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労働関係研究所の歴史・現状・課題


二村 一夫





     目  次



はじめに

 本誌はここに第400号を発行することになった。これを記念して、われわれは「労働関係研究所の現状と課題」を特集することとした。さいわい多くの研究機関がこの企画にご協力くださり、それぞれの研究所の歴史と現状、さらに今後の抱負などについてご論稿を寄せてくださった。ご多忙の中を協力くださった各位にあらためてお礼申し上げたい。なお、この他にもいくつかの研究機関に寄稿をお願いしたのであるが、種々の事情で実現しなかったところがある。
 この特集の目的は、日本の労働関係研究所が置かれている現状を知り、いかなる課題をかかえているかを明らかにすることにある。それぞれの研究機関は、独自の歴史をもち、個性をもっている。多くの研究所は、財政上の制約や施設の狭さなどさまざまな問題をかかえながらも、それぞれ独自の条件を生かして活動をつづけておられる。われわれも、この機会に、自らの置かれている位置を再確認し、今後の方向を考えたいと思う。
 ただ、今回ご寄稿いただいた個別研究所についての紹介だけでは、日本における労働関係研究所に関する全般的な状況を把握するのは難しい。そこで、本稿は、いわば総論的な意味あいで、戦前から今日にいたるまでの、日本における労働関係研究所の歴史をふりかえり、最後に全体に共通する問題点について考えてみたい。筆者の個人的な事情から、調査に十分な時間をさくことができず、身近で利用可能な文献だけにたよって執筆しているので、不正確な点が少なくないであろう。いずれ機会をえて改めたいと考えているので、率直なご批判、ご叱正をたまわりたい。



1 第一次大戦後に生まれた研究所

   日本の労働関係研究所の歴史は1919(大正8)年にはじまった。この年 2月、大阪に大原社会問題研究所が、12月には東京に財団法人・協調会が誕生したのである。さらにその2年後の1921年 7月には、大原社会問題研究所の社会衛生部門が独立して、岡山県倉敷に倉敷労働科学研究所が設立された。第一次世界大戦前後のこの時期に労働問題の調査研究をテーマとする機関があいついで生まれた背景には、いうまでもなくロシア革命をはじめとする世界史的な大変動があり、日本国内でも、戦中戦後にかけての労働争議の頻発、1918年の米騒動、さらに1919年にはILOの設立とも関連して労働組合があいついで誕生するなど、労働問題の重要性がひろく認識されるようになったことがあった。
 また他方では、紡績業をはじめ日本の産業が第一次世界大戦を機に急成長をとげ、直接生産につながらない文化活動にも資金を投ずるだけの余裕が生まれていたからでもあった。
 大原社研の創立から 5年後の1924(大正13)年 3月には、東京に産業労働調査所が創設された。さらに1927年 7月には社会思想社の同人らによって社会経済研究所が誕生し、また1928(昭和 3)年 8月には、日本労働総同盟会長の退任を 2年後にひかえた鈴木文治が、内外社会問題調査所を創立した。これらの調査機関は、大原社研や協調会とは異なり、社会運動家の側が、労働・社会運動の一環として設立した組織で、労働組合運動、社会主義運動の日本における本格的な展開を象徴する出来事であった。
 当然のことながら、これらの研究機関は、その設立の目的も異なり、その歩んだ道すじもさまざまであった。そこでまず、いまあげた6つの研究機関について、その特徴、成果や問題点を概観することから始めよう。なお、各機関の名称の前についている★は、今回ご寄稿くださった機関であり、☆はそれ以外の機関である。




