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所蔵図書・資料の紹介

大原社会問題研究所の戦前資料について

二村 一夫   


 大原社会問題研究所は、創立以来、社会問題に関する内外の図書、資料の蒐集を、その主要な事業の一つとしてきた。創立は、1919年2月9日。以来、今日まで、半世紀近い期間に蒐集された図書、資料は、18万冊をこえている。だが、大変残念なことに、今日、研究所に残されているのは、その6分の1強、約3万数千冊でしかない。しかも、その大半は戦後に蒐集されたものである。経済学関係の図書を主体とした8万2417冊は、1937年2月、研究所の東京移転に際して、大阪府に譲渡され更に、約7万冊が、1945年5月、米軍の空襲により焼失してしまったのである。焼け残ったのは、堅牢な土蔵に収められていた図書、資料約1万冊だけであった。もっとも、この焼け残った1万冊は、数こそ多くはないが、質的には、戦前に蒐集した図書、資料の精髄ともいうべき部分であった。その点では、まさに不幸中の幸というほかはない。

 その後かなりの期間、この図書、資料は、未整理のまゝ土蔵の中で眠っていた。整理に必要な人手と場所が得られなかったためである。それでも、十数年ほど前から、細々と資料整理がはじめられた。人手と場所の問題は、依然として解決していなかったから、作業は遅々として進まなかった。しかし、1960年、当研究所を中心に行なった共同研究「労農運動における社会民主主義の研究」に対し、文部省科学研究費の交付を受けたことを機に、整理はようやく軌道にのり、最近になって焼失をまぬがれた図書、資料の全容もほゞ明らかになってきた。そこで今回は、資料整理の中間報告をかねて、戦前の図書資料について、ごく大まかな紹介をしてみたい。これ迄にも、農民運動関係の原資料、機関紙・誌と通信類の一部、プロレタリア関係文献、裁判記録、洋書の一部については目録を発表しており、労働組合、農民組合の原資料についても資料集を刊行している。しかし、いずれも、所蔵資料のごく一部を紹介したに過ぎず、また目録だけでは、所蔵資料の特徴など、わかりにくいかとも思われる。従って、ここでは、なるべく所蔵戦前資料の全容について紹介したいと考えている。
 また、この機会に、図書、資料のそれぞれが蒐集されたいきさつについても、出来るだけ明らかにしてみたい。ただ、戦前の研究所について直接知るところは何もないので、『大原社会問題研究所30年史』や久留間鮫造前所長の「大原社会問題研究所とその蔵書」(読書展望第7号)、「学究生活の思い出」(思想第349号、第350号)などの受売りに終ってしまうかも知れないが。
 さいわい、焼け残った資料のなかに、戦前、研究所の庶務会計主任であった鷹津繁義氏らが記録された事務に関する「日誌」26冊(1919〜1936年)、資料室主任、後藤貞治氏の「資料室誌」5冊、各年度の会計簿,図書台帳などがあるので、これらを参考に、図書資料の身許調べをしてみたいと思う。

