高野房太郎とその時代(18)
二村 一夫3. 社会人一年生──横浜時代(4)商法学校の同期生──富田源太郎のこと
房太郎は横浜商法学校で多くの友人を得ました。毎日のように会っていたのは速成科の生徒ですが、彼らの氏名は分かっていません*1。しかし本科生の一部についてはその氏名が判明しています。いずれも後年市会議員になるなど横浜の政財界で活躍したエリートたちでした。前回すでに紹介した富田源太郎、中村房次郎のほかに、高梨藤三郎、馬場寅蔵、大浜忠三郎、渡辺文七の6人です*2。建学の初年度では本科と速成科を合わせても19人の小さな学校でしたから、親しく交わる機会は多かったに違いありません。おそらく同時に講義を受けることもあったでしょう。この本科生のなかで房太郎がとくに親しくつきあい、大きな影響を受けたのは富田源太郎でした。ふたりとも同じ明治元年の生まれでしたし、何よりも英語と経済学の学習に強い関心を抱いていた点で共通していたのです。
富田源太郎の生い立ちの詳細は分かりませんが、東京生まれだったそうです。なぜか幼くして親元を離れ、横浜の外国商館の番頭をしていた伯父・富田砂筵*3に育てられました。砂筵は歌舞伎通で劇評家としても知られていました。伯父のもとで源太郎は横浜小学校を卒業し、商法学校本科の第一期生になったのです。彼は早熟の俊才で、早くから抜群の英語力を身につけ、またアイディア・マンとしても優れていました。
しかも富田は、この会話読本を出して僅か3ヵ月後の明治18年10月には、友人の大和田弥吉とともに『米国行独案内・一名桑港事情』も刊行しているのです。「桑港」とはサンフランシスコのことで、サンフランシスコとその周辺を中心とするアメリカ旅行のガイドブックです。おそらく房太郎もこの本を読んでアメリカ行きを決断し、この本を携えて乗船したに違いありません。 前回もふれましたが、美沢校長はじめその弟子であった横浜商法学校草創期の教師陣の英語力は、読解面では高かったのですが、発音や会話はとうてい実用的なレベルには達していませんでした。Come here my child をコム、ヒル、ミ、チルド、butをブット、faceをファックと読むような「変則英語」だったのです*6。これにひきかえ、生徒である富田源太郎の口語英語の力量は『英和商売用会話』が示すように、当時の日本人としては抜群のものでした。おそらく彼は、外国商館番頭の伯父のもとで、幼いときからネイティブ・スピーカーと日常的に接することによって耳から英語を覚えたに違いありません。また彼が学んだ横浜小学校は、全国的にも珍しいのですが、初等教育の段階で英語を教えていました。これも彼の英語力の向上に役立ったことでしょう。
一方高野房太郎は、おそらく横浜商法学校ではじめて英語の基礎を学んだものと思われます。そんな彼にとって、同年輩でありながら抜群の英語力をもつ富田源太郎の存在は大きな刺激となり、目標にもなったことでしょう。房太郎は富田とともに過ごすなかで、学校で習う以上に英語を身につけたに違いありません。いずれ後でまたふれることになりますが、1886(明治19)年末に房太郎が渡米した際、その口語英語はある程度の意思疎通ができる程度になっていました。5年たらずの短期間でそれだけの力を養えたのは富田抜きには考えられません。
富田が優れていたのは、口語英語だけではありませんでした。英作文でも相当な力をもっていました。『東京横浜毎日新聞』の1886(明治19)年1月5日付けは、富田源太郎が英文コンテストで一等となり賞品の銀時計を得たことを報じています。また彼の著書は、現在国会図書館に残されているだけで19点ありますが、うち5点は外国人旅行者向けに書かれた英語の本です。2点は日本国内の旅行案内書、3点は日本語会話と語彙集です。
最も早い時期に出版されたのは1887(明治20)年、つまり彼が横浜商法学校を卒業した翌年に出したTourist's Handbook, containing a Guide to Yokohama, Tokyo, Daibutsu, Kamakura, Enoshima, etc. (『旅行者への手引き──横浜・東京・大仏・鎌倉・江ノ島等の案内をふくむ』)です。これは僅か72ページの小冊子でしたが、その4年後に著したTourists' Guide and Interpreter with Genral Information for Travellers in Japan (『旅行者のための日本観光案内と日本語通訳』)は本文だけでも約200ページ、これに名所旧跡などの風景画30枚、さらにホテルや土産物店の広告が約100点付いています。前半は観光案内で、北海道から九州まで26のコースについて紹介し、さらに日本国内の旅行に関する情報として、日本旅館についての解説や度量衡換算表、各汽船会社の案内などがついています。ノミから身を守るために殺虫剤が必要であるとか、便所のひどい臭いを減らす方法などに当時の旅の実状がうかがえます。