大原社会問題研究所

 大原社会問題研究所の研究活動の特色は、各研究員がそれぞれの問題関心にもとづいてとりくんだ個人研究の先駆性にあったといってよい。あえていえば、戦前期の大原社研は「高等学術研究所」として機能していたのである。所主の大原孫三郎が主要な研究員はすべて外国に留学させ、給与なども帝国大学を上回る条件であったこと、さらには森戸事件の影響などから東京帝国大学などからすぐれた人材が集まったこと、さらに運営を一任された所長・高野岩三郎の方針がこうした先進的な研究を可能にしたのであろう。各研究員の名前と、その主要な研究テーマを記せば、つぎの通りである。
 高野岩三郎の社会統計学研究、櫛田民蔵・久留間鮫造のマルクス経済学研究、森戸辰男の社会主義運動史研究や女性労働問題研究、権田保之助の娯楽研究や家計調査、大林宗嗣の社会調査、高田慎吾の児童問題研究、細川嘉六の帝国主義研究や米騒動研究、笠信太郎のインフレーション研究、内藤赳夫の片山潜研究など、いずれもそれぞれの分野における先駆的な研究であった。  また古典の翻訳紹介も見逃しえない。ウエッブ夫妻の『産業民主制論』『大英帝国の社会的構成』、ビアトリス・ポッター(ウエッブ)『消費組合発達史』、マルクス『剰余価値学説史』、同『資本論』主章などである。さらに後のことになるが、戦時下の大原研究所を支えた仕事は、エンゲル、ズュースミルヒ、ペッティー、クニースなど統計学の古典の翻訳であった。
 ところで、こうした個人研究の活況にくらべ、戦後の労働関係研究所の主要な研究手法となる組織的な調査について、大原社研はそれほど積極的ではなかったかにみえる。研究所として組織的に取り組んだ調査としては、毎年実施した労働組合調査、消費組合運動調査、労働者教育に関する調査があげられる程度である。これらは、いずれも『日本労働年鑑』編集のために行われたものであった。
 研究所の英語名称が社会調査研究所(Institute for Social Research)であり、所長の高野岩三郎は日本における社会調査の第一人者であったこと、さらに日本最初の本格的な社会調査として知られた〈月島調査〉を担った権田保之助、後藤貞治らが研究所の中心メンバーとなったのに、なぜ〈月島調査〉を発展させる調査活動がおこなわれなかったのであろうか。ひとつには、研究所発足後も〈月島調査〉のとりまとめが完了せず、その作業自体が研究所の業務の一部となったことが考えられる。また月島調査につづく〈浅草調査〉は、娯楽研究に関心をいだく権田のイニシャチヴによるものであったが、その意義について高野はじめ研究所の中心メンバーが、かならずしもその意義を理解しえなかったためでもあろう。鶴見俊輔が指摘するように、大原研究所の主流をしめた人びとの間に〈原書文化〉ともいうべき理論偏重の傾向がなかったとはいえない(『権田保之助研究』)第4号)。
 もっとも、研究所として組織的にとりくんだものではないが、研究員が個人的に実施した社会調査がいくつかある。たとえば、大林宗嗣は大阪市の公園利用状態の調査、女給の実態調査、あるいは堺市の家庭内職に関する調査などを実施している。また北沢新次郎は『東京における機械工業の熟練工としての仕上げ工並びに旋盤工の賃金調査』をまとめている。
 ただ、ここで指摘しておきたいのは、日本の労働調査に影響を及ぼしたのは、多数の調査を実施した協調会ではなく、大原研究所であった。戦前の労働調査の特徴は、生産現場に関する調査よりも生活実態についての調査、とりわけ家計調査であった。1920年代は〈家計調査ブーム時代〉と呼んでよいほど多数の家計調査が実施された時期であった。東京、大阪、京都、神奈川、名古屋、横浜、広島などの府県や大都市、あるいは長崎造船所、八幡製鉄所、横須賀海軍工廠、広島陸軍被服廠、美唄炭鉱などの大企業で家計調査がおこなわれている。さらに、1926年 9月から27年 8月にかけて、内閣統計局によって7856世帯が参加し1年間におよぶ全国規模の家計調査が実施されたのである。こうした〈家計調査ブーム〉のきっかけをつくり、促進したのは明らかに高野や権田の業績であった。多数の調査を実施した協調会から労働調査方法論が生まれなかったのに対し、大原社会問題研究所はこれを問題にしたことも注目さるべきであろう。高野岩三郎「我国に於ける社会事実の調査方法に就て」(『月刊大原社会問題研究所雑誌』第 1巻第 1号)、「我国に於ける統計的調査の二典型としての国勢調査と家計調査」(『月刊大原社会問題研究所雑誌』第 2巻第 7号)、権田保之助「本邦家計調査」(高野岩三郎編『本邦社会統計論』)などがそれである。
 もうひとつ大原社研が研究所として重視した研究図書館・資料館としての機能についてふれておきたい。研究員を海外に派遣してまで文献収集に力をいれたことはよく知られているが、専門図書館・資料館としての活動で重要なことは、図書を一般の利用にゆだねたこと、さらには文献目録の作成など参考書誌の充実をはかったことである。後者については、図書室と資料室が共同で毎月「社会問題関係主要雑誌記事目録」を作成して『大原社会問題研究所雑誌』などに掲載したほか、『日本労働年鑑』にもこれを採録している。さらに司書の内藤赳夫は、『日本社会主義文献』や『マルクス邦訳文献目録』といった日本の書誌学の歴史において注目すべき業績をあげたほか、「社会主義文献目録の所在」と題する論稿をまとめ、内外の社会主義文献目録多数を紹介している。
 資料室の後藤貞治も「政治・経済・社会日誌」を編集したほか、『本邦統計資料解説』をまとめている。事務職員として採用された内藤赳夫、後藤貞治らがこうした成果をあげえたのは高野所長が彼らをたんなる研究補助者としてではなく、研究の一翼をになう専門職として遇したからであることを見落としてはならない。図書主任の森川隆夫の身分は研究員であったし、森川の後をうけて図書室主任となった内藤、資料室主任となった後藤の2人も、出勤時間や日数などの勤務条件は職員と同じであったが、身分は研究員として処遇されたのである。