 創立直後の研究所が、とくに力を入れたのは洋書の蒐集であった。1920年の秋には、櫛田民蔵、久留間鮫造の両氏が、図書蒐集のためにヨーロッパに派遣され、翌年には、森戸辰男氏もこれに加わった。久留間氏は主としてロンドン、櫛田・森戸両氏はベルリンに滞在して図書の購入にあたった。櫛田・久留間両氏がたずさえていった図書購入費は、4万5000円、そのうち英国の文献の購入についやしたのは約1万7500円、フランス2765円、アメリカ2330円、あとはすべてドイツ書の購入にあてられた。また、森戸氏は、宇野弘蔵、舞出長五郎両氏の協力を得て、1万1424円余を主としてドイツ書の購入に使っている。当時の5万6500円は、今の金に直してどれほどになるのか、一寸見当もつかないが、仮に1000倍としても5650万円である。おそらくこれを下らないものであったであろう。とくに、当時のドイツは第一次大戦後のインフレで、外貨をもった者には異常に有利だったから、実際には、これよりはるかに値打ちがあったに違いない。現に、今こゝに、森戸辰男氏がドイツで購入された図書についての会計簿があるが、インテルナチオナル・ビブリオテークの、マルクス『剰余価値学説史』全3巻4冊が3銭という信じ難い値がついている。同じ叢書のレーニン、ブハーリン、カウツキー、ラデックなどの本は、何れも1冊が1銭である。いくら廉価版でも、今なら300円や500円ではすむまい。仮に300円にしても、その間3万倍である。さすがに、マルクスの『新ライン新聞』は、これに比べればはるかに高いが、それとて21円60銭に過ぎない。そのほか、目についたものをいくつか拾いあげてみると、フォイエルバッハ『キリスト教の本質』初版、2円25銭、マルクス『ヘル・フォークト』初版、99銭、ドイツ社会民主党の機関紙『フォアヴェルツ』(会計簿では号数不明だが現在研究所にあるのは、1892年から1932年である)、261円23銭などがある。
 ただし、これは、いずれも1922年と23年の購入分で、マルクの価値が最も下った時点で購入したものらしい。1921年に櫛田氏が購入した図書は、これほど安くない。比較に便利なインテルナチオナル・ビブリオテークをとってみると、一部が40銭から62銭位はしている。また、幣制改革後の1924年に森戸・宇野両氏が購入した図書になると桁がちがって、ほとんどが円の単位になっている。なお、23年に購入した図書の一部が税関で差押えられ、翌年、原価の20倍から40倍程度の買戻金(総額で2374円余)を支払った記録が残されている。これは、おそらく1923年のレンテン・マルクヘの切替にひっかかってしまったものと思われる。
 この当時、ドイツで入手した図書のなかには、数多くの貴重書が含まれているが、なかでも、マルクス『資本論』第1巻の初版は有名である。『資本論』第1巻の初版は、日本に少くとも14部はあるとのことだが、当研究所の蔵書は、著者がクーゲルマン博士に贈ったもので、マルクス自筆の献呈辞が記されている貴重書中の貴重書である。これは、1921年に、櫛田氏がハスバッハ文庫約1400点(冊数はこれより多い)の1冊として入手したもので、18円20銭であった。また、入手したのは、後のこと(1927年)だが、統計学の古典で、世界に3部しかないといわれるズユースミルヒの『神の秩序』の初版本も稀覯書の第1として、研究所の蔵書について語る時には、落すことのできないものである。なお、これを入手したいきさつは、有沢広已氏の回想記『学問と思想と人間と』113頁以下に詳しい。

 無政府主義関係文献の世界的コレクションとして広く知られたものに、エルツバッハー文庫がある。これは、アナーキズム研究のスタンダードブックとされている『無政府主義論』の著者であり、無政府主義文献の蒐集家でもあったベルリン商科大学のパウル・エルツバッハー教授から櫛田氏が譲り受けたものをもとに、後に、森戸氏が同教授に依頼して補充したものである。(エルツバッハー文庫の購入費は第1回の956冊分にたいし8911円59銭、補充分について2436円42銭、計1万1348円である。)無政府主義団体の機関紙などの定期刊行物103種のほか、ウイリアム・ゴドウィン、マックス・スチルナー、ブルノー・バウアー、プルードン、バクーニン、クロポトキン、トルストイら約400名の無政府主義者あるいはそれに近い立場の人の著書、評伝など約1150冊、無政府主義者の参加した会議の記録更には宣伝ビラから楽譜まで集められている。なお、エルツバッハー文庫の詳細な内容は、『大原社会問題研究所雑誌』第7巻2〜3号に目録があるので、参照していただきたい。
 フォアヴェルツがあることは既に述べたが、その他にもドイツ社会民主党の機関誌『ノイエツァイト』『ゾチアルデモクラート』もかなりよく揃っている。機関紙類では、このほか、ナチ党の『フェルキーシャーベオバハター』、ドイツ共産党の『ローテ・ファーネ』『インテルナチオナーレ』、コミンテルンの『インプレコール』(英文・独文)『コミュニスト・インターナショナル』(英文・独文)などがある。

 主として、久留間氏が蒐集したイギリスの図書資料にも、貴重なものが数多くある。古い所では、レヴェラーズやディッガーズのものがある。まとまったものとしては、ロバート・オーエンの著作があり、オーエン自身がサインをした贈呈本もある。更に『コオペレイティブ・マガジン』『コオペレイター』『ニュー・モラル・ワールド』など、オーエン派の運動の機関紙も揃っている。チャーテイスト運動の資料も豊富で、ヘンリー・ヘザリントンの『プアマンズ・ガーディアン』などの定期刊行物のたぐいから、ウイリアム・コベット、ウイリアム・カーペンターらのパンフレット類まである。写真による複製ではあるが、第1インター総評議会の肉筆の議事録があることも、つけ加えておく必要があるだろう。アメリカのものは、余り多くないが、AFLの『アメリカン・フェデレイショニスト』が1900年から1938年まで一部を欠くだけで揃っている。

