵便 笠原左門の葉書         小虎宛 昭和13年10月−日
W-G-16-11 軍事郵便 笠原左門の書簡         小虎宛      昭和13年9月28日
W-G-16-12 軍事郵便 笠原左門の書簡         小虎宛      昭和14年元旦
W-G-16-13 軍事郵便 笠原左門の書簡         小虎宛      年度不詳 1月12日
W-G-16-14 軍事郵便 笠原左門の書簡         小虎宛      年度不詳 1月10日
W-G-16-15 軍事郵便 笠原左門の書簡         小虎宛      年度不詳 1月28日
W-G-16-16 軍事郵便 笠原左門の書簡         小虎宛      年度不詳11月21日
W-G-16-17 軍事郵便 笠原左門の書簡         小虎宛      年度不詳12月12日
W-G-17 軍事郵便 村田儀助の葉書         小虎宛     昭和14年6月?日 
W-G-18 軍事郵便 渡邉怡の書簡          小虎宛       昭和13年1月18日
W-G-19-1 軍事郵便 平林孝雄の書簡        小虎宛 年度不詳1月7日
W-G-19-2 軍事郵便 平林孝雄の書簡        小虎宛 年度不詳2月5日
W-G-19-3 軍事郵便 平林孝雄の葉書        小虎宛 年度不詳2月11日
W-G-19-4 軍事郵便 平林孝雄の書簡        小虎、奥様宛 年度不詳5月19日
W-G-19-5 軍事郵便 平林孝雄の書簡        棚橋五郎宛 年度不詳10月22日
W-G-19-6 軍事郵便 平林孝雄の書簡        小虎、奥様宛   昭和13年3月7日
W-G-20-1 軍事郵便 桑原平治の葉書        小虎宛 日付不詳 
W-G-20-2 軍事郵便 桑原平治の絵葉書(戦場のへちま)小虎宛 日付不詳 
W-G-20-3 軍事郵便 桑原平治の絵葉書       小虎宛       日付不詳 

  H 戦後の書簡
W-H-1
 
木内仁の書簡              小虎宛
林虎雄新知事の選出を喜び、棚橋の支援を依頼するもの。
昭和22年4月7日
 
W-H-2
 
木内仁の書簡              小虎宛 
小虎の公職追放を残念至極とす。
昭和22年4月15日
 
W-H-3
 
山名義鶴の書簡(市川市)        小虎宛
総選挙に惜敗の弁。
昭和22年4月27日
 
W-H-4
 
上条愛一の書簡2通(日本労働組合総同盟) 小虎宛 
棚橋の追放解除の確実の情報と午後三時号外で解除を知り嬉しさに耐えずとする。
昭和23年5月22日
 
W-H-5
 
山崎徳松の書簡(横浜市鶴見区・米軍の検閲済み)小虎宛 
  「此の度は御公職復帰御確定の趣陰ながら心よりお喜び申し上げ候・・」
昭和23年5月24日
 
W-H-6
 
河井栄蔵の書簡(東京都杉並区)      小虎宛
「・・・今日の新聞で貴兄の追放解除を知り衷心より喜んでいる。・・綱島先生とは快談旧交を温めている。昔の友人はよいものだ。楢橋先生も解放されたから将来相当面白い場面もあるだろう。・・・」
昭和23年5月23日
 
W-H-7
 
林虎雄の書簡               小虎宛
「先生非該当の決定の報を知り、欣喜雀躍・・・」
昭和23年5月24日
 
W-H-8
 
中野三郎(静岡県小川村村長・農協長)の書簡 小虎宛    
「昨日東京で政界御復帰の快報を見たので・・・・」
昭和23年5月24日
 
W-H-9
 
林正典の書簡(飯田市)         小虎宛 
追放解除を祝して飲酒・転倒、歯を折る。飯田市方面の支持者の名前を列挙して示したもの。
昭和23年5月28日 
 

 
その他 追放解除を喜ぶ書簡  
 
W-H-10 増田甲子七     東京都大田区上池上町886      昭和23年5月24日 
W-H-11 佐竹晴記      社会革新党書記長            昭和23年5月25日 
W-H-12 山崎亥三男     長野市箱清水町1951       昭和23年5月24日 
W-H-13 森内隆一      大阪市生野区勝山通り8丁目40 興国商業高校内 昭和23年5月23日
W-H-13' 三村 一      東京都江戸川区小岩町1の464     昭和23年5月25日
W-H-14 木内 仁      南佐久郡野沢町取出区          昭和23年5月27日
W-H-15 清水喜代雄     軽井沢三笠2510           昭和23年5月27日
W-H-16 望月虎之助     東筑摩郡中川手村明科          昭和23年5月22日
W-H-17 坂戸三代松     北安曇郡北城村             昭和23年5月23日
W-H-18 濱 一正      豊科町警察署長             昭和23年5月24日
W-H-19 高山金男      東筑摩郡波田村              昭和23年6月9日
W-H-20 柏木易雄      小諸町                 昭和23年5月30日
W-H-21 市川雄吾      静岡県磐田郡山香村藤井社宅       昭和23年5月24日
W-H-22 関口得郎      小県郡神川村大屋             昭和23年6月6日
W-H-23 吉原勇一郎     北安曇郡八坂村             昭和23年6月10日
W-H-24 宮坂繁守      下水内郡飯山町神明町 信越炭鉱事務所  昭和23年12月1日
W-H-25 小林留水      埴科郡豊栄村              昭和23年6月8日
W-H-26