☆協 調 会

 協調会は、内務大臣・床次竹二郎が主唱し、渋沢栄一ら財界関係者がこれに協力して創設された財団法人である。その基金は、国庫補助金200万円に加え、三井・三菱両財閥から各100万円、その他の企業や財界人が353万1300円余、総計750万円余であった。財団の目的は「社会政策に関する調査研究をなし、並びにその実行を期し、進んで事業主と労働者との協同調和を図る」(寄付行為第2条)ことにあった。この設置目的が示すように、協調会は調査研究機関であると同時に、労資協調の促進をはかるという実践的な性格をあわせもっていた。
 創設直後の協調会の二大事業は、1920年4月に開設した社会政策講習所(1923年に社会政策学院と改称)と、同じく1920年6月創設の中央職業紹介所(翌年中央職業紹介局と改称)であった。社会政策講習所は、中学卒業以上の者か、「官公署又は事業主の推薦に由る者」を対象に、5ヵ月間の短期講習をおこなうものであった。また、中央職業紹介所は、全国各地で設立されつつあった職業紹介所の中央連絡機関であり、労働統計の整備や職業紹介事業の育成にあたった。しかしこの事業は、1923年3月の社会局の設立にともない同局に移管され、協調会の職業紹介活動は3年足らずで終わった。このほかにも、協調会は「労務者短期講習会」を開いて工場労働者を合宿させ精神修養的訓練を実施し、労働者教化雑誌『人と人』を発行した(1921年 4月創刊)。
 さらに協調会は、共同印刷争議、日本楽器争議、野田醤油争議など、かずかずの大争議の調停をおこなっている。また「労働委員会法制定に関する建議」や「労働組合法案」の提唱、「社会政策に関する行政事務統一機関設置に関する建議」など、さまざまな労働関係法案についての改正意見をあいついで発表している。1938年には、産業報国連盟の設立を提唱し、その母体となったことも見逃せない。このように協調会は単なる「調査研究」機関ではなく、研究はその活動の一部にすぎなかったのである。
 とはいえ、協調会の調査研究機能を過小評価するわけにはいかない。なによりその職員は、戦後の解散時においてさえ61人の多きを数えた。予算規模は1921年度において経常部74万円余、臨時部50万円余と、経常部の年間予算だけでも大原社会問題研究所の10倍前後である。東京芝公園内にあった1217坪の協調会館のほかにも大阪や福岡に支所を設けるなど、施設面でも大原社会問題研究所をはるかに上回っていた。『社会政策時報』『労働年鑑』『海外労働年鑑』などの定期刊行物のほか、30年間に約700冊の単行書を刊行するなど、労働問題に関する出版活動でも、協調会の実績は大原社会問題研究所をはるかにしのいでいる。
 創立当初の研究・調査活動は「英国の労働組合の法律上の地位」、「米国に於ける職業紹介所」といった外国の労働事情、とりわけ労働問題に対する法的、制度的な施策の紹介が中心であった。日本の労働事情に関する調査としては、中央職業紹介所による失業調査以外にあまり見るべきものはなかった。しかし1921年以降、協調会は独自の調査活動を本格化させている。
 すなわち1921年5月に「俸給生活者及び職工の生計費調査」が始められた。さらに注目されるのは労働課の職員によって実施された、主要産業別の労働事情調査である。その成果は、順次『社会政策時報』に掲載され、その一部はパンフレットとしても刊行された。対象となった産業と筆者を掲載順にあげれば、つぎの通りである。
機械工業(草間時光)、石炭鉱業(橋本能保利)、海員(岡得太郎・長谷孝之)、化学(吉田寧)、鉄道(小林鉄太郎)、紡績(桂皋)、燐寸(吉田寧)、金属鉱業(橋本能保利)、製糸(桂皋)、電車(岡得太郎・広池千英)、印刷(草間時光)、造酒(吉田寧)、製糖(広池千英)、醤油(吉田寧)、製鉄(橋本能保利)、造船(吉田寧)、製陶(吉田寧)、セメント(児玉兼道)、鋳物(石原太蔵)、自動車従業員(秋山斧助)。
 以上見るとおり、さまざまな産業の労働事情を網羅的に調査しており、その点では『職工事情』の伝統をつぐ調査というべきであろう。にもかかわらず、協調会調査があまり注目されなかったのはなぜであろうか。もちろん、『職工事情』はまとめて刊行されたものであるのに、協調会の調査は『社会政策時報』に十数年にわたってとびとびに連載されたものという違いがあろう。しかし、協調会調査もパンフレットや単行本形式で出たものもあり、利用の便という点では、『職工事情』よりはるかに良かった。また、この一連の調査の概要が『最近の社会運動』に収録されている。やはり主な理由は、『職工事情』に比べて、協調会の労働事情調査が質的にあまり高くなかったからではないか。なかには橋本能保利の製鉄業調査のように、かなりの時間をかけた労作もあるが、全体として十分な準備なしに調査にあたっている。月島調査のように、あるいは戦後の労働調査のように、複数の調査員がチームをくんで調査するのでなく、ただ各人を産業別に割り当てている。
 そのやり方も、主要企業の労務担当者等からの聞き取りが主で、労働者への面接調査やアンケート調査はほとんどなきれていないようである。ただ、職工事情では取り上げられなかった交通業(海員、鉄道、電車、自動車従業員)や地方的な産業(造酒、製陶、醤油、鋳物)についての調査は、歴史資料として貴重な内容を含んでいる。いずれにしても、協調会の労働事情調査を担当した労働課が、調査を専門とするのでなく、争議調停を本業と考えていたことが、これらの調査の質を規定したのではないかと思われる。
 協調会には、高野岩三郎のような社会調査について方法的な考慮をはらった専門家がいなかった。生計費調査や賃金などの統計調査を除けば、まだ労働調査それ自体が未発達であったということかも知れない。しかし、1930年代に入ると、協調会は、社会調査史の上で注目さるべき活動を行なっている。それは、昭和恐慌の深刻な影響を調査しその打開策を探る目的で、特定地域を選んで随時出張所を設け、長期的な調査を実施したのである。選ばれたひとつは伝統的に鋳物の町として有名な埼玉県川口町もうひとつは同じ埼玉県の北埼玉郡井泉村であった。調査は1932年4月に始められ1934年まで続けられた。なかでも農村課の調査は、社会調査史の上でもっと注目さるべきであろう。とくに重要と思われるのは、調査方法について意識的な検討を試みた『農村実地調査の仕方』(1932年)や『農村調査覚書』(1943年)が生まれたことである。






