高野房太郎とその時代(3)二村 一夫高野家の人びとこれまで房太郎と言ってきましたが、実は10歳までは「久太郎」と呼ばれていました。まだ幼名などというものが使われていたのです。ただ不要な混乱をさけるため、本書ではすべて房太郎で通すことにします。両親は、父が高野仙吉、母がマス、房太郎はその名が示すように長男でした。もっともこれは戸籍上のことで、高野家には房太郎より年上の男の子がいたようです。これについては後でふれることにします。
高野家は、代々和服の仕立てを家業にしていました。岩三郎は家業を「和服裁縫師」と言っていますが、維新までは
父の仙吉は、1840(天保11)年か1845(弘化2)年の生まれです。1840年説は仙吉が明治12年8月に39歳で亡くなっているという岩三郎の回想*1から逆算したものですが、果たして正確かどうか疑問です。それは同じ回想記で、岩三郎は「三十七歳の若さで未亡人となった母」と述べているのですが、戸籍簿の生年からみてマスが未亡人となったのは32歳の時だったことが明らかだからです。岩三郎が父母の年の差を間違えることは、まずないでしょう。とすれば、仙吉の享年は満34歳、それから逆算した生年は1845(弘化2)年になります。もっとも、仙吉のすぐ上の兄彌三郎は1837、8年頃の生まれですから、それから考えると1840年生まれでもおかしくはありません。ただ姉たちの存在を考え、房太郎の生まれた年なども考えると、私は、1845年の可能性が高いと思っています。決め手には欠けますが、ここでは1845年説をとって話を進めることにします。
一方、母のマス〔「ま寿」、あるいは「満す」とも記されている*3〕は、弘化4(1847)年2月17日に、同じ長崎の八坂町で山市安平、同ヤスの長女として生まれています。ところで、いま私の手許に高野家の戸籍謄本が2種ありますが、そのひとつ、大阪市天王寺伶人町を本籍とするものでは、彼女の生地を「長野県八坂町」と記しています。これは戸籍係が記入の際に書き間違えたもので、正しくは長崎の八坂町です。 しかし、これだけでは、なかなか高野家の人びとに共通する個性といったものは浮かび上がってきません。ただ、房太郎の伯父たちの生き方をみると、彼のその後に関わる高野家の特徴、高野一族に共通する性格が多少は明らかになるように思われます。もっとも、仙吉の9人の兄弟姉妹のうち、いま名前と経歴が分かっているのは2人だけです。仙吉より12歳あまり年長の亀右衛門と、7歳年上の彌三郎です。おそらく亀右衛門が長男、彌三郎は三男、仙吉のすぐ上の兄だと思われます。すでに述べたように、上の兄2人ともが家業を継がず、ともに開港したばかりの横浜*7に出て、はじめは貿易業を、最終的には宿屋兼回漕店を営んで、かなりの成功をおさめています。この2人は、房太郎の生涯にも大きな影響を与えましたから、また後でもふれることになります。ここでは、この伯父たちが代々の家業を捨てて、横浜で新事業に乗り出していた事実の意味するところを考えておきたいと思います。
そのひとつは、亀右衛門と彌三郎の行動が示しているのは、2人の先見性と進取の気性です。いかに開国という新たな条件があったにせよ、代々の家業を継がず、遠く離れた横浜で新たな事業に乗り出した2人は、時代の先き行きを見る目があり、決断力もある、積極的な性格の持ち主であったに違いありません。そうした気性は房太郎にも受け継がれていたのではないでしょうか。また、息子たちだけでなく、父の岩吉が彼らの決断に同意していたであろうことも見逃してはならないでしょう。幕末・維新期のことですから、家長である岩吉の同意がなければ、息子たちは無一文で家を出るしかなく、それでは横浜で新事業を始めることは無理だったでしょう。さらにまた、家を出た2人の兄弟が、同じ横浜で同じ回漕業兼旅館業でありながら、それぞれが亀右衛門は高野屋、彌三郎は糸屋と別個の屋号をもち、それぞれが独立経営を行っていた事実も注目に価します。それは、高野家に、各人の自立性を認める空気が強かったことをうかがわせるからです。 もうひとつ、亀右衛門と彌三郎の行動は、高野家がそうとうな資産家だったに違いないことを推測させます。2人が長崎から遠く横浜まで移り住み、それぞれ新たな事業を営んで成功したのには、それなりの資金があったからでしょう。