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所蔵図書・資料の紹介

大原社会問題研究所とその蔵書

久留間 鮫造 


  

 大原社会問題研究所が財団法人として正式に設立されたのは大正8年2月9日ですが、設立準備は、その前年の米騒動を動機に、その後間もなく始められたものと思います。

 寄附者は岡山県倉敷町(現在は倉敷市)の故大原孫三郎氏です。氏はその以前から、貸費生制度を設けて学資の乏しい秀才を進学させたり、中央の名士を招聘して倉敷日曜講演というのを開催したり、大原奨農会(後の大原農業研究所)を設立したり、石井十次氏の岡山孤児院の面倒を見たりして、社会事業、文化事業、といった方面に少なからぬ関心を示していられたのですが、社会問題研究所はそれらの従来のものにくらべて、性質ないし規模から見て非常に画期的のもので、その創立は相当大きな決心と期待とをもってなされたものと想像されます。なお氏はその後も、労働科学研究所、倉敷天文台、大原美術館、その他いろいろのものを創設して、わが国の富豪としてはまことに珍らしい立派な業績を遺されたのでありますが、その中でも、社会問題研究所は最も異色のもので、富豪の寄附によってできたものとしては恐らく世界にも類例がなかろうと思っています。そしてこれは、氏の稀に見る天才的な性格と、高野博士の異常な誠意および識見、この2つのものの結びつきによってはじめてできたのであります。

 私がはいったのは大正7年末でしたが、その頃はまだ建物もなければ組織もなく、私の仕事は大学の研究室に通って高野先生の指導下に勉強することでありました。組織がはじめてきめられたのは8年2月の財団法人設立認可を機会に開かれた会議においてであったと記憶します。

 当初は労働問題を中心とする第1部と社会事業を中心とする第2部とが設けられ、第1部の委員は高野岩三郎、河田嗣郎、米田庄太郎の3氏、第2部の委負は小川滋次郎、高田慎吾の両氏で、そのうち第1部では河田嗣郎氏、第2部では高田慎吾氏が幹事として事務を主宰していられたのですが、第一次国際労働会議への労働代表の問題で高野博士が大学を辞められ、爾来研究所の仕事に専念されるようになりましたので、大正9年4月の委員会の決議によって組織を一変して所長を置くことになり、博士が選ばれてその任に就かれ、爾後今日に及んだのであります。

 事務所は最初は大阪の天王寺に近い愛染園のうちに本部、東京の数寄屋橋畔の統計協会内に支部が置かれていましたが、8年10月に大阪市天王寺区伶人町24番地にかねて建築中の建物が竣工しましたので、本部はそれに移ることになりました。これはベルギーのソルヴェ研究所の建物を参考にして、最初15萬円の経費で建築され、後に書庫、講堂等の増築が行なわれて、かなり立派なものでしたが後に述べますように、昭和12年の東京移転に際して、図書の一部と共に大阪府に譲渡されました。

  

 図書資料の蒐集は最初から所の重要な事業の一つとして考えられ、早くから森川隆夫氏が図書主任、内藤赳夫氏等が助手として採用されて、書庫と共に整理の陣立ではできていたのですが、内地で外国のものを急速に集めることは容易でありませんでしたので、その蒐集のために誰かを派遣しようということになり、当時嘱託として関係していられた櫛田民蔵氏と私とが行くことになりました。神戸を発ったのが大正9年の10月28日、翌年の正月6日にロンドンに着きました。当時は渡欧する人が非常に多くて、船室は1年も前から予約ずみといった状態でありましたために、荷物船で行くことになり、途中セレベスやジャヴァに荷物を積みに立寄ったものですからそのように長くかかったわけです。

 蒐集の仕事は、船中での相談の結果、独仏のものは櫛田氏、英米のものは私、と手分けしてやることになり、櫛田氏はロンドンにはほんの僅か滞在されただけでドイツに行かれました。

 持って行った金はたしか3万5000円、ポンドに替えて2通の正金銀行の信用状にし、1通づつ持って行きました。ドイツ書の購入費はその後追加されましたが英米の文献は(私の滞在費を含めて)結局1万7500円で集めたわけです。