同書の後半は英和語彙集です*7。この本は、おそらく日本人によって英語で書かれた最初の包括的な日本案内書でしょう。もちろんそれ以前にも外国人旅行者の手になる旅行記や案内書はありましたが、日本人が外国人に向けて書いたガイドブックはありませんでした。 ここで見落としてはならないのは、富田源太郎が英語に堪能なだけの〈英語屋さん〉ではなかったことです。彼は国際社会における日本の地位向上をねがうナショナリストであり、商業道を説く志士でもありました。ナショナリスト富田の面目を示したのは、前回ちょっと触れたノルマントン号事件における彼の活躍です。これについて明治19年11月16日の『毎日新聞』はつぎのように報じています。 「横浜有志者の協議 横浜の有志者乗田弥吉、富田源太郎の両氏は同港の有志者一同に謀りてノルマントン号沈没の際、日本乗客がことごとく溺死したる事につき充分の吟味を遂げ、いよいよ船長に非難すべき挙動ありと評決せば、之を欧米諸国の新聞に掲げて世界の公論に質し、若し又た同事件にして満足の結果を得ば広告することを止め、此に関して募集したる金額は東京の五新聞に依頼して、溺死人の遺族へ贈与せんと、唯今協議中なりと云ふ」 彼とともに名を連ねている乗田弥吉は、『米国行独案内』の共訳者である大和田弥吉です。大和田が本名、乗田は養家先の姓です。同紙はさらに3日後にその続報を掲載しています。 「富田、乗田両氏の義挙 横浜の有志富田源太郎、乗田弥吉の両氏は、前号にも記せし如く義捐金を募集してノルマントン号沈没の始末を世界の新聞紙に広告せんと計画し『伏して横浜の人々に訴ふ』と題したる一篇の檄文を草して横浜中へ配布したり。其の要旨は乗組人六十四名のうち、船長以下船員二十七名の西洋人は一名を除くの外何れも生命を全うして上陸なし得たるにも拘はらず、乗客なる日本人二十五名は挙って紀州海中の鬼となり船員なる印度人支那人十二名も悉く大嶋水底の藻屑となりぬ。危急の際事の行き違いはありたらんにもせよ船を同ふして西洋人は生き日本、支那、印度の人は死せしはいかにも奇怪の事柄なるが、果たして然るべき理由あらば格別なれど若し日本人の死、支那人の死、印度人の死が英人船長等の横着より起れりとせば、此事実を全世界に告げて欧米各土の徳義に訴へ日本の社会は已に進歩して軽んじ易からざるを示すも亦死者の怨恨を吊する一端にあらずや。横浜は内外交際の要区なるが故、我々は男女老若を問はず横浜全人民の賛同一致を以て其事実を英文に認めロンドンタイムスを初めとして全世界の新聞紙に寄せ東洋後来の為に計り、傍ら死者の遺族を恵むの義挙を為さんと欲し、之を義気壮んなる横浜区民に訴ふと云ふに在り。又其の義捐金受取所は同地弁天通四丁目丸善及び太田町三丁目万字屋なりと云ふ」。
同年12月2日の『毎日新聞』付録に、この呼びかけに応え、募金した人々の名が掲載されました。そのなかには、次回で詳しくとりあげる伊藤痴遊こと井上仁太郎の父井上八之助も含まれています。息子の政治活動に理解を示さず、仁太郎を事実上勘当してしまう父親も、このノルマントン号事件には募金に応じたところに、この時期のナショナリズムの広がりをみることができます。ただそれ以後、この企てがどのように推移したかはまだ分かっていません。
より直接に富田の考えが分かるのは、明治21年に刊行された彼の著書『商売人』です*9。この本ははじめ横浜商法学校の美沢進校長を通じて福沢諭吉に序文を依頼したのですが断られ、かわって美沢が談話筆記の形で序を寄せています。 「商界の壮士富田源太郎君、頃者其編スル所ノ『商売人』ヲ携ヘ来リ、余ニ序ヲ請フ。余時ニ眼ヲ憂ヒ、之ヲ閲読スル能ハズ。因テ君ニ問フニ其編纂ノ大意ヲ以テス。君曰ク、近来欧米諸邦ノ人、概ネ我国ノ工芸美術ヲ貴ビ、我国ノ山水明媚ヲ愛シ、我国人民風致ノ思想ニ富メルヲ喜ビ、以テ世界第一優美閑雅ノ国ト称ス。然レドモ、唯憾ムラクハ、未ダ曾テ富強ヲ以テ之ヲ称スルモノアラザルヲ。故ニ余ハ更ニ進デ富強ノ実ヲ講ジ、以テ世界第一ノ優美閑雅殷富強盛ノ一帝国タラシメント欲ス。而シテ唯之ヲ然ラシムル所以ノモノ必ラズ先ヅ商業ヲ隆盛ナラシメザル可カラズ。商業ヲ隆盛ナラシムルモノ必ズ先ヅ完全ナル商業世界ノ少年壮士ヲ薫陶養成セザル可カラズ。此書ノ主意、即チ是ニ在リト。」
富田はこのような意図を著書として発表しただけでなく、横浜小学校の同級生の井上 【注】
余が創めて小著『英和商売用会話』の初編を稿したるは去る明治十八年のことなり。当時余は在校の一書生にして学費の不自由に苦しみ其苦しみに駆られて、遂に大胆にも一の英和会話編を物して其収益より資給を得んことを思ひ立ちたるこそ『英和商売用会話』ある端緒にして、云はば苦しまぎれの一奮発……中略……一編はいつの間にか十版に達し、二編、三編出るに随ってまた連に売れ、今に至る迄前後版を変ゆること三編通じて十五版、刷本の既に世に布くこと実に五万を超すに及びぬ」
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