 このように、当研究所のヨーロッパ関係の蔵書は、1921年から24年にかけて、ドイツ、イギリスで買い集めたものを基礎に、その後、毎年約5000円程度の予算で買い足していったものであった。最終的に、どれほどのものであったかは、今一寸わからないが、1930年はじめでは、約5万冊余であった。(高野岩三郎「大原社会問題研究所」『社会科学大辞典』所収)現在残っている洋書は、約8000冊でしかないが、これまであげてきたような貴重書は、大部分、無事に保存されている。また、大阪府に譲渡された図書は、旧研究所本館が戦災で焼失したにもかゝわらず無事で、現在も、大阪府立図書館天王寺分館に所蔵されている。

 当研究所の蔵書は、現在なお整理作業の途中であるが、一部については(1880年以前の単行本、定期刊行物、1848〜49年ドイツ革命の宣伝文書、主として社会主義者関係の手稿および書簡のコレクション)、すでに欧文目録が作成されている。(A CATALOGUE OF SELECTED PUBLICATIONS AND MANUSCRIPTS IN THE OHARA INSTITUTE FOR SOCIAL RESEARCH,1960)
 しかし、書庫が手狭なため、現物の大半は新宿区柏木にある土蔵内に保管されていて、今なお利用不能な状態にある。〔付記−−本稿は1966年に執筆したもので、現在はここに紹介する図書・資料はすべて利用可能になっている。〕

 所蔵戦前資料のうちで、現在、もっとも整理が進んでいるのは、労働組合をはじめ、農民組合、無産政党、その他各種団体の機関紙誌類(もちろん日本の)である。右翼団体、消費組合関係の一部を除いて、大部分が利用可能な状態になっている。また所蔵目録も、ごく最近刊行された(法政大学図書館『法政大学逐次刊行物総合目録 人文・社会科学篇』)。研究所独自の目録ではないので、多少、利用に不便な点もなくはないが、現在まで所蔵を確認したものは、ほゞこれに網羅されている。また、この目録には、当研究所が所蔵する戦後の組合機関紙誌はもちろん、不完全なものであるが、戦前の欧文定期刊行物も収録されている。もう一つこの目録のいい点は、法政大学図書館にある協調会文庫所蔵の定期刊行物が一緒に収録されていることである。協調会文庫は、いう迄もなく、旧協調会の蔵書を継承したもので、社会運動関係の図書・雑誌が少なくない。しかも、大原研究所が労働組合に近い立場にあったのに対し、協調会は政府と経営者側に立っていたため、双方の蔵書があまり重複せず、むしろ補い合う関係にある。出来れば、目録だけでなく、実際の利用面でも両者の一元化が望まれる。

 話を当研究所の機関紙誌にもどそう。まず、その数だが、新聞約380種、雑誌約350種、計730種である。この730種という数は大変なものである。『日本近代史辞典』に附されている「大正以降労働運動・社会運動機関紙・誌一覧」(小山弘健氏作成)の収録紙誌数、約180種とくらべてみれば、その多さがわかっていただけると思う。もちろん、これだけで、戦前発行された労働運動、社会運動関係の機関紙誌を完全に網羅しているとはいえない。時期的にみると、1918年から1936年の間に発行されたものが大部分で、17年以前と37年以降のものは少ない。
 1917年以前のものでめぼしいのは、『週刊平民新聞』『直言』『光』『日刊平民新聞』などの明治期の社会主義新聞と、1916年に堂前孫三郎、阪本孝三郎、西尾末広ら職工組合期成同志会の機関誌として出された『工場生活』があるだけである。これは、西尾末広氏の所蔵本をゆずり受けたものらしく、表紙に西尾の印がおされている。)
 ついでにいえば、戦前の研究所が片山潜の『労働世界』を所蔵していたことは確かだが(1927年、当時の研究所長、高野岩三郎氏はモスクワで片山に会い『労働世界』の欠号補充を依頼している。『かっぱの屁』376頁)何故か残っていない。
 その他にも、研究所の「備付定期刊行物一覧」や会計簿などで購入していたことが確かでありながら、残っていないものがいくつかある。たとえば『種蒔く人』や『建設者』などがそれである。
 1917年以前のものが少いのは、研究所の創立が1919年であったことによるものであろう。一方、1937年以降の新聞・雑誌が全くないのは、焼けてしまったものと考えるほかはない。残されていた機関紙・誌は、すべて丈夫な書類袋に密封され、箱に詰められて土蔵に保管されていた。この作業は多分、1937年はじめ、研究所が大阪から東京へ移転した時に行なわれたものと思われる。移転後に購入した新開・雑誌は、焼失した研究室か書庫の方に置かれていたものであろう。
 1917年以前のものについては、最近、明治の社会主義機関紙をはじめ、『友愛新報』『近代思想』など覆刻版が相次いで発行されたため、かなり欠をうめることができた。しかし、37年以降のものゝ補充は、今後に残されている。
 補充といえば、現在あるものについても、欠号がかなりある。むしろ、欠号なしに、完全に揃っているものは、あまり多くないといった方がより正確かも知れない。かも知れない、などと大変あいまいな言い方をするのは、欠号の確認は、予想以上に困難な問題だからである。たとえば、一見して明らかに欠号があると思われるものでも、実際には、単に号数のつけちがいに過ぎない場合が意外に多い。また、発行された場合でも、発禁などで一般に配布される前に押えられたものも少なくない。場合によっては、次号で発売禁止の原因になったものを改めたり、除いたりして、殆んど前号と同じ場合がある。逆に、見かけ上は欠号がなくても、その間に号外が出ていて、事実上、欠号の場合もある。また、号数のつけ違いにより、同じ号に2種あることもあり、これらの場合に、欠号を確かめることは著しく困難である。こうしたケースは、いわば「例外的」だとしても、常に問題になるのは、最終号の確認である。組合の合同などによる終刊の場合は、終刊号と銘打って出されることが普通だから、確認は容易である。ところが、発行者に続刊の意志はあっても、財政難などでストップしてしまう場合となると、最終号を知るためには、当事者に直接ただすほかはない。戦前の運動機関紙誌の大半は、こうしたケースである。