 イギリスでは、古いものは主としてロンドンのジョージ・ハーディング、およびミュージアム・ブックストアの2軒の専門の店(それから政府の出版物はキング、東洋関係のものはリューザツク)から買入れましたが、中心地区はもとより、場末の古本屋まで随分漁り歩きました。マンチェスターやオクスフォードにも二度ばかり行きました。マンチェスターにはサットンというかなり大きな古本屋があって、大きな地下室に、何十年前に仕入れたものか、埃にうもれて数万冊の本が未整理のまゝ積み上げられてあったのですが、そこに何日も通って、ローソクを片手に発掘作業をやったこともあります。二度目に行った時は櫛田氏と一緒でしたが、同氏がマルクスの「自由貿易論」というパンフレットをそのうちから掘り出して、ひどく喜ぶやら鼻を高くされたのを、なつかしく思い出します。

 イギリスで買った本の中で目星しいものを思い出すまゝにあげてみますと、政府の古い出版物では、救貧法に関する数次のロイアル・コミッションの厖大な報告書、炭坑夫に関する同じくロイアル・コミッションの浩瀚な報告書をはじめ、ブルー・ブックスの社会問題に関するものはかなり完全に集めました。社会運動に関するものでは、古い所ではレヴェラーズやディッガーズのものまで遡って集めました。かつて開所式の際福田徳三博士もみえましたがその時の展観のうちにウインスタンリ等のこれらのパンフレットを見出して、さすがの博士も驚いて、どんなにしてこんな物を手に入れたかといいながらつくづく眺めていられたのを思い出します。

 チャーティスト・ムーヴメントのものは、ノーザンスターだけはちょっとのちがいで買い損ねましたが、それを除けばパンフレット雑誌新聞に至るまで、主要なものは大体集め得たかと思っています。

 ゼネラル・ストライキをはじめて提唱したものとして知られているベンボウのグランド・ナショナル・ホリデイというパンフレットは本屋が何の本か知らなかったのでほとんどただのような値段で手に入れましたが、これなどもおそらく珍しいものの一つでしょう。

 産業革命当時の社会思想の方面では、トマス・スペンス、トム・ペイン、ウイリアム・オグルヴィ、ウイリアム・ゴドウィン、チャールズ・ホール等リカード前のものから、ウィリアム・タムスン、ジョン・グレイ、ジョン・フランシス・プレイ等、いわゆるリカーディアン・ソシアリストのものも大概は集めることができました。それからオーエンおよびその一派のものは、ちょうどその当時ミュージアム・ブックストアがどこからか車1台分ばかりの古本を手に入れて穴倉に積んでいたので、そのなかからほとんど完全に集めることができました。どこから手に入れたか色々聞いてみたが遂に白状しませんでしたが、あるいはホリオーク氏あたりがかつて持っていたものではないかと思います。文献に出ているほどのものはほとんど全部そのうちに見出されました。キングスリーの何という名前の本でしたか、やはりこのコレクションの中から別に気にも留めないで買って来たのでしたが、その後誰でしたか、その方面の専門の人が閲覧に来られて、これは大変な稀覯書があるといって驚いていられたという話を、内藤〔赳夫〕君から聞いたことがあります。

  

 経済学では、マーカンティリストのものは特に著名なもの以外はしいて原版を集めようとはしませんでしたが、それ以後のものは相当完全に揃えたつもりです。ただケアリの主著だけは――これはアメリカの本でイギリスであまり読まれなかったせいかと思いますが――どうしても手に入れることができないでくやしかったのを覚えています。是非なくてはならぬ大した本だからというのではありませんが、とにかく経済学史にメンションされているほどの本で、買おうと思って買えなかったものとして、変に印象に残っているわけです。

 是非買わねばならない本で容易に買えないで一番苦労したのはマルサスの人口論初版です。これはもともと発行部数が少なかったので買いにくかったことに不思議はないのですが、それでもいわゆるマン物で、市場にヒョイヒョイ出ることもあるらしいのですが、私が行った当時はマが悪かったとでもいいますか、着くとすぐイの一番に本屋に渡したリストのうちに載せて置いたのにかかわらずいつまでたっても手にはいらず、こいつを買わねば帰っても合わす顔がないと思い、ロンドン大学の図書館長のヘデイカ氏までわずらわしてさがしてもらったりしたのでしたが、発つ少し前になってやっと手に入れることができました。値段は12ポンドで、当時は随分高いと思いましたが、その後昭和10年頃でしたか、イギリスから送って来たカタログにたしか、70ポンドと値がつけてあったのを見たことがありますから、それにくらべればひどく安かったわけです。

 スミスの国富論の初版はたしか5ポンドで買いましたが、持って行ったポンドの換算率で計算すれば35円くらいで買えたわけで、今から思えば何だか夢のようです。スミスの著書は全部、中でも国富論はすべての著名な版を集めることができたと思っています。