★倉敷労働科学研究所

 労働科学研究所は大原孫三郎の個人的な発意によって設立された民間の研究機関という点で大原社研と共通している。しかし、その研究分野と方法は大きく異なった。大原社研がどちらかといえばアカデミックな理論研究に重きをおいたのに対し、労働科学研究所は疲労研究や労働環境の改善をはかるための実際的な研究、生産現場における具体的な問題解決を意図したテーマを重視した。
 労働科学研究所の母体となったのは1919年2月に大原社会問題研究所と同時に発足した大原救済事業研究所の社会衛生部門である。救済事業研究所は、同年7月には社会問題研究所と合併し、社会衛生部門も大原社会問題研究所の一部門となった。この社会衛生部門の中心となったのが、医学士・暉峻義等である。
 この倉敷労働科学研究所発足のきっかけとなったのは、1920年2月に暉峻が倉敷を訪問し、大原孫三郎に案内されて深夜作業中の紡績工場の労働状態を視察したことであった。2メートル先もよく見えないほどのほこりの中で睡魔とたたかいながら働いている少女たちの姿に驚く暉峻に、孫三郎は労働環境を改善し、女工の健康状態を良くするための研究をしてほしいと依頼したという。感動した暉峻はこれを受け、その場で倉紡万寿工場の敷地内に研究室の設置が決定された。同年暮、大原社研社会衛生部門の独立がきまり、翌1921年7月に倉敷労働科学研究所は正式に発足したのである。
 労研創設当初の研究テーマは、大気条件の研究、工場疲労に関する研究など、孫三郎の依頼にこたえるものが主であった。しかし、間もなく暉峻の研究対象は紡績労働の枠をこえ、郵便事業の労働科学的研究、農業労働調査や海女の労働に関する研究へとひろがった。そしてついに1935年には、日本学術振興会の助成による国民栄養に関する調査へと拡大した。倉敷労働科学研究所は、単に一工場の付属施設でなく、工場経営から独立した労働科学の研究所としての性格を強めていったのである。そうした方向を象徴的にしめしたのは、1924年6月の『労働科学研究』創刊であった。もし倉敷労働科学研究所が、会社経営を優先する企業付属の研究所であったなら、機関誌は企業秘密を外部に公開するおそれのあるものとして、刊行を認められなかったであろう。じっきい孫三郎は、はじめ『労働科学研究』の刊行に反対であったという。しぶる孫三郎を暉峻が説得し、この労働科学分野の学術専門誌を誕生させたのである。これが、日本の労働科学を独自の学問分野として発展させる契機となった、といっても過言ではないであろう。





☆産業労働研究所

 1924年3月に創立された産業労働調査所は、日本労働総同盟の調査部長であった野坂参三が、イギリスの労働調査所(Labour Research Department)をモデルに設立した調査機関である。その「創立趣意音」は調査所設置の意義をつぎのように述べている。

 「労働運動の合理的発達を促さむためには正確にして且つ豊富なる資料に基き、確固たる将来の方針を樹立しなければならぬ。而して、かかる資料の蒐集整理は専門的調査機関をまって初めて完璧を期待し得るものである事は、茲に説く迄もなく明かである。過去に於ける我国の労働運動が、動もすれば現実を離れむとする嫌ひがあったのは、かかる調査機関の存在しなかった事に因ると云っても決して過言ではない。勿論、従来此種の研究所又は調査所が全然無かったのではない。然し乍ら、その多くは一部少数者の為めの、若しくは、単に調査の為めの調査機関に過ぎずして、一般労働者自身によって自由且つ有意義に利用せられ活用せられる事を目的とするものは無かったのである。〔中略〕産業労働調査所は広く労働運動の為めに必要なる諸問題、即ち政治経済、労働者状態、農民状態、社会思想、教育問題、婦人問題、社会事業、並びに国際問題に関し、周到綿密なる研究調査を行ひ、以て我国労働運動の正しき発展と促進とに資する事を目的とするものである」。

 創立当初は主事の野坂参三のほか、顧問に安部磯雄、賀川豊彦、鈴木文治、吉野作造、所員には赤松克麿、上条愛一らも名をつらねていたことが示すように、左右を問わず広範な立場の人びとを網羅した組織であった。しかし、間もなくおこった総同盟の分裂の影響をうけ、産業労働調査所は左派が主導するものとなった。
 産業労働調査所は、労働組合調査や労働組合の教育活動に関する調査などを実施し、1925年8月創刊の機関誌『産業労働時報』に発表した。同誌は1927年5月に停刊したが、1929年6月には第二次『産葉労働時報』が発刊され、1933年5月の第49号まで刊行した。このほか『インタナショナル通信』『インタナショナル』『産業労働通信』など活発な出版活動を展開した。
 しかし戦前期においては、労働組合自体が戦後とは比較にならないほど組織的にも財政的にも弱体であったから、労働組合運動の立場に立った研究所の維持は容易なことではなかった。商業出版物への寄稿や独自の出版活動による収入、それに有志から若干の寄付はあったが、研究所を支えたのは、きわて低い給与で献身的な活動を続けた専任所員と、多数の無報酬のボランティアであった。時期にって盛衰はあったが、所員の間から検挙者があいついだこともあって、1933年5月の『産業労働時報』第49号を最後に、創立後10年足らずで活動停止に追い込まれた。