 
江福活治の書簡(鎌倉市材木座)     小虎宛
次期総選挙出馬を促し「追放解除の行懸り上も当選を期せられ候様熱望・・」
(GHQ開封済)
昭和23年11月20日

 
W-H-27

 
萩元隼人の書簡             小虎宛
総選挙準備について「小生にてもよろしく場合は何処へでも出掛けて微力を尽くしたく思っています。・・・」
昭和23年12月15日

 
W-H-28
 
小松千秋の書簡(長野県東筑摩郡神林村) 小虎宛 
立場上表面に立って応援できないが積極的に支持している旨
昭和23年12月16日
 
W-H-29

 
羽生三七の葉書(参議院)        小虎宛       
「情勢は大兄に有利・・弱気は禁物・・弁士は皆自分で立候補の関係で駄目と思って下さい。・・」
昭和23年12月19日

 
W-H-30
 
羽生三七の葉書             小虎宛
「・・小生は二十三日中に帰省、貴地へは必ず応援に参ります。・・」
昭和23年12月23日
 
W-H-31

 
萩元隼人の書簡             小虎宛
党の幹部は銘々がほとんど当落の予想がつかぬ状況、応援は不可能に近い。上京して直接依頼するのが最上・・・
昭和23年12月24日

 
W-H-32
 
平田源重の書簡(木曾福島町)      小虎宛
衆議院解散に伴い一大決意を以て堂々戦はれんことを
昭和23年12月24日
 
W-H-33
 
宮坂繁守の書簡             小虎宛
総選挙長野第四区の激戦を予想して激励したもの。

 
W-H-34
 
金井一馬の書簡(長野県下高井郡)    小虎宛
社会党長野県聨の宮下・黒岩のコンビを批判し、棚橋の健闘を祈るもの
昭和24年元旦 
 
W-H-35
 
菊川忠雄の葉書(東京都中野区宮園通)  小虎宛
「必勝御健闘を祈る」
昭和24年1月13日
 
W-H-36

 
上条愛一の書簡(東京都杉並区和泉町)  小虎、赤羽幾一宛 
赤松常子女史の九州応援先に連絡、2月20日松本市への応援依頼、返電を頼んだが、未着。息子が入院、病状重く、一・二日模様をみて松本へお訪ね致したく・・・
昭和24年1月16日

 
W-H-37
 
上条愛一の書簡(GHQ検閲済)     小虎宛
惜敗遺憾至極に存じます。
昭和24年1月24日
 
W-H-38

 
萩元隼人の書簡(千代田区神田・GHQ開封済)小虎宛    
「痛恨・・失望されぬよう・・組織の力が弱かった・・意気ますます旺盛ならんこと切望・・」
昭和24年1月24日

 
W-H-39

 
羽生三七の書簡             小虎宛
「残念至極です。これ以上何も言いたくない気持ちです。然し時期はまたすぐ来ますから運動は絶対に継続して下さい・・・」
昭和24年1月24日

 
W-H-40

 
萩元隼人の書簡(GHQ開封済)     小虎宛 
炭管問題のため降旗君の組閣からの除外はほぼ確実との情報・・勤労大衆の党として恥ずかしくない心構えと政策をもたねばならぬ・・・・
昭和24年1月27日

 
W-H-41

 
林正典の葉書2枚続き(飯田市通り)   小虎宛
「・・敗れたがまた時期は来ると信じております。・・・再建方法を左記します。」  
(八箇条列挙)
昭和24年1月26日

 
W-H-42
 
伊勢和一の書簡(木曽 野尻)      小虎宛
衆議院選落選を意外とす
昭和24年2月10日
 
W-H-43
 
浅沼稲次郎の書簡(江東区深川・タイプ印刷) 小虎宛  
「・・惜敗・・・党本部を預かる一人として責任の重大性を痛感・・」
昭和24年2月20日
 
W-H-44
 
羽生三七の書簡             小虎宛 
入院したが衰弱甚だしいので手術は延期となり今日退院、自宅で静養の旨。
昭和24年4月6日
 
W-H-45

 
上条愛一の書簡             小虎宛
4月12日から16日ころまでは大阪方面へ出張、それ以外は在京の予定。ご上京の節は細田綱吉とともに会談致したき旨。
昭和24年4月6日夜

