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労働運動史研究会の25年


二 村  一 夫

はじめに

 今年〔1982年〕は労働運動史研究会創立25周年の記念すべき年です。創立5周年には、朝日新聞社の後援を得て、荒畑寒村、大河内一男、木下順二、矢島悦太郎という錚々たる顔ぶれで、朝日講堂に大聴衆を集めて記念講演会を開きました。また創立10周年には、社会文化会館で「日本労働運動の歴史と課題」と題する有料の公開講座を開いて、これまた盛会でした。そうした先例からすれば、4分の1世紀を経た25周年記念は、さらに盛大な行事を企画すべきであったのですが、事務局の力不足で、またいくらかは会の現状もあって、対外的な記念行事は何もできませんでした。しかし、この機会に研究会の活動のあとをふりかえり、今後のあり方を考えることは、いくらか意味があると考え、報告させていただきます。

前史

 研究会の正式な発足は1957年ですが、それに先だって準備会の名で機関誌『労働運動史研究』が5号出ています。第1号は1956年5月ですが、その発行者は「民主主義科学者協会東京支部歴史部会労働運動史研究会準備会」という〈寿限無〉顔負けの長い名になっています。これでわかるように、労働運動史研究会の母体となったのは民主主義科学者協会(民科)でした。民科について私自身は、直接知るところはないのですが、古い『歴史評論』などを見ますと、すでに1948年には民科東京支部歴史部会のなかに労働運動史研究会が組織され、研究会も開かれていたようです。
 なお、この報告をした後で、1949年11月に1号だけ出たガリ版4ページのニュースを見ることが出来て、「民科東京支部歴史部会労働運動史研究会」についてもう少し詳しいことが分かりました。すなわち発会は1948年11月末で、参加者は石母田正、酒井定吉、長谷川博、林基、平野義太郎、守屋典郎氏らでした。主として運動体験者による公開研究会を毎月1回ひらき、毎回20〜30人の出席者があったようです。注目されるのは、この『労働運動史』と題したニュースの一面にある「研究会の方針について」です。そこでは従来の研究を批判して「年代記的な羅列にすぎず、科学的な分析は殆んど欠け、分析らしいものがあっても日本資本主義一般の特質から運動の一般的特質を規定するにすぎなかった」と指摘した上で、「現在なさねばならぬことは、各時期、各産業の闘争をそれぞれの時期、産業の具体的な諸条件の変化のなかからの必然的な動きとして把握することが必要である」と主張されています。私も1960年の社会政策学会の大会でこれと同趣旨の提唱をしましたが、その10年も前に、このような方針が出されていたことは全く知りませんでした。
 この民科の労働運動史研究会は間もなく休眠状態になり、ニュースも1号かぎりで終ってしまいました。その後、1955年になって、当時『歴史評論』の編集部にいた林基氏、渡辺菊雄氏らによって労働運動史研究者の全国的な協力体制をつくることが計画されます。同誌の第70号(55年10・11月合併号)は「労働運動史の課題」を特集していますが、その誌上で歴評編集部気付で労働運動史研究グループヘの連絡の呼びかけがおこなわれました。これが『労働運動史研究』の創刊に直接つながる動きでした。このように、民科労働運動史研究会から数えれば、労働運動史研究会は25年ではなく、34年、実に3分の1世紀もの長い歴史をもっている訳です。
 『歴史評論』とともに労働運動史研究会発足の舞台となったのは歴史学研究会の大会でした。1956年5月(早稲田大学)、1957年5月(明治大学)の2度の歴研大会のあとで、全国の労働運動史研究者の有志懇談会が開かれています。ちなみに『労働運動史研究』の創刊号は、他ならぬこの第1回の有志懇談会に向けて出されたもののようです。この56年の第1回懇談会で、つぎのような決定がなされています。
  1) 研究会は民科の枠をはずし、また他の既存の学会の枠にとらわれない独自の組織とする。
  2) 当面は準備会とし、機関誌発行に重点を置く。
  3) 会の代表として塩田庄兵衛、機関誌の編集委員は塩田、高橋洸、加藤佑治、渡辺菊雄の4氏に委嘱する。
 この頃、民科歴史部会の内部では、「職場の歴史」運動に対する批判反省がおこなわれており、これと労働運動史研究会が「民科の枠をはずす」ものとして構想されたこととは何等かの関連があるのではないかと想像されます。準備会時代の『労働運動史研究』で注目されるのは、イギリス、イタリア、フランス、アメリカなどの各国における研究情況の紹介に力を入れていることです。もっともアメリカ以外はすべてソビエトの『歴史の諸問題』誌の書評や紹介の翻訳ですが。この期の主要筆者は林基、加藤佑治、渡辺菊雄の諸氏です。
 1957年5月の第2回懇談会では、塩田氏が「さいきんの労働史研究について」報告され、そのあと出席者が各人の研究テーマや史料の所在などについての情報を交換しあいました。