 ともあれ、現在の所蔵機関紙誌が、種類の上でも、欠号の点でも、まだまだ多くの補充を必要としていることは確かである。だが、それでもなお、労働運動、社会運動関係の機関紙・誌のコレクションとしては、他に類のないものであることは疑いない。何よりも個人のコレクションとは異なって、研究所が、1919年以降、毎年毎年、日本労働年鑑を編纂するために蒐集したものであるから、主要な労働組合、農民組合、無産政党、社会運動関係の諸団体の機関紙誌は、ほぼもれなく揃っている。

 多少煩瑣にはなるが、以下、所蔵機関紙・誌名を列挙してみよう。なお、発行年・所蔵号数などについては、先に述べた『法政大学逐次刊行物総合目録』で見ていただきたい。

  1. 労働組合の主要全国組織
  2. 労働組合の産業別組織

  3. 単独労働統合(主要なもののみ)

  4. 農民組合
  5. 無産政党関係

  6. アナーキズム・自由聯合運動

  7. 社会運動

 以上、あげたところで、約130種、全体の約6分の1強である。それでも、労働組合・農民組合、政党の主要全国組織の機関紙・誌をほゞ完全に網羅していることは、わかっていただけたと思う。
 この項の最後に、こゝであげることができなかった約600種の特徴をあげておこう。

  1.  労働組合については、企業別あるいは地方的な小組合のものが少なくない。時期的には大正期が多く、産業別では海員関係の24種、印刷11種、官業14種などが目につく。
  2.  主要なものは既に列挙したが、アナーキスト関係のものが、かなりよくまとまっている。既にあげたものも含めて約100種、この機関紙・誌コレクションの中での比重も高い。但し、大部分は「一人一冊」的色彩の強い「三号雑誌」である。
  3.  地方的な労農・政治新聞ともいうべきものも約70種ある。発行地は、北は北海道の旭川から、南は奄美大島、沖縄まで、全国各地にわたっている。時期では、昭和初年が多く、○○大衆新聞、○○民衆新聞といった名のものが、目につく。
  4.  地方的な農民組合の機関紙も20種近い。
  5.  右翼団体の機関紙・誌は、現在整理中で、まだ完全につかめていない。今わかっているだけで20種以上ある。
  6.  大学新開もいくつかあるが、なかでも法政大学新聞は、その前身の『法政大学学友会報』の5号以降、ほとんど揃っている。
  7.  機関紙・誌ではないが、通信類25種がある。掲載している資料の出処が明らかでないこと、転載による誤記が多いことなど、資料としての信頼度は劣るが、他で見られない資料を、かなり豊富にのせている。なお、通信類の目録、通信類の性格をしめす資料を、既に『資料室報』第65号に発表しているので、参照していただきたい。