☆社会経済研究所

 産業労働調査所が左派の研究機関であったのに対し、社会経済研究所は、事実上、中間派のシンクタンクともいうべき研究機関であった。その母体となったのは、有島武郎の遺産の一部を基金とて生まれた労働教育会である。同会は、はじめ労働者教育事業の後援にあたっていたが、1927年7月、「今日の我国労働運動の発展状態に於いては、労働者教育事業の後援よりも、調査機関の設置をより必要なり」として、この研究所を創立したのである。

「当社会経済研究所は日本の社会運動が渇望している現存社会の経済的機構の解剖を、如実なる、簡易な形に於て提供せんとするものに外ならぬ。もとより一党一派に偏するものでなく、況んや運動に対して横合から阻害的の発言を敢えてしやうとするものでない。拠つて立つ立場は公平、黙して資料を各団体の利用に委しやうとするのである。〔中略〕当研究所さし当たっての仕事は、日本の労働状態の調査、各種無産団体の調査資本状態の調査であり、これに関する調査報告は順次に刊行せんことを期している」(「社会経済研究所趣意書」『社会思想』(10) p.202)。

 経営委員には細野三千雄、吉野作造、高野岩三郎、安部磯雄らが就任し、主任として運営の中心なったのは丸岡重尭であった。同研究所は社会思想社の同人と密接な関係にあり、所内に農業網地方財政、帝国主義、協同組合、労働者教育などの委員会をもうけて調査をおこなう計画をたてた。そのうち、〈農業綱領調査委員会〉は、蝋山政道を委員長に審議をおこない、1928年 5月『社会思想』第7巻5号に、「農業綱領の基礎研究」と題する長文の中間報告を発表している。『社会思想』には、このほか「総選挙に関する資料」「主要無産政党一覧表」など無産政党運動をめぐる資料などを紹介している。しかし、1929年 3月中心人物であった丸岡が急逝し、『社会思想』も翌年 1月に終刊したことで事実上活動を終えたものと見られる。





☆内外社会問題調査所

 産労が左派労働組合と密接な連携をもっていたのに対し、右派の労働組合と関連のある調査所が、1928年 8月、鈴木文治によって創立された。その所員は、鈴木をはじめ亀井貫一郎、小山寿夫、山崎一雄などであった。しかし、実際には、この調査所は鈴木個人の機関、あえていえば「生活の資」という色彩が強く、労働組合運動と密接な関連をもっていたようには見えない。同調査所の創立趣旨は次にようにのべている。

 「我が国の社会、経済、政治等が、最近に到って愈々国際的の要素を益々濃厚に示しつつあることは、今更駑々する迄もない明らかな事実であります。〔中略〕この点に鑑みて、我々に課せられた役割の一端を果たさんとするに外ならない。即ち資本と労働との関係を中心として発生する種々の社会問題を主とし、産業、経済、政治その他の各方面に亘つて、世界各国の情勢を、最新の材料に基いて調査研究すると共に、その調査資料を普く迅速に同好の士に頒布することにより、我が国の国際的地位を正確に認識するの一助たらしめたい」。

 また、その事業としては、まず第1に海外の社会問題並に社会運動の調査研究、第2に我が国の社会問題並びに社会運動の海外紹介、第3に内外の政治経済社会其他時事問題の批判紹介、第4に調査資料の発行並びにパンフレットの刊行、をあげていた。事実、この調査所から刊行した『内外社会問題調査資料』は、主として海外の労働運動、社会運動に関する情報を紹介するものであった。この『内外社会問題調査資料』は、B5判40ページに満たない旬刊誌であったが、その購読料は甲種は1ヶ月50円(1ヶ年500円)または乙種で1ヶ月30円(1ヶ年300円)という高価なものであった。以上からも推測されるように、この内外社会問題調査所は、研究所というよりは海外の労働問題、社会運動に関する情報誌の発行所というべき機関であった。1941年、出版統制のため内外労働問題調査所は他社と合同し、内外労働研究所として再発足し、8つの情報誌の合同として、国内の労働情報を主とした『内外労働週報』を刊行した。しかしこれも1944年 4月、第603号を最後に廃刊した。





その他の労働関係研究所

 もちろん、以上の他にも、広い意味での労働関係研究所は第二次大戦前にもいくつか誕生している。本稿で詳しく取りあげることはできなかったが、参考までに、名称、創立年月、簡単な活動内容などを記しておこう。


☆社会事業研究所

 1919年11月、大日本仏教慈善財団によって、社会事業職員養成のため、東京築地本願寺内に設置された。


☆横浜社会問題研究所

 1922年6月、神奈川県匡済会の事業の一部として創立された。所長・左右田喜一郎。『日本労働組合法案研究』、『神奈川県に於ける労働運動』、『新カント派の社会主義観』などを社会問題研究叢書として刊行した。左右田所長が死去した翌年の1928年3月解散した。