 
W-H-46
 
加藤シズエ秘書国谷まち子の書簡     小虎宛
松本市にての講演会5月10日夜でいかがか。至急返事を。
昭和24年4月26日
 
W-H-47
 
加藤シズエの葉書(品川区小山町)    小虎宛
「御地にて・・ご配慮いただき・・盛会に終り・・お骨折りの賜・・」
昭和24年5月21日
 
W-H-48
 
加藤シズエの葉書            小虎宛
「労働組合を通じての器具(産児制限?)お申し越しの件、是非あなた様のところに出張所のようなものをお付けになられていちいちこちらからお送り致さないで、一度において下さいましたら甚だ幸いと存じます・・・」
昭和24年5月26日
 
W-H-49 平田源重の書簡             小虎宛           昭和22年3月19日
W-H-50 今村等の葉書               小虎宛          昭和22年6月26日
W-H-51
   
芳川周治の書簡             小虎宛
追放解除の可能性を喜ぶ         
昭和23年5月9日
W-H-52
   
平田源重の書簡             小虎宛
追放解除の可能性を喜ぶ         
昭和23年5月16日
 
W-H-53
   
楯正次の書簡              小虎宛
追放解除の可能性を喜ぶ         
昭和23年5月8日
W-H-54
 
黒岩市兵衛の書簡            小虎宛
追放解除の可能性を喜ぶ絵 
昭和23年5月20日
 
W-H-55
 
山名義鶴の葉書             小虎宛
追放解除を喜ぶ。河上、河野、杉山、今村の脱落を悲しむ。
昭和23年5月22日 
 
W-H-56
  
清水重雄の書簡             小虎宛
追放解除の祝い                 
昭和23年5月21日 
   
W-H-57 楯正次の書簡              小虎宛               昭和23年6月3日
W-H-58
    
北沢忠三の書簡             小虎宛
追放解除の祝い                  
昭和23年5月23日
           
W-H-59
    
日本社会党長野県支部連合会の書簡    小虎宛
追放解除の祝い                 
昭和23年5月24日
           
W-H-60
    
中村高一の葉書             小虎宛
追放解除の祝い                 
昭和23年5月28日
           
W-H-61
 
小口晴雄の書簡             小虎宛
追放解除の祝い                 
昭和23年6月1日 
 
W-H-62
 
金内一美の書簡              小虎宛
追放解除の祝い
昭和23年5月31日
 
W-H-63

 
電報                   小虎宛
加藤勘十     昭和24年3月16日、5月7日(2通)
森戸辰男     昭和24年5月12日     


 
(昭和25年−36年 この間の書簡見当たらず)  

W−I(隠 退 後)
W-I-1

 
山名義鶴の書簡(小金井市貫井南町)   小虎宛 
「これから東京には遠のく事になろう。こんど上京したら是非知らせてくれ。めしでも喰いながら、話そうではないか。・・・」
昭和37年7月10日

 
W-I-2
 
小穴聡の書簡(片端の屋敷の旧所有者初代松本町長菅谷司馬の子孫、直江津市)     
                    小虎宛 
「過日は突然参上 ご厚遇を賜り感銘深く存じます。・・今般誠に図らずも老母(八六歳)の生家をそのままこの目で見ることのできましたことはたとえようない驚きに似た喜びでございました。しかも住む方が尊堂と承り、二重の喜びでございました。・・・翌日豊科町南穂高踏入の亡父の墓に詣り、その翌日帰路松本の郵便局におります菅谷の二男慈雄を訪ね、子細を語り共々喜び合いました。・・」
昭和38年9月2日
 
W-I-3
 
赤羽幾一の書簡(東京都中野区)     小虎宛(信大病院丸田外科)
「・・病院からのお手紙でちょっと驚きましたが、手術は済んだご様子、経過もいいようでなによりと思います。・・・小学校のとき作文の時間に先生は一休和尚の『正月は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり、目出度くもなし』の歌を教えてくれた事を覚えて居ます。・・・」
昭和39年12月29日
 
W-I-4
 
岡林次郎の書簡(洲本市)        小虎宛 
夏に暴風見舞いをもらった礼が遅れたこと、昭和35年にひどい目まいで倒れたこと、弁護士の仕事に忙しいこと、旅行はできないから、来遊は歓迎、岸井・山名が一緒ならどんなに愉快かなど。
昭和39年12月31日
 
W-I-5
 
細田忠四郎の書簡(大津市)       小虎宛(信大病院丸田外科)
「・・・若かりし頃とは異なって、何分七十歳を越えてマア言うなれば生きていくのが精一杯だから、そう肉がもりもり上がって来ないのは当然だ。肉など上がらずに排膿が逐次少量となり停止するようになることを祈っている。矢張り悪い所を安静にすることが大必須要件だから辛気臭くても静かにしていることだ。幸い自叙伝を執筆中だというから打ってつけの良い仕事だと思う。・・・三高時代、京都の尚志社の生い立ちなどは正に一小冊子になるだろうと思う。・・・」
昭和40年1月9日
 