 機関紙・誌とならんで所蔵資料の双壁をなすのは労働組合、農民組合、無産政党などの原資料、千数百ファイルである。その内容は、きわめて多様で、労働運動、社会運動関係の諸団体が、その活動のなかで生み出したありとあらゆる文書が含まれている。
 原資料のうちごく一部は、戦後、赤松克麿氏、杉山元治郎氏、高山久蔵氏の所蔵のものを寄贈され、あるいは購入したものである。しかし、大部分は、戦前、後藤貞治氏を中心とした当研究所資料室が蒐集したものである。蒐集の方法は、大きくわけて3つあった。
 第1は、資料室のメムバー……後藤貞治、越智道順、萩原久興、庵原嘉雄、笠信太郎、木村定らの諸氏が、主要な組合の大会やメーデーなどに出張して、直接蒐集する方法である。関西地方で開かれる大会だけでなく、名古屋、東京、広島、九州まで出張している。
 第2、当研究所は、1920年以来、毎年労働組合調査を行い、また随時、消費組合調査、農民組合調査、労働学校調査、反社会主義団体調査を行ってきたが、その際、調査項目に関するアンケートだけでなく、各団体の資料の送付を依頼している。これに、こたえて送られてきた各団体の規約、綱領、大会資料などは、数の上では多くはないが、貴重なものが少なくない。
 第3、労働組合、農民組合、無産政党などの本部や地方聯合会本部などの所蔵資料、あるいは、運動関係者の所蔵資料を一括して購入する方法。原資料の大半は、これによって蒐集されたものである。購入状況は『日誌』『資料室誌』『会計簿』などによって、かなり詳細に知ることが出来るが、本部資料を購入しているのは、いわゆる中間派の組合・政党に多い。主な団体名と購入価格を、購入した年代順に列挙すれば次の通りである。

 このように中間派の組合、政党の本部資料を一括して購入し得たのは、戦前の研究所と日労党系の指導者とが、極めて密接な関係にあったことによるものであろう。即ち、当時の研究所長、高野岩三郎氏は、中間派の指導者、麻生久、河野密、三輪寿壮、山名義鶴、棚橋小虎の諸氏の東京帝大時代の恩師として個人的に親しかっただけでなく、公的にも、日本労農党、日本大衆党の委員長に就任を懇請されるほどの関係にあった。結局、高野氏は委員長には就任しなかったが、日本大衆党、全国労働組合同盟などの顧問となっている。この間の事情は『かっぱの屁』所収の「高野日記」に詳しい。一方、山名義鶴氏は、1926年まで当研究所の所員であったし河野密氏は1925年から1929年まで、嘱託として日本労働年鑑の執筆者の一人であった。更にまた、資料室主任の後藤貞治氏は、日本労農党の本部役員(政治部員、出版部員、国際部員など)であり同党の関西事務局員でもあった。同氏はまた、全国労働組合同盟でも調査部長として、中央委員会の一員であった。
このような関係があったからこそ、中央委員会や中央執行委員会などの肉筆の議事録や出席者のメモ、党員名簿、機関紙の発送原簿、会計簿や入・出金伝票、領収証の綴、さらには個人の書簡など、部外に容易に出される筈がない資料まで、入手することができたのであろう。
 一方、組合や政党の側からすれば、本部資料の譲渡は、自分達の活動の記録を安全、確実に保管してもらう意味があったにちがいない。もう一つの意味は−−この方が大きかったと思うが−−活動資金の獲得であった。高野日記、1929年12月12日の項には、次のような記述がある。

 「河野密、三輪寿壮二君来訪、同伴出宅、上野山下に行き一酌しつつ語る。日労党の資料買入に付依頼あり。後藤君と相談の上、相当の価にて購入すべきよう配意すべく約す。(後略)」

 慢性的な財政難にあえいでいた組合、政党にとって、50円から400円程度の収入は焼石に水であったかも知れないが。
 それにしても、戦前の研究所が、資料1枚につき5銭を支払っているのには、驚かされる。現在ではビラ1枚に50円を支払う力は、とうていない。
 もちろん、中間派の組合、政党だけから資料を購入した訳ではない。今わかっているだけでも、次の個入、団体から相当量の原資料を購入している。
(購入順)
 産業労働調査所(関東地方の各種資料)、原田実(社会運動資料)、藤岡文六(総同盟関係資料)、山辺健太郎(大阪府議選資料)、労農党大阪支部聯合会、田坂二郎(評議会資料、とくに大阪電気労働組合関係)、長尾新一郎(社会運動資料)、森脇甚一(司廚同盟資料)、伊勢幸太郎(立禁問題資料)大道寺謙吉(海員刷新会資料)、大阪金属労働組合・大石(ゼネラル・モータース争議資料)、湊7良(評議会、全協関係資料)、高瀬清(政治研究会資料他)、茅野真好(洋モス争議)、中村民部(全協、共産党関係資料)、国松照子(評議会資料)、佐野義雄(労農党、総評関係資料)、山口安二(無政府主義運動関係資料)。