2. 結成直後の活動

 この第2回懇談会を機に、研究会は正式な発足に向けて急速に動きます。塩田氏が精力的に働きかけた結果、絲屋寿雄、大河内一男、塩田庄兵衛、帯刀貞代、田中惣五郎、田中豊喜、長谷川博、逸見重雄、村山重忠、渡部義通の10氏が発起人となり、労働運動史研究会結成の呼びかけが出されました。1957年7月13日、この呼びかけに応じて集まった40人余によって、発会式と第1回の研究会が開かれました。会場は法政大学の見付会議室、すごいおんぼろ校舎でした。何しろ暑い日で、私は会場校の大学院生でしたから、生協食堂から氷をもらって大やかんで冷水をサービスしたり、足りない椅子を運び込んだりで大忙し、報告はほとんど聞けませんでした。当日、会長大河内一男、事務局長塩田庄兵衛、事務局員として高橋洸、中林賢二郎、増島宏、大原慧、栗木安延氏ら10人が選ばれ、私もその末席に連なりました。
 正式発会までの経過が示しているのは、労働運動史研究会が、立場のちがいをこえて、広く労働運動に関心を抱く人の全国的な組織をめざし、慎重な準備を進めた事実です。その後選任された評議員に関西や九州の研究者が加わっていることにも、そうした配慮がうかがえます。
 準備会時代から数えて最初の5年間(1956〜60年)は労働運動史研究会が一番活力に満ちていた時期でした。とくに1959年から60年は活発でした。機関誌はほゞ1カ月おきに発行され、第15号(1959年5月)以降は大月書店から発行され、これまでのガリ版から活版となり、一般書店の店頭にも並ぶようになりました。例会は毎月開かれ、出席者も毎回30人から40人という多数でした。1960年には分科会も開かれるようになります。会員数は発会当時の50人から、1年後には105人、2年後には230人、3年後には300人といったテンポで増えました。機関誌や例会、分科会のほかにも、労働運動史研究会が編集解説を担当した『明治社会主義史料集』が明治文献から刊行されました。この復刻は『平民新聞』『社会新聞』など、これまでは東大の〈明治新聞雑誌文庫〉にでもいかなければ使えなかった明治期の社会主義運動主要機関紙誌が全国どこででも利用できるようになり、研究の前進に大きく貢献すると同時に、その後の復刻ブームの先鞭をつけました。さらに大原慧、小松隆二氏らをはじめとする大逆事件研究も活発におこなわれ、再審請求運動から「大逆事件の真実を明らかにする会」の結成へとつながりました。また会員が分担執筆した『学習の友』誌の連載講座も『日本労働運動の歴史』として三一新書の1冊として出版されました。さらに1960年にはストックホルムで開かれた「社会運動と社会構造の歴史に関する国際委員会」に研究会の代表として塩田事務局長を派遣しました。
 1950年代末から60年にかけては、研究史の上でも注目すべき作品がいくつか生まれています。また従来の研究に対する方法的な批判もこの時期にあいついで生まれています。そのすべてが労働運動史研究会の活動の成果というわけではありませんが、研究会の存在が少なからぬ影響をもっていたことは確かです。たとえば、第7号、第15号、第25号での大河内会長の問題提起的な報告とこれに対する高橋洸(第16号)、矢島悦太郎(第26号)両氏の反論とそれをめぐる討議は、それまで社会主義運動史中心であった労働運動史研究の視野を拡げ、その後の研究動向に大きな影響を及ぼしたものでした。