W-I-6
 
細田忠四郎の葉書            小虎宛 
1月17日行われた京都尚志社の会の模様を報ず。
昭和40年1月20日
 
W-I-7
 
羽生三七の葉書             小虎宛
信毎の記事を読んで「あの記事の通りです。過ぎし日を想起すること切なるものがあります。」
昭和40年1月22日
 
W-I-8
 
細田忠四郎の葉書            小虎宛
「信毎の『みんな20歳(18)』半生の縮圖」のようなものを拝読した。労働運動の黎明期の活躍ぶりが正に手にとるように偲ばれる。・・あれで骨格はできあがっいる。・・枝葉末節を付け加えたら大部のものになるだろう。・・・寝ている間に筆を執ってまとめるがよい。・・」
昭和40年1月25日
 
W-I-9
 
内田佐久郎の葉書(小金井市)      小虎宛
「二月四日に阿部磯雄先生の会が総同盟であるようですが、ご上京になりませんか。  ・・昨年来綿引君より依頼で日労党、組合同盟の話を私なりに『同盟』に書いてみました。・・」
昭和40年1月30日
 
W-I-10
 
上条愛一の絵葉書(田無町)       小虎宛
「来る五月九日ころ松本へ出掛ける予定でありますのでその節お訪ね致したく楽しみにしています。」
昭和40年5月3日
 
W-I-11
 
赤羽幾一の書簡             小虎宛
九州旅行のため山名の葬儀に出席できなかったことなど。
昭和42年3月3日
 
W-I-12
 
今村等の書簡(長崎市)         小虎宛
「山名兄が死んで淋しい思い。・・・長崎に一度ご來遊あれ・・」
昭和42年3月21日
 
W-I-13

 
山名晴彦(小金井市)の挨拶状            
山名義鶴明治24年9月17日生、昭和42年2月26日没、法名 慶雲院殿慈光義鶴大居士の四十五日挨拶 
昭和42年4月15日

 
W-I-14

 
ヘンリー・スミス(ハーバード大学大学院博士課程・東大社研外国研究員)の書簡   
                    小虎宛                  
面会依頼(邦文)
昭和42年3月9日

 
W-I-15
 
ヘンリー・スミスの書簡          小虎宛
「四月七日にお目にかかりたい。・・・」(邦文)
昭和42年3月29日
 
W-I-16
 
ヘンリー・スミスの書簡          小虎宛
4月25日松本着11:57で訪問したい。(英文)
April 18, 1967
 
W-I-17
 
ヘンリー・スミス 須美寿 遍理(小虎の贈り名)の書簡     小虎宛
松本で過ごした4日間への礼状 帰米までに再度訪問させてほしい旨(英文)
May 3, 1967
 
W-I-18
 
ヘンリー・スミスの書簡(写真同封)    小虎宛
京都での資料収集のことなど (英文)

 
W-I-19
 
ヘンリー・スミスの書簡          小虎宛      
8月15日11:57松本着で友人二名と訪問したい。(英文)
August 7,1967 
        
W-I-20

 
ヘンリー・スミスの書簡          小虎宛      
8月17日みすず湖で泳ぎ、バスで美ヶ原に登り、またバスで降りて急行に間にあった。歓待に感謝。(英文)
August 18,1967 

 
W-I-21

 
ヘンリー・スミスの書簡         小虎宛       
京都で時代祭りを楽しんで帰京した。帰国までに松本に伺いたいが時間が採れない。もしご
上京されることがあれば、お知らせください。(英文)
Oct 27,1967

 
W-I-22
   
上条愛一の書簡(日本労働者教育協会)  小虎宛              
山名義鶴さんをしのぶ会(6月17日13時三田会館三階佐渡)案内の送付   
昭和42年6月13日
 
W-I-23
   
   
今村等の書簡(長崎市)          小虎宛             
「山名の偲ぶ会で会えず残念。・・今度の党の大会で民社党も新旧入れ替え、西村春日ラインが構成なれりという小僧共の喜びそうな体制ではあるが、民社の伸びそうな要素はどこにもない。小生も早々に政治から足を洗いたい。」        
昭和42年7月7日


 
W-I-24
岡林次郎の書簡(洲本市)        小虎宛             
山名の一周忌記念出版に書くつもりだったが書けなかったこと、山名の言行には自分だけが知っていることがあるのに、それをお伝えしなかったことは心残りである。
皆さんに僕のお詫びを伝えてくれ。                     
昭和43年3月31日
 
W-I-25
 
伊藤清の書簡(千代田区駿河台)     小虎宛  
「・・私は別紙序文案の如き趣旨と生涯の思い出を綴って近く出版する心組です。・・大兄には三高・大学・ドイツ留学時代を通じて、常にご指導くだされ因縁浅からざるものがあります。そこで私に対する感想を書いて頂いてこの本の序文に代えれば、本の意味が一入深まるものと思われます。・・・」                         
昭和43年5月26日
 
W-I-26
   
   
伊藤清の書簡              小虎宛    
「・・・私の一生の運命に強い影響を与えられた辱知諸君に夫々のご感想を書いて頂いて回顧録の幅と深さを増加させたいと存じ・・・」             
昭和43年7月17日