 このほか、森戸辰男、細川嘉六、後藤貞治、越智道順、内藤赳夫、松山といった研究所員を介して購入し、出処が明らかでない場合が少なくない。また、先にあげた中間派の組合、政党の場合も、組合や政党の本部保存資料だけでなく、指導者が個人的に保存してあったものが少なくないと思われる。戦前、研究所が整理したファイルの表紙には資料の出処を記入してあったが、日労党関係の資料では、河野、日本大衆党、全日農などでは浅沼と記されたものが数多く見られたのも、これを裏付けている。

 これら原資料の整理は、もう10年以上続けられているが、何分にも厖大な分量であり、しかも多種多様な資料が含まれていることもあって、未だに完了していない。整理が容易に進まない原因の一つはご多分にもれず予算上の制約である。整理に必要な人手が得られないのである。しかし、それにも増して大きいのは、整理に必要な場所がないことである。いま、研究所は、図書、資料で完全に過飽和の状態にある。書架は、かなり前から一杯で、図書も資料も床に積み上げられている有様である。戦前資料を整理するためには、代りに戦後の図書資料を土蔵に移さざるを得なかったほどである。こうした中で、現在、資料整理に許されるスペースは、最大限、机2つである。これ以上では、たちまち研究所の他の業務に支障を来すおそれがある。ところで、この広さでは、機関紙・誌の整理はともかく多種多様な形式と内容をもつ原資料の整理は容易ではない。

 一方、とり扱う資料は、短いもので30年、長いものでは50年以上たっている。紙質や、保存状態にもよるが、補修を必要とするものが少なくない。なかには、一寸さわるだけで、ボロボロ欠け落ちるものさえあり、出来るだけ早く保存の方法を講じなければ、全くとりかえしのつかないことになるおそれがある。図書や機関紙類の場合には、少ないものでも数百部は発行されているであろうから、こゝで失われても、他に保存されている可能性は皆無ではない。しかし、肉筆の文書の場合には、このようなことはあり得ない。だが、現実には、資料の補修は、特に広い場所を必要とする(例えば、ノリが乾かなければ、重ねる訳にはゆかない)こと、また多くの時間を費す割に効果があがらないことなどから、今迄のところはむしろ補修を必要としない資料の整理を優先している状態である。何とかして場所と資金を調達して早急に整理を進め、いたみのひどい資料だけでもマイクロ・フィルムにおさめておきたいのだが。今のまゝでは、おそらく戦前資料の整理だけでも、最低10年はかゝるに違いない。その頃には、戦後資料が、同じ状態になってしまうおそれが充分ある。とくに、敗戦直後の資料の紙質は極めて悪いため、現在でさえ、かなりいたみが進行しているのだから。

 このように、原資料の整理は、まだまだ前途遼遠といわざるを得ない。だからこの10年で、事態がいくらか改善されたことも、また確かで、現在原資料の約3分の1強−−主として中間派の政党・労働組合のもの−−が、一応利用可能な状態になっている。

 次は、米騒動に関する資料約120冊について述べよう。これは、従来、研究者の間で「細川資料」としてよく知られたものである。しかし、この「細川資料」という呼び方は、誤りとはいえない迄も、若干不正確である。ともあれ、まず、こゝにある一冊の記録を見ていただこう。この第1ページには、次のように記されている。

 「大正15年6月当初当研究所に於て、大正7年8月殆んど全国に及んだ米騒動に関する資料を蒐集整理することになった。
以下の日誌は資料蒐集及整理に就ての主要事項を録し、以て本事業遂行の備忘とするものである」。この記録の筆者は、当研究所調査室の萩原久興氏である。

 続いて、第2ページ以降からも、抜萃して紹介しておこう。

 「6月26日 土曜 雨
 郡役所廃止による廃棄書類中米騒動関係書類其他の資料蒐集の為めに、急に左記方面に出張。
一、 宇治方面    越智君
一、 明石方面    庵原君
一、西宮伊丹方面   萩原

 6月27日 日曜
 其他にて資料蒐集、4日滞在

 7月10日 土曜 晴
一、越智君 山口地方出張

 7月18日 日曜
一、越智君 福岡、山口、広島、岡山を経て帰阪

 7月20日 火曜 晴
一、新聞其他筆耕料 左の如く協定

 8月4日 水曜
一、萩原 九州地方出張(9月5日帰阪)
休暇中 鷹津君 徳島・高知方面出張
    越智君 香川・愛媛地方出張

8月18日
 9月より東京に資料蒐集事務嘱託(浅野晃氏)


(昭和2年)
 6月21日 火曜 晴
一、 騒動日誌作製にカゝル
一、 木下氏より資料提出
イ、米価問題と鈴木商店(76頁)筆耕料3円8十銭也(一頁5銭割)
ロ、軍隊交替(新聞ウツシ)2頁 外ニ手当4円也
ハ、神戸市に於ける米騒動回顧録(41頁)1頁51銭ノ割 計20円50銭
計 金二十8円4十銭也