☆産業能率研究所

 1922年11月に協調会内に設置された。その設立目的は、能率増進の方法の研究及び実施を促すことにあり、初代所長には文学士で『能率の心理』の著者・上野陽一が就任した。研究所の創立にさきだって上野は準備のために欧米に出張を命じられ、アメリカでテーラー協会の大会に出席するなど、産業能率の問題を勉強して帰国した。協調会のなかにこうした研究所が設けられた理由は、「能率研究は労働時間の短縮、適当なる休憩時間の設定、労銀の増加、福利増進施設の完成等労働者のために寄与すると共に、生産費の減少、製品の改良によって出資者の利益より、延いては消費者の利益をも計るのであるから、その結果は労資協調の実を挙げて、労働争議を未然に防ぐ方法としても役立つ」(『協調会史』p.60)というにあった。同研究所の所員には、増田幸一、荒木東一郎、佐藤富治らがおり、研究所が主催した能率技師養成会からは、上田武人、塩飽幸三らの能率技師がそだった。同研究所は、研究調査よりは講演会や能率技師養成講座など啓蒙・教育活動にかなりのエネルギーをさいていた。しかし1925年 4月、協調会の財政問題もあって、同研究所は協調会から分離・独立し、日本産業能率研究所となった。



☆大阪府立産業能率研究所

 1925年 5月に創立された。明らかに上野陽一の活動の影響によるもので、彼は研究所の顧問となっている。それに先だって、上野は大阪造幣局の臨時能率調査課長を兼務しており、大阪の諸工場にいるその弟子たちはNK会という研究会を開いていたのである。




☆社会事業研究所

 1934年11月、財団法人中央社会事業協会によって設立された。その目的は「社会事象並社会社会事業ニ関スル調査ヲ為シ且社会事業ノ発達ニ資スル施設ヲ為ス」ことにあった。1938年から39年にかけ、研究所は組織を拡充し、職員も増員され、戦時下で社会調査を実施しうる数少ない機関となった。その背景には1938年に厚生省が設置され、また社会事業法が公布されたことなどがあった。中央社会事業協会は、大学・専門学校卒業生を対象に社会事業研究生を募集したが、その研修の一環としておこなわれた農村調査には、当時研究所参与であった大河内一男も加わっている。なお、研究所の母体である中央社会事業協会は、戦後は日本社会事業学校の経営母体となったが、同校が専門学校、短大をへて現在の日本社会事業大学へと発展したことはいうまでもないであろう。




☆産業労働調査所

 1938年 9月、旬刊の労働情報誌『労務時報』の刊行所として設立された。こうした労働情報誌や労働関係図書の出版社で、研究所あるいは調査所の名を用いるものは、戦前戦後を通じ少なくない。その中には会社独自の調査を実施し、実質的に研究所としての機能ももち、労働問題の研究上で無視し得ないものもある。しかし、本稿では紙幅の制約もあるのでとりあげなかった。ただ、この産業労働調査所だけは、すでに紹介した著名な調査機関の〈産労〉と同名であること、また戦後の1970年 9月に、金子美雄所長のもと孫田良平、楠田丘を研究員とする〈日本賃金センター〉を同社の付属機関として創設したことなどから、とくに記すことにした。なお『労務時報』は戦後の1946年 2月に『労働週報』と改題し、現在も刊行を継続している。




2 戦時体制下における諸研究所


★大原社会問題研究所

 創立以来、大原社会問題研究所は大原孫三郎個人のポケットマネーで支えられてきたが、倉紡はじめ関連事業の不振もあって、孫三郎の周囲では、大原社研の経営から手を引くべきであるとの意見をもつ人がふえていった。結局、1936年になって、研究所は土地建物などの資産を処分し東京に移転し、規模を縮小して自立自営することなどで研究所関係者と孫三郎の間で合意が成立した。翌37年 2月、研究所は東京市淀橋区柏木に移転した。これに先だって多くの所員が退職し、残ったのは高野、森戸、権田、久留間、内藤、後藤、鈴木鴻一郎らだけで、最盛期の4分の1以下の陣容であった。大阪時代から継続された研究所の事業は『日本労働年鑑』の編集発行だけであったが、これも労働組合運動の消滅などで、1941年を最後に刊行を停止した。この困難な時期を、研究所は、主として統計学の古典やナチスに関する文献の翻訳で凌いだのである。



★倉敷労働科学研究所

 大原社研の窮状にひきかえ労働科学研究所は、その研究テーマの重要性が政府や産業界によって認識されたこともあり、さらに所長・暉峻義等の積極的な運営方針もあって、戦時体制下でむしろ大きく発展した。大恐慌の影響による倉敷紡績の経営不振から、1930年7月、研究所は会社の経営をはなれ、大原孫三郎個人によって維持されるようになった。ただ、すでに紡績労働に関する研究の枠をこえていた暉峻にとって、倉敷での研究所運営はマイナスと感じられるようになっていた。暉峻は大原孫三郎を説得し、研究所を日本学術振興会へ寄付することを承認させた。1936年、倉紡は日本学術振興会の労働科学研究所組織準備委員会に、労研の設備・図書の一切、さらに3年分の人件費と若干の維持費、また移転費用まで会社側が負担することを申し出て、労研の東京移転が決定した。同年11月、倉敷労働科学研究所は解散式を挙行し、15年の歴史を閉じた。
 これを受けて、1937年 3月には、東京・青山の仮住まいで日本労働科学研究所が発足した。39年暮には世田谷区祖師谷に本拠をえて、文部・農林・厚生・司法などの各省や満鉄、東芝、昭和製鋼などの企業や石炭鉱業連合会、日本人絹連合会などの産業団体からの委託による研究をすすめた。さらに1941年には、労研は大日本産業報国会に統合されその中央研究機関となったのである。この時期、労研は三井三池炭坑に分室、神奈川県成瀬村に農業労働調査所、栃木県筑波村に農業労働調査所、満州に開拓科学研究所をはじめ数カ所に分室を設け、常駐の研究員を派遣するなど、国策に応じたさまざまな研究をおこなっている。