 
W-I-27
 
上条愛一の書簡             小虎宛    
『山名義鶴の記録』出版計画概要報告と同書の題字を棚橋に揮毫するよう依頼したもの  
昭和43年7月17日
 
W-I-28
   
   
伊藤清の書簡  小虎宛                           
「長文の玉稿拝読蒼茫五十余年 大兄の棲まれた修学院の寓居に、本郷の下宿に、しばしばお邪魔して勝手な熱を吐いたのは昨日のやうでもあり、百年もの前のようである。・・・・」
昭和43年7月24日

 
W-I-29

 
細田忠四郎の書簡(大津市)       小虎宛              
「・・七月以来ネフローゼ(腎臓病)で寝たり起きたりです。体重45kg弱っています。
・・・尚志社記念碑建設資金納入しておきました。・・・」         
昭和43年9月5日

 
W-I-30
   
   
今村等の葉書(長崎市)         小虎宛              
「上条君の死は貴兄にとっても力落としと存ずるが、たれよりも僕はなさけなく思うている。・・・」                            
昭和44年2月24日

 
W-I-31
 
今村等の書簡              小虎宛              
「自伝拝受しました。・・・上条兄は・・二月五日長崎の自宅で会い十三日に帰途につき十九日死とはアット息つまる思いで夢のまた夢のごとし。・・僕の人生哲学は五十六十は鼻たれ小僧 黄金の社会は八十才からと決定している。・・貴君も元気を出して長生きすべく気分転回に九州に下九しなさい。」  
昭和44年3月3日?
 
W-I-32
   
沼田政次の書簡(経済政策研究協会 港区赤坂)小虎宛            
『現代の政治』(河上派)への寄稿依頼                   
昭和44年6月2日
          
W-I-33
   
伊藤清の書簡              小虎宛              
自叙伝の近く刊行につき進呈すべき人を列挙してほしい旨。          
昭和44年7月12日
         
W-I-34
   
伊藤清の書簡              小虎宛              
 W-I-33と同様の依頼                           
昭和44年8月12日
          
W-I-34'
   
   
伊藤清の葉書              小虎宛              
「ご令息東京都会議員にご当選の由、お慶び申し上げます。『明治精神に生きる』・・ご令息にも一冊進呈致したく・・・」                 
昭和44年8月16日

 
W-I-35
   
伊藤清の書簡              小虎宛              
序文を書いてくれた人のうち4人が他界したこと。正誤表の送付。       
昭和45年8月1日
 
W-I-36
   
   
今村等の葉書              小虎宛             
「坂本勝から手紙が来て棚橋が淡路に来たが、俺のところはスッポヌカシて帰った。
 けしからん奴だと言って来た。」                     
昭和45年8月

 
W-I-37

 
赤羽幾一の葉書(中野区)        小虎宛              
「・・・小生去年の秋から今年四月まで入院生活をしました。やっと健康旧に復し、自適の生活をしております。・・・」                    
昭和45年8月10日

 
W-I-38
   
北原名田造の絵葉書(長野県駒ヶ根市長) 小虎宛              
秋にロープウエイ会社常務の小平善信君とご来訪を待つ旨。           
昭和45年8月24日
         
W-I-39
   
細田貞子の書簡(杉並区荻窪)      小虎宛               
訪問御馳走になった礼と写真送付の旨。                    
昭和45年11月5日
          
W-I-40
   
   
赤羽多けの書簡(幾一の妻)       小虎宛               
「・・主人生前から此れ迄になったのは棚橋先生のおかげだとお噂致し感謝申し上げていました。・・・」                           
昭和?年11月29日

 
W-I-41
   
   
岡林次郎の書簡(洲本市)        小虎宛               
自分は健康、妻が昨年乳癌で手術、しかし予後良好など。同年3月14日、4月4日、12月19日の贈答の書簡あり。                     
昭和46年2月20日

 
W-I-42
   
今村等の葉書              小虎宛               
「民社も春日一幸が党首ではナンセンス。・・私も信州に一度行きたいと思うている・・」
昭和46年9月2日
 
W-I-43

 
細田忠四郎の葉書            小虎宛               
「中日新聞の『思い出の人を語る』で棚橋の記事を読んだ。正月流感で五月末まで入院。脚腰の訓練に努めている。・・・」                   
昭和46年10月25日

 
W-I-44
 
Henry DeWitt Smith * Princeton Avenue,Box 69 Rocky Hill,N.J.08553 の年賀状 
                    小虎宛      
1971年12月28日
 
W-I-45

 
今村等の葉書              小虎宛   
「残暑見舞ありがたし。ご老人に長崎においでなさいということは無理かと存じますたい。わしの方から信州に出かけますばいた。・・・」
昭和47年8月29日

 
W-I-46
   
曽祢益の書簡(活字印刷)        小虎宛              
「敗戦の跡を省みて」                           
昭和47年12月24日
           
W-I-47
   
阪本勝(芦屋市)の葉書         小虎宛              
「・・山名祭には閉口している。なんとか無理してでも拾万円ご寄進くださらんか。・・」
昭和48年1月11日
 
W-I-48
   
麻生良方の絵葉書(新宿区・自筆画の印刷コモ湖畔)  小虎宛        
第三の人生への出発を期す旨。                       

昭和48年1月31日
W-I-49
   
山名義鶴の葉書             小虎宛              
病気見舞い                                
昭和40年1月8日 
 