 11月13日
一、事務打合せ
一、騒擾関係者其他の記録をとること
一、浅野氏宛「集まった資料送附」に付き手紙を出すこと
一、大阪に於ける裁判記録を探すこと(小岩井氏依頼)(後略)


  (昭和3年)
 1月7日 土曜日(臨時休業)
一、打合会(細川氏、越智氏、萩原)
一、打合事項
イ、本年度資料蒐集予算 2000円也
 本年の方針も資料蒐集に在り、従来蒐集の補完をしながら、新に関東以北の資料蒐集に努力し大体8月迄に終ること。
ロ、本年より越智氏も資料蒐集係を兼任する。
ハ、一月中になすべき仕事(後略)」

 以上で引用を終るが、さきほどこの米騒動資料を「細川資料」と呼ぶことは正確でないと述べた趣旨は、これで納得していただけたことと思う。確かにこの資料蒐集事業は、細川嘉六氏が片山潜の示唆をうけたて提案したのにはじまり、同氏を責任者として行なわれたものであった。(細川嘉六「大正七年米騒動資料」大原社会問題研究所雑誌第9巻1号参照)。
 しかし、実際に資料蒐集の任にあたったのは、細川氏ではなく、越智道順、萩原久興、庵原嘉雄ら調査室の諸氏であり、大原社会問題研究所をあげて研究所の事業として行われたものであった。
 また所外の人々の協力も、見落すことはできない。資料の蒐集、整理、筆耕、見聞録やきき書きの作成に、大勢の人が参加している。既に引用したところにも、浅野晃、木下半治、小岩井浄の各氏の名が見られたが、このほかにも、次の諸氏が参加している。しかし、これは『日誌』『会計簿』などに氏名が記されている方々だけで、これ以外にもかなり多くの人が参加していたことは確実である。

 なお、山辺健太郎氏の談によれば、筆耕の一部は3・15事件などの被告家族の内職として行なわれた由である。鍋山歌子、山辺健太郎氏令姉の名があるのもこの談話を裏付けている。
 ちなみに、はじめ250字1枚が3銭だった筆耕料は、1928年5月1日からは4銭に値上げされている。また、図書館などで筆写する場合は、1枚5銭、ほかに入館料、交通費、弁当代を実費支給している。単なる筆写でなく、見聞録などの作成に対しては、1枚50銭から1円の原稿料が支払われている。なお、出張旅費、筆耕料など、この資料蒐集のために支出された費用の総計は、6255円68銭に達している。

 蒐集作業は、新聞、特に地方紙、雑誌の米騒動関係記事の筆写、裁判記録の蒐集などに重点をおいて続けられ(但し1929年度に、何故か、中断している)、32年から33年にかけては、一部が細川嘉6氏の手によって整理、発表された。「大正7年米騒動資料……富山県資料・和歌山県資料」(『大原社会問題研究所雑誌』9巻第1号、第2号、10巻第1号所収)がそれである。
 しかし、1933年3月、この事業の中心であった越智道順、細川嘉六の両氏が、共産党シンパとして相次いで検挙されたため、作業は中断してしまった。
 一方、蒐集された資料は、何時のことか、またどういういきさつからかよくわからないが、研究所の手をはなれ、細川嘉六氏の手許で保管されていた。
 松尾たかよし氏の「米騒動研究のあゆみ」(『歴史学研究』第209号)によれば、「細川資料は戦前細川氏が大原社研退職の際、退職金代りに氏の所有に帰した」とのことである。あるいは、そうであったかも知れない。
しかし、1936年8月、研究所の東京移転にともなって、細川氏も含む職員全員が退職した際には、規定の退職手当の他に給与1ヶ年分が支給されていることから考えると、疑問が残る。
 ともあれ、細川氏は、研究所退職後も研究嘱託として米騒動調査を担当していたが(『大原社会問題研究所30年史』131頁)、同氏の関心が植民地問題に移ったこともあって、作業は進まなかった。その後の資料の行方は、さきにあげた松尾氏の「米騒動研究のあゆみ」に詳しいので省略する。ただ一つ1954年以降、この資料が井上清、渡部徹の両氏を中心に京都大学人文科学研究所の手によって見事に整理され、これをもとに『米騒動の研究』全5巻が編まれたこと、その後、資料は細川嘉六氏の遺志により、当研究所に返還されたことだけはつけ加えておきたい。

