高野房太郎とその時代(15)二村 一夫3. 社会人一年生──横浜時代二人の伯父
明治14(1881)年末か翌15年初め、高等小学校を卒業したばかりの房太郎は、社会人としての第一歩を踏み出しました。神奈川県横浜区境町1丁目26番地にある汽船問屋兼旅館「 もう一人の伯父、高野亀右衛門は弁天通2丁目41番地で同じく汽船問屋兼旅館を経営していました。上の地図に場所を示しておきましたが、弁天通は開港時に設けられた5つの道路のひとつで、町内には生絲売込商として知られた野沢屋(茂木総兵衞)、亀屋(原善三郎)などの大貿易商、それに丸善はじめ舶来品を商う店はすべてこの通りに集まっており、当時は横浜最大の繁華街でした。 今回は、この二人の伯父のことを書こうと思います。すでに第3回の「高野家の人びと」でもいくらか触れましたが、房太郎と横浜を結びつけたのはこの2人です。それになによりも房太郎が後年、実業界での成功をめざした時、さし当たりの目標としたのは身近にいた弥三郎や亀右衛門だったと推測されるからです。本人がそう考えなかったとしても、母や周囲の人びとは伯父たちに負けない成功を期待したに違いありません。ですから、ここで彼らについてなるべく詳しく知っておきたいのです。とはいえ、今のところ手がかりとなるのは「職業別人名録」など、断片的で情報量の乏しい史料ばかりです。そうした断片的な記録から、いかに豊富で説得的な内容を引き出すかが歴史家としての腕の見せどころですが、はたしてどうなりますか。 まず二人の伯父の関係についてみましょう。岩三郎は「父の長兄高野彌三郎なる者は」*4と回想しています。しかし、これは弥三郎ともう一人の伯父の亀右衛門とを混同したものです。高野家の過去帳によれば亀右衛門は明治15年暮に享年55歳で亡くなっており、弥三郎より10歳ほど年上です。亀右衛門こそ「長兄」で、弥三郎の方は名前と享年から見て岩吉の三男、つまり四男仙吉のすぐ上の兄だと思われます*5。岩三郎がこの二人を混同したことはそれほど不思議ではありませんが、問題は横浜にいた伯父が弥三郎だけだったように述べていることです。横浜には二人の伯父がいたのに、なぜ弥三郎の名しかあげなかったのでしょう? 疑問が残ります。後で見るように、高野屋は亀右衛門亡き後も二代目亀右衛門のもとで繁盛していましたから、岩三郎が亀右衛門家の存在を知らなかったとは考えられないのですが。
それはともあれ、亀右衛門と弥三郎の名を記した史料の初出は1870(明治3)年のことで、二つの記録に出てきます。ひとつはすでに紹介した横浜の町名主・小野兵助の『横浜町会所日記』*6で、これには二人とも出てきます。高野屋亀右衛門の方は名主への季節ごとの進物に関する記述だけで、品物は〈鮭一本〉〈からすみ一双〉などです。〈からすみ〉はいうまでもなく長崎名産の天下の珍味、鮭はおそらく函館から届いたものでしょう。「高野家の人びと」で謎の人物だった高野長二郎の籍が函館へ移されたことを考えると、高野家の一員、おそらくは岩吉の次男が函館にいたのではないかと想像されます。〈からすみ〉も鮭もいかにも汽船問屋らしい進物です。 一方、弥三郎の名が初めて『横浜町会所日記』にあらわれるのは、亀右衛門より半年余り早い明治3年3月のことです。 「〔明治三年三月〕十三日
これは長崎屋の泊まり客が書類を落としたことを町名主に届け出たものですが、ここから明らかになるのは、この時弥三郎は糸屋ではなく長崎屋を屋号としており宿屋を営んでいたことです。また遠く離れた岩手県の港町の商人が客となっていることは、長崎屋が汽船問屋も経営していたであろうことを推測させます。 「〔明治四年四月〕廿一日
これらの記述は簡潔に過ぎちょっと分かり難いところもありますが、たしかなことは当時弥三郎が1000両という大きな借金をかかえ、これを期日までに返すことが出来ずにいたことです。境町の土地と家を手放すことも考えざるをえないほど、長崎屋は危機的な経営状態にありました。「千両立て替え置き候ところ」とあるのを見ると、輸出品の集荷を村田屋喜八に依頼していたものでしょう。弥三郎が宿屋だけでなく、貿易にも従事していたことがうかがえます。この時期、横浜は普仏戦争の影響で生絲や蚕種の輸出が途絶えて大不況に陥っており、中小の売り込み商の破綻があいついでいました。
