高野房太郎とその時代(10)二村 一夫2. 生い立ち──東京時代長崎屋繁盛記
久右衛門町の長崎屋は、素人が始めた新店にも関わらず予想外の繁盛をみせたようです。その〈物的証拠〉がここに掲げる尾崎富五郎編『食類商業取組評』(明治12年刊)です。 さて本題に戻ると、この冊子でわが長崎屋はなんと「旅宿」の部で東の大関なのです*1。 この番付に〈横綱〉はありませんから、東の大関は文句なしに同業者間のトップです。「いくら何でも、開店して2年経つか経たない宿が東京一とはおかしい。ことによると江戸時代に長崎のオランダ商館長の定宿として有名だった〈長崎屋〉と混同したのでは?」と疑り深い私は考えました。しかしこの番付で長崎屋の住所は正確に「久エモン丁」と記されています。阿蘭陀宿の長崎屋の所在地は日本橋本石町でした。それは「石町の鐘は阿蘭陀まで聞こえ」といった古川柳などでよく知られた事実です*2。それを絵地図などガイドブック出版で有名な尾崎富五郎が間違えることはないでしょう。 むしろ、長崎屋が大関になれたのは〈コネ〉があったから、と考える方が自然です。なぜかといえば、尾崎富五郎は幕末から横浜に住み、ハマ屈指の版元・錦誠堂を経営し、自ら『横浜案内絵図』を描いた絵師でした。同じ時期に横浜で商売をしていた高野亀右衛門や彌三郎と知り合いだった可能性は高いのです*3。尾崎が東京の商売番付を出すことを知った高野兄弟が、長崎屋を売り込んだのではないでしょうか? とは言え、こうした番付は他の業者や読者の目にふれるものです。かりに贔屓によるとしても、長崎屋が繁盛してもいないのに高く格付けては、番付そのものの評価を落とします。また、私でもいくらか名前の分かる「会席料理店」の部をみると伊勢源、八百善などの有名店がそれぞれ東西の大関の座を占めています。長崎屋が繁盛していたことは、間違いないところです。
長崎屋が好成績をあげえたのは、それなりの理由があると思われます。その第1は、横浜に文字どおりの兄弟店があったことです。前にも触れましたが、開国後、西洋型帆船や汽船が導入されたことで船旅は安全になり、所要日数も短縮しました。江戸時代だと長崎から江戸へ往くには1ヵ月はかかったのに、汽船だと5日前後で着くようになったのです。九州をはじめ関西方面から東京へ来る人の多くは、東海道線全通までは、横浜経由の船旅を選びました*4。そうなれば、横浜に兄弟店が2軒もある長崎屋は、集客上たいへん有利だったことは明らかです。
また維新後、これまでの飛脚問屋を基礎に成立した各地の運送会社を統括する機能をになった内国通運会社(後の日本通運会社)は、両国を拠点に東京と房総の各地とを結ぶ外輪の蒸気船を導入していました。こうした水運の要である両国に近く、かつ周辺に神田・日本橋の問屋街をもつ長崎屋は、回漕店としてもその立地条件は抜群だったのです。
時代的な背景も長崎屋の繁栄を後押ししました。この頃、東京市中への人口集中が加速しはじめていたのです。東京の15区内の人口は明治10(1877)年には595,424人でしたが、翌々12年には813,400人と僅か2年間で21万8000人も増えています*6。永住者の増加だけでなく、地方から横浜・東京見物に来る人も増えていました。高野一家が長崎を引き払った年、明治10年の8月には西南戦争のさなかであるにもかかわらず、上野公園で第1回内国勧業博覧会が開かれ、11月末までの100余日の会期中に観客は45万人を超えています*7。 もちろんいかに立地が良く、時代に恵まれていたとしても、それだけで旅館は繁盛するわけではありません。何よりも、そこで提供されるサービスの質が問われる客商売です。新規開店で設備が新しかったこともプラスに働いたでしょうが、それ以上に客あしらいが優れていたに違いありません。そうなると、長崎屋成功の陰の功労者は高野家の女性たちです。祖母のカネ、母ます、姉きわの3人、いずれもしっかり者で知られた高野家の三世代の〈女将〉たちこそ、長崎屋を東京一の宿に押し上げる力だったと思われるのです。 【注】
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