 マルサスのものも全部集めたつもりです。そのうちには――地代論でしたか穀物法論でしたかいまはっきり思い出しませんが――自署のプレゼンテイション・コッピイもありました。プレゼンテイション・コピイと云えば他にもいろいろありましたが、特にオーエンのものには相当沢山あったように思います。これは、彼が主義の宣伝のために各方面の有力者に盛んに自署を贈ったと伝記にありますから、そうした関係で比較的容易に手にはいったのでしょう。なお余談ですが、マルサスの筆蹟は非常にみごとなのに反して、オーエンのは金釘流というか何というか、ひどく変てこな書体だったように記憶しています。

 ドイツでの蒐集には、前にも申しましたように、最初は専ら櫛田氏が当られたのですが、間もなく森戸氏が例の筆禍事件の刑をおえて研究所にはいられ、追加の購入費をもってベルリンに来られましたので、その後は協力して当られたように聞いています。

 ドイツはその当時、あたかも第一次大戦後のインフレが外貨をもった買手に最も有利な段階にあってほとんどうそのような値段で物が買えた上に、生活に困った学者がぼつぼつ手離し出した時代でしたから、イギリスなどでは夢想もできなかったような豪勢な買い方ができたようです。その当時どんなに安く本が買えたか、いま手許にあるある本について一例をあげてみますと、たとえばカウツキー版の資本論の第1巻には、表紙の裏側に39マルクという本屋の書き込みがありますが、私がそれを買った当時マルクは約1銭でしたから、あの本が39銭ほどで買えたわけです。そういう状態でしたから、重複などはあまり気にかけないで、思い切って文庫なども買い入れることができたわけであります。

  

 研究所で買ったコレクションのうちで一番部数が多かったのは、某書店の手にあった社会主義を中心にしたもの、それから、それ自身に完備しているという点で最も貴重なのは、エルツバッハー教授の無政府主義のコレクションでしょう。これは部数からいえばそんなに大したものではありませんが、無政府主義に関する蒐集としては世界無比のものだと云われています。それからハスバッハの文庫も買いました。

 個々の稀覯本としては、何といってもマルクスがクーゲルマンに宛てた資本論第1巻初版の自署の贈呈本をあぐべきでしょう。その他マルクシズム関係の文献は、マルクスやエンゲルスが青年時代に寄稿した新聞雑誌をはじめ、社会党の機関紙フォールウエルツのバック・ナンバーに至るまで――そのなかには容易に得難いものが沢山あるのですが――ほとんど完全に集っていたように思います。その他の方面のものではカントやフィヒテの初版物、それから――これはドイツのものではありませんが――ディドロー・ダランベールのアンシクロペディ等も手に入れて来られました。

 なお、所蔵の稀覯書としては、ズユースミルヒの「神の秩序」の初版も書き落とすわけにはいかないでしょう。これはその後に、たしか昭和の初頃でしたか、当時ベルリンにいられた有沢広已教授の斡旋で手に入ったものですが、統計学史上におけるもっとも有名な本で、しかも世界に恐らく2部しかないだろうということです。

 アメリカへは帰途櫛田氏と一緒に立ち寄り、ニューヨークとシカゴで最後の蒐集をしましたが、これは主として新しいものでした。

 大原社会問題研究所の洋書の蒐集は、このように、前大戦後の絶好の機会に西洋で買い集めたものを基礎にして、その後年々買い足していってできたのですが、和書の方は何年頃でしたか、私共が帰って間もない頃に、東京、大阪、神戸等を大勢で買い漁ったことなどありますが、しかし大部分は長い間に買い集めたものです。和書のうちでは特に社会主義文献がよく集っていましたが、この方面の蒐集については、森川隆夫氏の歿後図書主任をしていられた故内藤赳夫氏の功を忘れることができません。

 なお日本のものでは普通の文献のほかに、労働組合を主とする生まな資料も随分集っていたのですがこれは主として後藤貞治、木村定の両氏の努力によってできたものであります。

  

 このようにして大原社会問題研究所の文庫は、社会問題、それから精選されている点では恐らく経済学に関しても、日本はもちろん世界的にもめったにはひけをとらない立派なものになっていたのですが昭和10年頃大原氏から、経済上の理由のために――しかし実際には恐らく、その当時次第に抬頭しつゝあった反動勢力の圧迫もあったことと思いますが――従来通りの寄附の維持が困難だと申出があり、いろいろ交渉を重ねた末に、結局従来の土地建物と蔵書の一部(8万2000冊)とを大阪府に譲渡して東京に移転することになりました。譲渡したのは主として経済学に関するもので、将来大阪に国立の総合大学ができた際にそのライブラリーの基礎にするという予想の下に、それまでは責任をもって散逸を防止するということ、その他若干の条件を附して、ほとんど寄附同様の条件(金額は25萬円、これは土地建物の評価額よりはるかに安かったので、図書は事実上無償)でお譲りしたのでした。