 3.財政基盤の弱体=日評時代

 しかし、研究・出版活動の活発さにくらべ、それを支える研究会の財政的な基盤はきわめて弱体でした。ガリ版時代の1958年4月、正式発会から1年もたたないうちに研究会は財政難に陥ります。このころ塩田事務局長は病気療養中で、高橋洸さんが事務局長代行でしたが、第10号の「事務局だより」で、会員105人中48人が月50円の会費を未納し、滞納総額は1万1200円、機関誌2回分の発行・発送費に相当すると訴えています。こうした状態はその後も続き、研究会が最も活動的だった60年、61年でも会員の半数は会費未納でした。それでも活発な活動を展開することが出来たのは、機関誌が大月書店の危険負担で発行され、しかも研究会には編集費さえ支払ってくれていたからでした。しかし1961年2月、大月書店から『労働運動史研究』の刊行返上の申し出があり、矛盾はいっきょに表面化しました。
 会は大河内会長、塩田事務局長を中心に、何回か評議員会や事務局会議、さらには両者の合同会議を開いて対策を協議しました。一部には(他ならぬ私自身がその一人だったと記憶しますが)以前の謄写版印刷に退いて無理のない運営をしようという意見でしたが、最終的には会費を月100円に値上げし、さらに20万円の基金カンパを呼びかけて活版での機関誌発行を継続することに決まりました。幸い日本評論新社が第27号から発行を引き受けてくれ、半年間の中断で機関誌は再刊されました。ただ大月時代とちがって、日評は印刷と販売の世話をしてくれるだけで事実上の自費出版でしたから、製作費と売り上げ代金の差額は会が責任をもって買い上げなければなりませんでした。製作面でも会の負担が増えたため、これまでは事務局員や都立大の塩田ゼミの学生である栗木安延、村口康雄らの無償奉仕、それにきわめて低額のアルバイト(津田さん)に頼っていたのを切り替えて、松下美那子さんに専従事務局員になってもらうことも、この時に決まりました。「専従」とはいっても月給1万3000円の低賃金でしたが。
 この「自費出版」による『労働運動史研究』の発行は約2年間、第27号から第37号までの11号続きます。しかし、この間に財政はさらに悪化しました。会費滞納額は1961年12月末現在で7万9700円でしたが、1年余り後の1962年5月末には16万4000円とふくれあがりました。日本評論社への誌代支払いが30万円も滞ったため、第37号でこの形態での機関誌発行をストップせざるを得なくなってしまいました(この日評への借金は最終的には21万円余で、大河内会長と塩田事務局長が頭を下げて、11万円の返済で勘弁してもらっいました。結局、本当の自費出版ではなかったわけです)。
 この時期の研究会で目立った成果をあげたのは、松尾洋さんを中心にした大正期分科会です。友愛会から総同盟、さらには純労働者組合や南葛労働会と亀戸事件、総同盟分裂などについて、多くの関係者を集めて系統的なききとりをおこない、貴重な証言を残すことができました。


 