X ノート類

X−A 松本中学時代
V-A-1 「初等幾何学(平面の部)(明治37年暑中休暇ヲ利用シ之ヲ作ル)」とある。  
V-A-2 (composition K.Tanahashiとあるノート)地理が10頁ある。 緑の表紙
V-A-3 アメリカ大陸の地理のノート−教科書の筆写か。 茶色の表紙
V-A-4 ノート 前半は幾何、後半は代数の計算  幾何棚橋小虎と書かれている
V-A-5 アジアの地理・国文法・生物・日本史が記入されているノート 黒製本のノート1
V-A-6  唱歌の歌詞が書かれているノート 黒製本のノート2薄い
V-A-7  英語の学習ノート       明治34年10月とローマ字表記
V-A-8  地理ノート 倉科庄平先生述             博物・地理とかかれている 
V-A-9  国文・漢文ノート          西第四年生棚橋小虎と表記 
V-A-10 英語書取張 明治37−38年
V-A-11 日本歴史筆記のノート  
V-A-12 数学の計算ノート     
V-A-13 明治35年漢文控ノート  
V-A-14
 
見開きに改訂 外国新地理 筆記 と書かれたノート
(下巻とあり、ヨーロッパ州の分 ノート末に万国史筆記あり)

 
 
X−B 三高時代のノート
V-B-1 V-B-2 V-B-3 西洋史中村教授全3冊と書かれたノート
同 上
同 上


 

X−C 時期不明のノート
V-C-1 倫理学筆記・作法筆記と表紙に書かれているノート  


Y 辞  令
Y-1 棚橋小虎 司法官試補ヲ命ス 大正六年八月六日  司法省
Y-2
  
司法官試補 棚橋小虎 東京司法裁判所及同検事局竝東京区裁判所及同検事局ニ於テ
事務修習スヘシ
大正六年八年六日  司法省
 
Y-3 司法官試補 棚橋小虎 東京区裁判所検事代理ヲ命ス 大正七年四月三十日 司法省
Y-4 司法官試補 棚橋小虎 東京区裁判所検事代理ヲ免ス 大正七年九月二日
Y-5 司法官試補 棚橋小虎 依願免司法官試補 大正七年十月九日  司法省
Y-6 松本市片端町一六四番地 棚橋小虎 長野県労務調停委員ヲ委嘱ス 昭和二十年十一月二十六日長野県
Y-7
 
棚橋小虎殿 当選告知書
昭和二十一年四月十日執行衆議院議員選挙ノ結果長野県選挙区ニ於テ衆議院議員ニ
当選ス
仍テ衆議院議員選挙法第七十二條第一項ノ規定ニ依リ及告知候也
            衆議院議員選挙長野県選挙区選挙区長  物部薫郎
昭和二十一年四月十四日
 
Y-8
 
棚橋小虎 斡旋員候補者を委嘱す
 
昭和二十一年十一月十三日
長野県地方労働委員会
Y-9
 
棚橋小虎 斡旋員候補者を委嘱す
 
昭和二十四年十月一日
長野県地方労働委員会
Y-10  (欠番)                                   
Y-11
 
A第二二七号 確認書 住所松本市大字北深志片端町 棚橋小虎
 右の者は、その提出した昭和二十二年勅令第一号(公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令)第七條第一項の調査表により審査をしたところ、昭和二十一年一月四日附連合国軍最高司令官覚書公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件に掲げる条項に該当する者でない者であることを確認する。 
昭和二十三年四月二十八日  
内閣総理大臣
 
Y-12
 
棚橋小虎 監査委員に任命する   
                           
昭和二十四年七月三十一日
長野県知事 林 虎雄
Y-13

 
参議院地方選出議員当選証書
棚橋小虎 右は長野県において参議院地方選出議員に当選したことを証明するためここに当選証書を附与する 
昭和二十五年六月九日
長野県選挙管理委員会委員長 
矢ヶ崎賢次