 新たな事務所は、淀橋区柏木4丁目896に設けました。故山内多聞画伯の邸宅を譲受け、それに多少の改造を加え、更に2階建延90坪ばかりの書庫を建て増して設けたのでした。図書及び資料はこの新築の書庫と、母屋のうちに設けた約20坪の資料室と、延15坪の土蔵とに納めました。この土蔵は実に模範的なもので、一つにはこれがあったためにこの家を買う気にもなったのですが、これが結局非常に大きな役目を果すことになりました。

 というのは、研究所も昭和20年5月25日の戦災にかゝったのですが、他のすべてのものが灰燼に帰したなかに、この土蔵だけはびくともしないでもちこたえてくれたからです。どの程度のものがそのおかげで残ったかは、整理のための人手と場所とがないために今のところまだはっきりわかりませんが、もともと貴重書はこのうちに保蔵することになっていた上に、爆撃になってから目ぼしいものはできるかぎりこの中に運び込みましたから、冊数からいえばもちろん僅かにすぎませんが、質的には重要な部分が残っているものと信じています。

 たゞ現在遺憾とするところは、昨春来焼け跡に事務所を再建して久しく休眠状態を余儀なくされていた本来の活動を再開し、図書資料の利用も講ずるつもりで準備を進めていましたところ、8月の預金封鎖で寄附を受けることが困難になった上に、資産の大部分を凍結され、この計画がすっかり画餅に帰したことであります。

 さきに大阪府に譲渡した建物も戦火の厄にあいましたが、書庫だけは焼け残ったと聞いています。まことに不幸中の幸といわねばなりません。特に研究所の図書の蒐集に半生を費した私にとっては、一人は既に養子にやり、一人はひどい火傷をしながらもともかく愛児が生きながらえてくれたことはせめてもの喜びです。たゞ資金が乏しいために往年のような大規模な研究調査を再開することはもとより、せっかく焼け残った手許の図書資料の整理もできない状態にあることは、まことに遺憾の極みであります。


〔附記 この文章は、久留間前所長が執筆された「大原社会問題研究所」(『読書展望』第2巻4号、通巻第7冊、1947年5月)にもとずき、同じく「学究生活の思い出」(『思想』第349、350号、1953年7、8月)および「半生かけた図書蒐集」(『法政』第3巻9号、第28号1954年8月)などによって、多少の字句上の追補をおこない、仮名遣いを改めたものである。
 上の2の中に書かれている救貧法や炭坑夫にかんするロイアル・コミッションの報告書類などは戦災にあって焼失した。3の中のマルサスの自署本は、救貧法改正案にかんする「ホウイットブレッドあての手紙」である。4の中にふれられたズユースミルヒの『神の秩序』の初版本は、本年3月に著者の没後200年を記念して当研究所が復刻版を発行した。今後もこのような稀こう書の復刻をつゞけたいと思っている。

 1937年に大阪府へ譲渡した8万冊余の経済学関係の文献は、現在、大阪府立図書館天王寺分館に所蔵されており、そのうち洋書1812点にいついては、3冊の分類目録が作成されでいる。――A classified catalogue of the collection of old books in the Tennoji branch of the Osaka Prefectural Library (Formerly The Library in The Ohara Institute for Social Research). Part1,rev.ed.1958; Part2(A)1961; Part2(B)1962.

 大原社会問題研究所の現在の蔵書のうち1880年以前に刊行された洋書の単行本および逐次刊行物、1848年ドイツ革命時のビラ、ポスター類、社会主義者その他の手稿および手紙のコレクションについては、1960年に目録を発行した。――A catalogue of selected publications and manuscripts in The Ohara Institute for Social Research.1960.

 この目録からはぶかれたアナーキズム関係の当所所蔵のエルツバッハー文庫の目録は、戦前の『大原社会問題研究所雑誌』、第7巻2、3号に掲載されている。また現在所蔵している和洋の逐次刊行物については、法政大学図書館編『法政大学逐次刊行物総合目録』、人文・社会科学編、1966年刊、に一応ふくまれている。しかしいずれも多かれ少なかれ訂正増補が必要である。2年後に迎える研究所創立50周年までに、それらについていっそう完備した目録を作成する予定である。なお研究所の刊行物および刊行雑誌の論文目録は1964年に刊行された。−−宇佐美誠次郎〕


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