★協調会

すでにみたとおり協調会は、単なる調査研究機関ではなく、内務官僚の主導による半官半民の団体として、積極的に労使関係に介入してきた。とくに1937年の日中戦争勃発後は、専務理事町田辰次郎が中心になって、産業報国運動の先頭にたち、産業報国連盟の結成を提唱したのである。1938年 7月に結成された連盟の本部は協調会内におかれ、会長、理事長、常務理事はじめ役員には協調会関係者多数が就任するなど、「協調会の事業と連盟の運動とは密接不可分の関係にありまして、形の上でこそ異なった団体では御座いますが、事実上は一体」であった。このため協調会内には、産業報国連盟をめぐって協調会を解体し連盟との合体を主張する勢力が増大した。存続か合体かをめぐって争われたが、最終的には1939年暮、連盟と協調会を明確に分離し、連盟事務局担当者は協調会職員を辞すことなどが決定された。協調会に残ったのは主として「社会政策に関する諸般の研究調査」を担当する部門と社会政策学院などであった。当然のことながら、この時点での協調会の研究活動は限られたものでしかなかったが、『社会政策時報』は、戦時下では数少ない、労働問題に関する学術的な研究誌として、戦時社会政策などをめぐり多くの専門家が寄稿し、日本の労働問題研究の歴史で無視できないものがある。




3 敗戦後の労働関係研究所

 敗戦後、労働運動の自由は保証され、インフレの昂進もあって労働争議は頻発し、組合の結成があいついだ。物価、賃金、生計費、失業など労働問題に関する基礎的な情報収集の必要が強まり、さまざまな調査研究機関が設立された。敗戦直後にいちはやく実績をあげたのは、戦前・戦中から活動していた研究機関やそこに働く人びとであった。すなわち、大日本産業報国会労働科学研究所、協調会、東亜研究所がそれぞれ改組・改称した労働科学研究所、中央労働学園、政治経済研究所であり、労研で働いていた安藤政吉がつくった日本生活問題研究所などであった。
 また、労働組合関係者などによる調査研究機関の創設もあいついだ。日本産業労働調査局、労働調査協議会、関西労働調査会議などである。古い歴史のある研究機関は、関係者の伝記や研究所史などもまとめられているので、ある程度その活動内容などはわかる。しかし、戦後誕生した研究調査機関はそうした記録がほとんどなく、関係者から聞き取りなどで正確を期す時間的余裕もないので、とりあえず各機関の機関誌などを通じて調べるにとどまった。


1) 戦前からの研究機関

 新たな状況に敏感に対応したのは、戦時中も調査研究活動を続けてきた研究機関の人びとである。事務所や図書資料など研究の基礎条件があり、人もいた。それら研究者の生活を支えるためにも調査研究活動をおこない、出版物を発行するなどして収入をうる必要があったためでもあろう。




☆中央労働学園

 1946年 7月、協調会は、占領軍により産業報国運動への関与を理由に解散を勧告された。協調会はやむなくこれに応じ、新たに財団法人・中央労働学園を創設して全財産をこれに寄付し、教育と調査研究活動の継続をはかった。
中央労働学園は、調査部や出版部と社会政策学院(専門学校、1949年より大学)を設け、『労働年鑑』の編集刊行をつづけたほか、労働問題研究誌『労働問題研究』を発行した。また、中央労働委員会と提携し、中労委事務局監修のかたちで旬刊の『中央労働時報』を編集・刊行し、労働委員会の活動状況などを報道した。そのほか、『給与体系の研究』、『産業国管と労働者階級』などの研究成果を刊行している。1950年 7月には学園内に労働問題研究所が設置され、『労働問題研究』は翌51年 2月号から同研究所の編集によって発行されることになった。しかし、実際はそのあと2号を出しただけで、同誌は終刊した。1951年 8月に中央労働学園大学が法政大学と合併したからである。また、『中央労働時報』は1951年 4月10日の第165号から、財団法人・中労委会館が刊行することになった。なお、中央労働学園大学は、1952年 4月から、法政大学社会学部として新たに発足し、旧協調会図書館の蔵書はすべて法政大学に帰属した。