Z ベルリン大学学生証

Z-1 ベルリン大学の学生証  


[ 棚橋小虎に関係の深い人物の伝記・記念論集など

[−A 単行本

[-A-1 『社会正義のために』浅利順四郎著   編集兼発行人 北岡寿逸       498頁 昭和11年10月
[-A-2 『麻生久伝』河上丈太郎編著      麻生久伝刊行委員会         542頁 昭和33年8月
[-A-3 『黎明』麻生久著           新光社                   大正13年3月
[-A-4 (欠番)  
[-A-5  『濁流に泳ぐ』麻生久著        社会思想社                昭和28年
[-A-6  『続 労働運動一夕話』今津菊松著   全繊同盟兵庫県支部教育宣伝部  昭和30年
[-A-7  『岡村千馬太先生』高橋吉雄・金井虎雄編発行                173頁 昭和42年3月
[-A-8  『回顧と展望』片山哲著        福村出版                1967年2月
[-A-9  『上條愛一 その人と歩み』滝田 実(発行者代表)             208頁 昭和44年12月
[-A-10 『労働運動夜話』上條愛一著      一燈書房              昭和31年
[-A-11 『菊川忠雄−その思想と実践−』    菊川忠雄追悼出版委員会   昭和31年9月
[-A-12 『岸井壽郎』私家版                       昭和47年
[-A-13 『日本の労働運動』古賀 進著                  大正13年
[-A-14 『野溝傳一郎』野溝傳一郎先生顕彰会編         甲陽書房        昭和37年8月
[-A-15 『ある社会主義者 羽生三七の歩いた道』石川真澄    朝日新聞社       1982年
[-A-16 『松岡駒吉伝』中村菊男発行編纂     松岡駒吉伝記刊行会         409頁 昭和38年8月
[-A-17 『火の鎖 筑豊の労働運動に賭けた生涯』光吉悦心著   河出書房新社     昭和46年
[-A-18 『三輪寿壮の生涯』三輪寿壮伝記刊行会 代表蝋山政道  中央公論事業出版      昭和41年
[-A-19 『山名義鶴の記録』上條愛一発行    山名義鶴の記録刊行会        185頁 昭和43年9月
[-A-20 『東京帝大新人会の記録』石堂清倫・竪山利忠編     経済往来社  昭和51年5月
[-A-21 『追想 棚橋小虎』棚橋小虎追悼集刊行会編集・発行             234頁 1974年12月
[-A-22
 
『小虎が駆ける 草創期の労働運動家 棚橋小虎自伝』                           棚橋小虎著  毎日新聞社発行            374頁 1999年12月
 
[-A-23 『第三高等学校 弁論部部史』似玉堂                     231頁 1935年12月7日

 
[−B 論 文 等

[-B-1
 
上條宏之「棚橋小虎 日本近代労働組合の基礎をつくる
       (松本深志高等学校同窓会『深志人物誌』)        239〜254頁
昭和62年1月
 
[-B-2

 
朝日新聞社『国際労働会議と日本』 序文吉野作造、執筆は関口泰と浅利順四郎
参考資料中に「労働代表資格に対する抗議及之に対する総会の判定」収録
(部分コピー 原本は北海道大学図書館蔵)
大正14年4月15日

 


\ 日立事件公判資料

\-1 日立鉱山事件 公務執行妨害・騒擾 (その1)  
\-2 日立鉱山事件 公務執行妨害・騒擾 (その2)  
 
] 録音テープ

X-1 参議院地方区立候補政権放送テープ(大リール、CD) 昭和31年6月23日,6月29日、7月7日放送
X-2
 
小虎述のテープ 「松本藩と棚橋」(テープ頭だし緑)スピード4.75
         「外国行き」 (テープ頭だし赤)    (小リール、DVD)
1965年夏
 
X-3
 
小虎放送テープ、CD 1968年9月8日放送
@「ホーチミンとの出会い」(小リール)スピード9.5   
プレイボーイクラブ  ホーチミン特集 

 
A松岡洋子のインタビュー             
 
1963年放送?
 
Bソビエト革命40周年記念大会で  TBS 小山雄二のメモ付 1957年
X-4

 
小虎家族との団欒のテープ (小リール、DVD)
(孝子法要のため 孝子の妹君子の松本来訪に際して)テープ頭だし青
同 食事の情景                  テープ頭だし赤  
?年夏

 
X-5
 
棚橋小虎・松尾武夫対談「東大 新人会の初めと終わり」
国立市富士見台団地の牛山宅にて(テープ、DVD)          
1970年9月28日      
 


]T 写真  

XI-0  棚橋小虎 顔写真 
 
]T−A 中学・三高・東大時代
XI-A-1

 
披雲会(北蛮)大会                          
中列左より2人目小虎・3人目高木格(従弟)
前列左より3人目関口健(従兄)
1905年8月
    
 
XI-A-2
 
中学校卒業に際し尚志社松本寄宿舎生記念写真             
上段左より2人目栗田鑑三・3人目田中小平太・5人目細田忠四郎
後より2段目左より5番目中村勉・前より2列目左より6番目三原林一
前列左より6番目棚橋小虎・11番目石田新一郎
1906年3月
 
XI-A-3
   
   
由之社主催の齋藤・吉原2君送別会                 
後列左より竹内・平山・福山・大池・三沢・細田    
前列左より華山・棚橋・吉原・齋藤・山崎・西田    
1911年6月 
     
     
XI-A-4

 
三高 縦横会のメンバー                      
後列左より麻生久・原田福五郎・棚橋小虎 
前列   行宗貞隆・山名義鶴・岸井壽郎
     
1911年6月
 
XI-A-5
   
京都尚志社                            
後列左より山名・細田・前列左より棚橋・齋藤・赤羽   
1912年7月
     
XI-A-6

 
家族の写真  
後列左より小虎・長兄亀代太郎・三姉芳         
前列左より1人おいて母小枝・次兄萬劫次郎
1914年頃

 
XI-A-7 松本中学校の後輩とともに登山 3列目左端白夏服が小虎       1914年夏

]T−B  友愛会・外遊時代
XI-B-1
   
   
鈴木文治会長講和会議出席のため渡欧中の友愛会本部    
後列左より1人おいて麻生久・山口正利・棚橋小虎・可児義雄  
前列久留弘三・野坂参三・北沢新次郎・松岡駒吉           
1919年