 最後は、労動争議、小作争議、治安維持法関係の裁判記録類、約60種460冊である。裁判記録類といっても、その内容はかなり多様で、予審訊問調書や公判調書だけでなく、捜査報告書、現場見分書、警察官による被疑者あるいは証人に対する聴取書、検事による聴取書、予審請求書、予審終決決定意見書、予審終決決定書、検証調書、鑑定書、上申書、証拠書類写まで含まれている。
 労働争議関係のものは26件あるが、うち23件は大正期のもので、治安警察法違反が9件、騒擾が7件、あとは公務執行妨害、傷害などである。足尾銅山争議(1919年)、8幡製鉄所争議、神戸の三菱・川崎両造船所の争議、別子銅山争議、日本楽器争議など、戦前の代表的な大争議ばかりである。

 小作争議関係のものは、20件で、大正末期と昭和初期のものがほゞ半々である。大部分が騒擾事件だが、小作料請求など民事事件が2件ある。小作争議も労働争議同様、戦前の代表的な大争議が多く、岡山の藤田農場争議、香川の伏石事件、金蔵寺争議、土器事件、新潟の木崎村争議、王番田争議、鳥取の淀江争議などがある。

 治安維持法関係は、もちろん3・15事件、4・16事件のものが主で、あとは京大事件、学聯事件、第2次人民戦線(教授グループ)事件などである。治維法違反ではないが、同種のものとして、葉山嘉樹らの名古屋共産党事件のものがある。このほか、水平社関係が奈良事件と福岡聯隊爆破事件の2件、アナーキスト関係で中浜哲らのギロチン団事件一件がある。
 なお、これら裁判記録の詳細な内容は、既に本誌の第113号に目録を発表しているので、それについて見ていただきたい。
 これら裁判記録のほとんどは購入したもので、購入先がわかっているのは次の諸氏である。
 山名義鶴、棚橋小虎、高梨二夫、北九州鉄工組合、林嘉幸、中野尚夫、大阪市電従業員組合、総同盟大阪聯合会、三輪寿壮、茅野真好、森川綾、細野三千雄、田中龍一、吉田賢一、塚田清一郎、木村慶太郎、菊竹とり、栗原基、布施辰治

 参考までに、3・15事件の予審調書を入手したいきさつを示す書簡を引用しておこう。

「拝啓 益々御清勝慶賀この事に存じます。
 陳者、治安維持法違反事件の東京地方裁判所に繋属する部分の予審調書を是非貴研究所に於て買い取り備へ付けに相成る様おすゝめ致し度く、一は貴研究所の調査研究資料として、一は解放運動犠牲者並にその家族の救援の意味に於てお願いする仕第です。
 因みに、同調書は東京地方に於ける所謂三・一五事件に関するもので、各地区に於ける細胞の活動より中央委員に至るまでの全部を含むものであります。字間を縮少したプリント刷にて約一万数千枚に上り、百冊近くに分冊せられた極めて厖大なもので実費も相当の額にのぼってゐます。只今その大部分が出来上ってゐます。近日中に全部完成する筈です。実費一組約三百円に願い度いと思ってゐます。
 右 解放運動犠牲者救援会の意を受けて貴意を得る次第です、何卒宜しき様御取計らいを願います
                                草々
            四月十九日
   森戸辰男様              布施辰治」

 裁判記録ではないが、たいへん貴重な資料に、亀戸事件についての聴取書がある。これは、震災直後総同盟の依頼により、自由法曹団の弁護士、山崎今朝弥、布施辰治、松谷与二郎、片山哲、三輪寿壮、細野三千雄、黒田寿男の諸氏が虐殺された河合義虎の母親河合たま、吉村光治の兄南喜一らから、犠牲者の事件前後の行動などを聴取した記録である。亀戸事件犠牲者哀悼のために刊行された『種蒔き雑記』は、この聴取書をもとに金子洋文氏が書いたものであるが、聴取書そのものは、今日まで未発表である。いずれ機会をみて、発表したいと考えている。〔その後、この記録は『資料室報』第138号(1968年3月)に、解説論文「亀戸事件小論」を付して復刻した〕。
 なおこの記録は、1924年2月12日に、当時総同盟の主事であった加藤勘十氏から購入している。他の裁判記録類は、全て1枚5銭で購入しているのに、これだけは、罫紙150枚足らずのものに100円を支出している。同月17日には、青山斉場で亀戸事件犠牲者労働組合葬が47団体、900余名を集めて開かれているので、おそらく、これに対する資金カンパの意味あいをもって出されたものと想像される。

 以上のほかにも、いくつか特殊な資料があるが、これらは、いずれも展示会でも開いて現物を見ていただくほかはないものなので、こゝでは列挙するにとどめておく。



初出は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』第123号(1966年9月)、同第129号(1967年4月)に再録。


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