4、労働旬報社時代

 1963年8月から65年4月まで『労働運動史研究』は2年足らず発行をストップしました。といっても、研究会活動は比較的活発に続き、毎月の例会は開かれ、機関誌に代わる『労働運動史研究会ニュース』を5号出しています。ニュースの他にも1964年8月には北京シンポジュウムヘ向けての特別号「日本・中国・朝鮮の労働運動・解放運動における相互関係」を刊行しました。なお、北京シンポジュウムには塩田事務局長を派遣し、その準備のための分科会も開いています。
 65年5月、機関誌は再び隔月で刊行され始めました。言うまでもなく労働旬報社の好意ある援助によるものでした。労働運動史研究会が財政的な危機をのりこえ、25年間まがりなりにも存続しえたのは同社の援助、とりわけ同社編集部の川崎忠文、佐方信一両氏の献身的な援助に負うところが少なくありません。大月書店編集部の江口繁雄、江口十四一の両氏とともに、この機会に改めてお礼を申し述べたいと思います。
 機関誌が労働旬報社の発行になってから、研究会の財政はようやく立ち直り始めました。第1には発行條件が基本的には大月書店時代と同じになったからです。研究会の義務は、編集企画と原稿を集めるところまでで、あとの製作と販売は労働旬報社が責任をもってくれることになりました。1号1万5000円の編集費も支払ってもらえることになりました。第2に、この機会に、これまで会費滞納の大きな原因となってきた単なる雑誌購読者としての会員を整理し、これらの人には旬報社から直接購読してもらうことに改めたことです。会員は例会などに参加する人を中心にし、会費も年額1200円から1800円に引き上げました。こうした方針を決めたのは65年1月の総会ですが、この時から、従来の事務局員制をやめ運営委員会が設置されました。研究会創立当初は、塩田事務局長の統率下で会の運営の実務を担っていた事務局員の多くは「失業」あるいは「半失業」状態でしたが、それもこの頃までには皆どこかに就職し、実務は次第に専従事務局員に頼るようになっていました。ですからこの名称変更は、実態にその名をあわせたものといえます。この頃の事務局員ですぐ思いおこすのは石井弥二郎さん、坂田和恒さんです。お二人とも戦後の運動の一翼を担った東芝労連の元役員で、東芝労連の闘争史をまとめたいという宿願をもって研究会に参加され、縁の下の力持ちとして会の実務を担って下さいました。ところがお二人ともその志なかばで、石井さんは63年の国電鶴見事故で、坂田さんは66年の全日空羽田沖事故で亡くなられました。評議員として研究会を支えて下さった田中惣五郎先生とともに、忘れ難い方々です。なお機関誌の第28号は田中先生の追悼号、30号と43号には石井、坂田両氏の論文が掲載されています。


 

5、機関誌の単行本化

 研究会の歴史で大きな転換点となったのは、60年代後半の機関誌の発行形態の変更でした。これまでB5判48ぺージの雑誌を隔月に出していたものを、A5判の単行本形式に改めるというものです。この提案は、66年8月に発行所の労働旬報社から提起されたもので、内容の充実と同時に、長期にわたって販売が可能であることなどが改革のメリットとして指摘されていました。運営委員会はこれについて何回か検討をおこなった末これを承認し、1966年暮の総会に正式に提案します。しかし、その場では決定を持ちこし、翌67年3月に臨時総会を開いて最終的に承認するという運びになりました。実際に刊行されたのはさらにその翌年68年4月のことで、第48号として『統一戦線の歴史』が刊行されました。
 この単行本形式への転換は、研究会の発展に大きく寄与しました。あとでふれるようにマイナス面もなかった訳ではありませんが、すくなくとも当初はプラス面の方が大きかったといってよいと思います。ページ数の大幅な増加、印税方式での原稿料の支払い等によって、力の入った本格的な論文や、布施辰治の『生きんが為に』のような内容のある資料を掲載しうるようになりました。また、毎回、特集号を組むことで、例会のテーマも系統的になり、それまで余り注目されてこなかった課題を集中的にとりあげ、かなりの成果をあげました。たとえば、『統一戦線の歴史』や『日本の統一戦線運動』は、労働運動史研究会だけでなく、日本の歴史学界全体でひろく問題にされた人民戦線運動史研究のきっかけを作ったものでした。さらに、戦後労働運動史は雑誌時代から労働運動史研究会が力を入れてきたテーマでしたが、50号、53号から58号、61号と単行本時代の半数は、この課題にかかわるテーマを特集しています。とりわけ占領期の研究は先駆的な役割りを果したといってよいのではないでしょうか。この時期に、編集面で活躍されたのは中林賢二郎、松尾洋、高橋彦博、渡辺悦次の各氏で、なかでも中林さんのイニシャチブは大きかったと思います。この時期に『労働運動史研究』に発表された論文をもとに、犬丸義一、神田文人、高橋彦博、中林賢二郎、増山太助氏らがそれぞれ著書をまとめられたことにも、機関誌が単行本化したことの成果の一面がうかがえます。また、単行本化によって読者数も1000人台から2000人、3000人台へと増え、研究会の存在とその成果を広く知らせることになりました。
 さらに研究会にとって大きかったのは、財政面でのプラスです。印税の1割は編集費として研究会の収入になりましたが、号によっては再版、3版と版を重ねましたから、年によっては会費収入に匹敵する比重を占めています。