「一、辨天通三丁目 長崎屋 彌三郎 製茶売込」 同じ明治3年についての記録ですが、こちらでは弥三郎の職業は「製茶売込商」となっています。住所も弁天通三丁目で境町ではありません。ことによると兄の亀右衛門のもとで、製茶売り込み商を営んでいたのかとも考えましたが、屋号が高野屋ではなく長崎屋であり、弁天通2丁目でなく3丁目ですから、やはり独立して店を構えていたものでしょう。ともあれ、弥三郎が売込商として貿易業に手を出していたことはこれで明らかです。また弥三郎が弁天町から境町へ移ったのは明治3年の初めだったことも明らかです。1000両の借金も、おそらく茶の集荷を委託したために生じたものでしょう。しかし弥三郎は最終的にはこの経営危機を乗り越えました。それは、後年の彼の活躍が証明しています。 以上、亀右衛門・弥三郎兄弟が明治2年以前に横浜の一等地に土地家屋を所有していたことが明らかになりました。また、弥三郎の場合は、明治初年に宿屋を営むかたわら製茶売込みなど貿易にも手を染めていたこともまた確かです。なお、弥三郎の所有地はあまり広くはなく24.46坪、一方、亀右衛門の所有地は角地で146.16坪、これは弁天通2丁目では最も広い敷地でした。なお、弥三郎は1886(明治19)年1月以前に住吉町6丁目80番地に移っていますが、ここは角地で、面積も約60坪と広くなっています*7。
問題は彼らがいつ長崎から横浜に移り住んだのかですが、たしかなことは分かりません。ただ彼ら二人がともに横浜の一等地を手に入れている事実から考えると、開港からあまり経っていない時期だったのではないでしょうか。
もうひとつの史料は同年9月に発行された『横浜細精記』*9です。ここでは彼ら二人はともに「汽船問屋の部」にあり、「境一 絲屋彌三郎」「弁天二高野亀右衛門」となっています。しかし旅人宿の部にはその名はありません。以上から、房太郎が横浜に移り住んだ前年以前に、弥三郎の絲屋も亀右衛門の高野屋もともに汽船問屋と宿屋を兼ねていたことは明らかです。汽船問屋は汽船会社の代理店として集客集荷を扱う店のことです。船のことですから天候によってしばしば出発時間・到着時間が変わり、乗客は港の汽船宿で待機を余儀なくされることがあったに違いありません。出発地や到着地が東京でも、横浜には泊まらざるをえないことが多かったと思われます。ですから汽船問屋と宿屋の兼業は集客上きわめて有利な立場にありました。ただ弥三郎店は、敷地面積からみて宿屋としてはいかにも小さく、いきおい集客・集荷に力を入れ、汽船問屋としての業務の比重が高かったものと推測されます。広い敷地の兄亀右衛門の宿がありましたから、敷地は狭くてもそれほど商売に困ることはなかったでしょう。 こうした推測を裏付ける史料があります。それは1887(明治20)年7月に博文館から出版された山本東策『日本三府五港豪商資産家一覧』*10です。この本には、富豪一覧とともに、有力な「貿易商」43人の名がリストアップされているのですが、そこに「汽船荷物取扱業」としてはただ一人、わが高野弥三郎が採録されているのです。実際には、この本が出る1年以上前に弥三郎は死亡していたのですが、彼が汽船荷物取扱業としてはトップクラスの存在だったことが、これによって分かります。もうひとつ注目されるのは、それより先の1884(明治17)年7月、弥三郎が境町を代表して町会議員に選出されていることです*11。14の町から各1人、総員14人の議員のなかには大谷嘉兵衛、小野光景、島田三郎といった有力者が含まれており、かつて1000両の借金に苦しんだ弥三郎がついに成功者の仲間入りを果したことをうかがわせます。
弥三郎の成功の背景には、日本の海運業の急速な発展がありました。よく知られているように、この時期の日本の海運業をになったのは政府の手厚い保護を受けた郵便汽船三菱会社でした*12。三菱会社の代理店であった絲屋もこれによって大きく成長したものと思われます。さらに、房太郎が住み込みの店員をしていた間の、明治16年1月から18年9月にかけては、三菱会社と共同運輸会社との間で激烈な競争がおこなわれていました。両社とも採算を度外視して運賃を引き下げ、スピードを競って、乗客や貨物を集めました。横浜・長崎の米100石の運賃110円が65円に、旅客運賃にいたっては神戸・横浜間下等が7円から1円50銭に、もっとも競争が激しかった明治18年にはなんと25銭に切り下げられたといいますから、その激しさがわかります。しかし、この両者の競争は汽船問屋にとっては大きなプラスとなりました。価格の引き下げは、旅客や荷物を急増させたからです*13。三菱会社の代理店だった絲屋もこの恩恵を受けたに違いありません。これはまさに房太郎が店員をしていた時期のことでした。 【注】
「明治十二年八月廿六日(一八七九)高野仙吉。高善院泰安慈性居士、高野彌太郎(ママ) 明治一九年四月廿二日(行年四九)。新師院高山巌義雄居士、明治十五年十二月廿九日 高野亀右衛門(五五才)。慶応三年五月十六日 高野岩吉(長山善久信士)」
「近頃は船の競争が盛んで何処の会社の船では船賃を一割に下げた上に手拭一筋宛景物に呉れるの、横浜まで金の一円五十銭もあれば行かれるの、此競争が続けば無賃で載せた上に金巾の蝙蝠傘の一本宛も呉れる様になるかも知れぬ。こんな時に船に乗らぬは馬鹿、なんぞと種々の話をして居る」(蘆花全集刊行会『蘆花全集』第6巻、1928年、277ページ)。 |
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