亀右衛門は横浜弁天通2丁目41番地、彌三郎は境町1丁目26番地という、当時の横浜でも一等地中の一等地で、旅館を営んでいたのです。境町は県庁に隣接し、日本大通りに面した町で、外国商館や波止場も近く、その住人たちは主として貿易商でした。亀右衛門が営業していた弁天通りも当時の横浜の目抜き通りで、しかも亀右衛門宅は2丁目と3丁目の境にある角地です。そうした土地を借りるだけでもかなりの資金を必要としたに相違ありません。しかも『横浜町会所日記』*8の記述によれば、明治4年に高野彌三郎は1000両もの金を借りていたのです。もっとも期限内にその金を返せず、したがってこの記録が残ったのですが。でも彌三郎はその後も営業を続け、1884(明治17)年には境町を代表する町会議員になっていますから、借金は無事に返せたに違いありません。ついでに言うと、彌三郎は「絲彌」という屋号を使っています。宿屋としてはちょっと不自然な屋号です。おそらく彌三郎には生糸取引をしていた時期があり、その頃つけたものだと思われます。1000両の借金(立替金)も、おそらくそうした取引上で発生したものだったに違いありません。さらに言えば、岩吉にはこの他にも7人の子がいたわけです。そうした数多くの子供を一人前にするにもかなりの費用がかかったはずです。すぐ後に述べるように、仙吉一家は間もなく上京しますが、その際も銀屋町の家も山林も処分せず長崎に残しています。高野家がかなりの資産家だったに違いないと推測するのは、以上のような点からです。 さて、高野家の人びとの最後に、ひとりの謎の人物についてふれておきたいと思います。誰でも疑問を感ずるところだと思いますが、房太郎と岩三郎という名前から推して、2人の間にはもう1人男の子がいたのではないか、ということです。実は、それらしい人物がいます。それはすでに紹介した『要用簿』のなかの戸籍に関する記録で、附籍として高野長二郎(長次郎とも書かれている)の名があるのです。岩三郎が次男であるのに〈三郎〉となった理由は、この人物の存在と関連があると推測されます。ただし、この人物を房太郎と岩三郎の間に生まれた兄弟とみるのは早計です。それは彼が高野家の正式な一員ではなく、附籍というかたちをとり、続柄も山崎末五郎弟となっているのです。さらに問題となるのは、この長二郎の年齢です。房太郎より10歳近く年上なのです。つまり長二郎の生年月は安政6(1859)年3月と記されているからです。なお、高野長二郎はいつのことか仙吉の長兄・高野亀右衛門の養子となったのですが、亀右衛門の死後に離縁になって高野房太郎を戸主とする戸籍に附籍として入籍し、さらに明治17年12月に函館に移っています〔要用簿〕*9。函館も開港場のひとつであり、ことによると、ここに仙吉の次兄がいたのではないかと想像されます。 なお、大島清先生が岩三郎の長女で宇野弘蔵夫人のマリアさんから聞いた話のメモに、「房太郎と岩三郎の間に子供がいたが、伯父の家へ養子にやった」とあります。それはおそらくこの人のことでしょう。しかし、長二郎をめぐる謎はまだいくつか残ります。房太郎より先に生まれているのに長二郎となったのはなぜか。また、附籍となっているのはなぜか、などです。いずれにしても、長二郎がますの子でないことは、2人の年の差からみて確実です。あるいは実際は房太郎らの異母兄だったのかもしれません。しかしこれも、仙吉の享年が岩三郎の言うように39歳だったのであればその可能性はありますが、さきほど推定したように34歳で亡くなったとすると、14歳の時の子供ということになってしまいます。山崎末五郎は岩吉の子でだったようですから、おそらく高野長二郎も岩吉が外に生ませた子供、つまり仙吉の異母弟だったのではないでしょうか。あれこれ書きましたが、長二郎はいぜんとして謎の人物です。 【注】
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『高野房太郎研究ノート』 未完の高野房太郎伝──大島清先生のこと 『高野房太郎とその時代』既刊分目次 上野彦馬フォトギャラリー 続き(4)豊かな町・長崎 幕末明治期日本古写真展示会 長崎大学付属図書館のバーチャル展示会・「幕末開港と長崎」など、上野彦馬撮影の写真も |
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