 6. 研究会の活力低下

 しかし、1970年代に入ると研究会の活力の低下傾向が次第にはっきりしてきます。年2回の予定であった機関誌は、72年以降、事実上年1回になってしまいました。単行本化を決めた時、機関誌とは別に会員への連絡用に出すことを決めていた『研究会ニュース』も、長くは続きませんでした。さらに、例会も72年は年4回、73年5回、74年4回と、それまでの半分以下になってしまいました。総会にいたっては、67年3月の臨時総会後は70年暮、75年6月と規約で決めた年1回開催が守れず、大きく間があいてしまいました。
 活力低下の理由はいくつかあります。その1つは68年から70年代前半にかけての大学紛争の影響です。会員の多くがその渦中にありました。第2には、そして直接的にはこちらの方が大きかったと思いますが、73年に塩田事務局長が都立大学を退職され、さらに翌年には京都に移られたことでした。また1974年に事務局員の小林英夫さんが都立大学から駒沢大学に移られたため、会は創立以来の事務所を失ってしまい、一時的に労働旬報社に事務所を置かせてもらうほかなくなりました。この問題は、75年6月の総会で、事務局を中央大学に移すことが決まり、事務局長に島崎晴哉さんが就任されて、ようやく解決しました。この総会では、同時に、名誉会長に大河内一男氏、会長に塩田庄兵衛氏を選任すると同時に、いろいろ論議の末に評議員制を廃止しました。島崎事務局長のもとで例会は再び定例化し、機関誌も第58号以降きちんと出るようになりました。なお、私は1976年から78年にかけて日本を離れていましたので、実は、この間のことはよく知りません。ところが、中央大学が神田から八王子市に移転したため、1978年6月から事務局は法政大学大原社会問題研究所に移り、私が事務局長を引きうけざるを得ないことになりました。
 私が事務局を担当するようになってからの最大の問題は、言うまでもなく『労働運動史研究』の休刊です。機関誌の売れ行きは、70年代後半には次第に減少傾向をたどっていました。労働問題関係の図書が一般に売れなくなっていたのに、私が事務局長になってから、いくらかは意識的に売れ行きを落すようなアカデミズム指向の編集方針をとったものですから、旬報社も見切りをつけたのだと思います。1980年10月の第63号を最後に『労働運動史研究』の刊行を休止せざるを得ない事態に追いこまれました。
 『労働運動史研究』の刊行ストップは研究会の看板を失い、広い読者とのつながりが切れてしまったことですから、会にとって大きな痛手でした。若手研究者の力作の発表の場としても、次第に重きをなしつつあった時だけに残念でした。こうした事態を招いた事務局長の責任は大きいと思います。しかし、今すぐに、これを復活させる見通しはつかないので、このマイナスを長期的にプラスにする方向を考えるほかないと思います。
 機関誌を単行本形式にし、さらに機関誌購入を会費と切り離して会員でも機関誌の購読義務をもたないようにした〔75年総会〕ことは、財政面ではたしかにプラスでした。しかし、これは例会に出てこれない人、とくに地方会員を会そのものから切り離す結果となりました。そのため、研究会が当初意図していた、また雑誌時代はある程度それに成功していた労働運動史研究者の全国的な連絡・協力組織としての性格は薄れました。意識的な会員拡大の努力が弱まったことも否定できません。会員の固定化が機関誌執筆陣を固定化させ、結果的に外部から見た研究会のイメージを幅の狭いものにした傾きがなかったとはいえません。その意味では『労働運動史研究』の休刊を機に、タイプ印刷の『会報』に切り換えたことは、研究会が再び全国的な労働運動史研究者の連絡・協力組織として生まれかわる条件をとりもどしたといえます。地方史、民衆史、社会史などの発展は、25年前とは比べものにならぬほど数多くの労働運動史研究者を全国に育てています。創立25周年のこの機会に、もう一度、全国の研究者に呼びかけて、研究会をもう一まわり大きくすることを考えたいと思います。


 本稿は、1982年11月6日に開かれた労働運動史研究会の例会報告をまとめたものです。
初出は『労働運動史研究会会報』No.5(1983年4月)ですが、オンライン版への掲載にあたって加筆しました。



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