 
XI-B-2 婚約したころの岸井孝子                      1919年4月頃
XI-B-3 足尾鉱山争議記念絵葉書1 棚橋来山 通洞駅の光景           1919年10月
XI-B-4 足尾鉱山争議記念絵葉書2 組合旗とビラ                1919年10月
XI-B-5 足尾鉱山争議記念絵葉書3 小瀧方面示威運動              1919年10月
XI-B-6

 
全日本鉱夫総連合時代                    
後列左より関家博・加藤勘十・三輪壽壮・坂口義治・門田武雄 
前列左より麻生久・棚橋小虎・佐野学・坂口鶴治       
撮影は1922年春

 
XI-B-7
 
足尾銅山大正10年4月大争議記念写真
前列左端石山寅吉・2人おいて棚橋小虎・麻生久      
撮影は1922年春
 
XI-B-8 労働総同盟友愛会 東京連合会のメンバー          撮影は1922年春
XI-B-9

 
棚橋の渡欧を記念して 友愛会本部前にて          
後列左より3人目赤松克麿・2人おいて上條愛一・
前列松岡駒吉・鈴木文治・棚橋小虎・麻生久・野坂参三・加藤勘十・山本懸蔵
1922年5月24日

 
XI-B-10 ベルリンNassuische街のapartmenntの小虎と家主Bockhacker夫妻  1922.Sept.11
XI-B-11 山崎義男と小虎 ポツダムにて                  1922年秋
XI-B-12 ベルリン 1922年秋
XI-B-13 棚橋小虎のベルリン大学学生証 1923年春

]T−C 淡路時代
XI-C-1 淡路の海辺にて 小虎夫妻と長男泰助・二男雄三            1924年 夏
XI-C-2 組合同盟会長時代  第1回総選挙の応援演説中の棚橋          1928年2月
XI-C-3 家族 後列小虎と第5子妊娠中の孝子 前列左より郁子・五郎・雄三・泰助     1933年 春
XI-C-4 長女郁子と次女鞠子                         1934年 夏

]T−D 松本 戦前期 
XI-D-1 松本・片端の棚橋自宅 武家屋敷門 (松本藩家老職初代松本町長菅谷司馬旧宅   )  
XI-D-2  妻 孝子松本にて                            1937年4月
XI-D-3 小虎の3男五郎の海軍兵学校入学を記念して 左から鞠子・雄三・小虎・五郎・郁子   1943年10月1日
 
]T−E 戦 後 議員時代
XI-E-1  楢橋 渡氏 松本の棚橋宅来訪                      1948年5月23日
XI-E-2  参議院議員に長野県地方区で当選を喜ぶ棚橋 自宅で            1950年6月5日
XI-E-3  初めて象に乗る インド訪問の一齣                    1953年8‐9月
XI-E-4  台湾訪問 蒋介石総統の晩餐会に議員団として招かれる           1955年8月
XI-E-5  参議院議員再選を祝う 前列左から羽生三七氏・棚橋・下平正一氏       1956年7月
XI-E-6  選挙戦をねぎらって 左より下平正一氏 棚橋 泰助父子          1956年7月
XI-E-7  松本に浅沼稲次郎氏を迎えて 左より上条愛一氏・棚橋・浅沼稲次郎氏     1957年
XI-E-8  民主社会主義青年連合松本支部結成大会 松本市婦人会館          1960年7月24日
XI-E-9  参議院大蔵委員長時代 葉山御用邸にて 左より3人目市川房江さん     1962年4月23日
XI-E-10 政界引退レセプション・演台の右 棚橋 松本市県的会議場         1962年11月14日
 
]T−F 松本 隠退時代
XI-F-1  棚橋泰助家族と旧盆の墓参に出かける。松本自宅前庭にて      1962年8月
XI-F-2 家族とともに 新宿中華料理店にて                1963年暮 
XI-F-3 夕食後のひととき                        1966年3月
XI-F-4

 
東大新人会 50周年記念会 
中央棚橋・(右へ)渡辺悦次・1人おいて金俊淵・森戸辰男・ヘンリ−スミス・高津正道・林茂・田中稔男・吉川実治・宮崎達・田中豊稔・木佐森吉太郎・角田義平治・淡徳三郎
1969年1月

 
XI-F-5  棚橋の筆になった碑 「尚志社の跡」の除幕式で  1969年4月
XI-F-6  孫たちと 82歳の誕生日を祝う                   1971年1月14日 
XI-F-7 上京の折、子や孫が集う                     1972年1月
XI-F-8 最後の写真 伊豆 稲取にて 長女郁子と                 1973年2月 
XI-F-9 ヘンリー・スミス氏より贈られた写真8葉                 1967年5月


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