☆政治経済研究所

国策研究所として活発に活動した東亜研究所は、敗戦によって、研究所の存続自体が困難であることが予想された。とりわけ1946年3月に福島県下に疎開していた蔵書が占領軍によって接収されたことがこの予測を裏書きしたかたちになった。このため、東亜研究所は、同月、自主的に解散を決定し、新たな情況に対応した研究所を再組織することで、その存続をはかろうとした。
 当初は、東亜研究所単独でなく、大原社会問題研究所、日本統計研究所、国民経済研究協会、中国研究所を統合し、一大総合研究所の設立構想が企てられていた。したがって、1946年10月に政治経済研究所が発足した際には、大原社研の森戸辰男、大内兵衝も理事に名を連ね、また戦災を免れていた駿河台の東亜研究所所有の政経ビルには、上記の4団体が事務所をおいていたのである。こうした計画の中心にいたのが労働法学者の末弘厳太郎であった。おそらく大原社研がその統合に加わることになっていたこともあり、計画段階の政治経済研究所は「農業、労働問題の調査研究を当面の任務とする」ことをうたっていた。実際、政治経済研究所の初年度のテーマのなかには「産業再建、労働問題並びに農業問題に関する諸資料の収集並びに調査」があった。
 労働関係の調査研究を担当したのは経済部のなかに設けられた労働班で、大友福夫、上杉重二郎らが中心であった。所長の末弘が実態調査を重視していたこともあって、政治経済研究所はいくつもの農村調査を実施したほか、紡織工場の実態調査をおこない、その結果を『婦人労働の基本問題』(中央労働学園、1948年)として刊行している。このほか『政経調査月報』などの機関誌に発表された労働関係の調査研究は、「農村における潜在失業の諸形態」「国鉄労働者の性格」「失業の存在形態」「東京都における失業問題の一断面」「解雇きれた農村通勤工の生態──失業調査のためのデッサン」などである。また、労働問題に関する啓蒙書として仝15巻の『労働問題全書』の刊行が計画され、その一部は実際に刊行された。
 なお、政治経済研究所の設立計画が検討されている過程で、「議会図書館設立のオルガナイザーたること」や「政治経済研究所はレフアレンス・ライブラリーとして出発すること」が論議されていたこと、「図書と研究員の不可分的関連」が主張されていたことも、見落としてはなるまい。



労働科学研究所

 1945年9月、大日本産業報国会の解散にともない、労働科学研究所も解散された。しかし、所長の暉峻義等は、その直後の1945年11月には文部省管轄の財団法人として労働科学研究所を再建した。機関誌『労働科学』も1946年1月には再刊され、さらに同年3月には啓蒙普及を目的とした雑誌『労働と科学』を創刊している。さらに、経営上の配慮もあって、九州の都城分室、大阪府浜寺の労働科学博物館、三菱美唄労働科学研究所を設立し、所員を派遣している。しかし、経営は困難で、いずれも短期間で閉鎖を余儀なくされた。本体の研究所も財政難になやみ、1949年には人員整理をおこない、研究室ごとに人件費の独立採算制をとるといった事態に追い込まれている。さらに1950年には、GHQにより解散団体であることを理由に、労働科学研究所の名称を変更するよう命令され、労働医学心理学研究所と改名させられ、講和条約の発効後にようやく旧名に復帰したのである。



大原社会問題研究所

 敗戦のわずか3ヵ月前、大原社会問題研究所は戦災によって事務所と書庫を焼失した。堅牢な土蔵に納められていた貴重書や原資料だけは焼失をまぬがれたが、箱詰めのまま山積みにされており、すぐ利用できる状態にはなかった。1946年5月、研究所は駿河台の政経ビルの一室に事務所をえて、活動を再開した。しかし研究員のほとんどが、さまざまな社会的要請にこたえて所外で活躍しており、研究活動の中心となったのは、久留間鮫造と戦後あらたに採用された上杉捨彦、舟橋尚道らであった。経済安定本部の委託による戦後労働運動の実態調査などをおこなって、『日本労働年鑑』再刊の準備活動をすすめていた。しかし、激しいインフレのため研究所の財政状態はきわめて困難な情況にあり、その存続さえ危ぶまれた。これを解決したのが1946年7月の法政大学との合併であった。財団法人大原社会問題研究所はいったん解散し、法政大学の付置研究所として再出発したのである。しかし、その1年後、外部からの研究費助成をうけやすくするため、財団法人法政大学大原社会問題研究所が設立され、かたちの上で学校法人法政大学とは別組織となった。



2)新たに誕生した民間労働調査機関

☆日本生活問題研究所

 1945年10月、元労働科学研究所の所員であった安藤政吉が中心となり、社団法人として創設された。会長には賀川豊彦が、理事長には大河内一男が就任した。安藤所長は、研究所設立の目的を、1946年3月に創刊した機関誌『生活問題調査時報』の創刊の辞で、つぎのようにのべている。

  「日本の今迄のやり方について見ると政治、経済、教育、文化等の汎ゆる面に於て、その方針なり政策なりが何れも非科学的でその場限りの糊塗策でしかなかった事を認めないわけには行かない。此糊塗策ゴマ化し(非科学性)が今日の敗北日本たらしめた事を強く認識せねばならない。この事は我々自身の日常生活についても同じであった。いい加減な家族本位個人本位の非社会的非科学的生活であったのである。否生活らしい生活さえなかったと云へる位である。我々は最早こうした科学に基礎を置かない政治、経済、教育、文化を鵜呑にするわけには行かないのである。われわれは生活の実態を究明し、生活に高い科学性と道義性を付与し、国民の勤労生活及消費生活を合理化し、民主化し、再び過ちを犯さぬように全力を傾注せねばならぬ。日本生活問題研究所は我々日本人の生活実態を客観的に究明し、国民生活の最も正しい在り方を具体的に研究し、日本再建のための生活計画の基礎資料を提供せんとして生まれたものである」。

 『生活問題調査時報』創刊号には、46年1月に実施された京浜地区25事業所の労働争議に関する調査が掲載されている。調査をおこなったのは、同研究所の所員、浦辺史、広田喜央、田村久子の3氏である。調査対象となった争議は1945年11月から46年1月に争議行為があり、すでに解決したものである。おそらく戦後の労働争議調査のうちで、もっとも早いものの一つであろう。第4号(1946年9月)、第5号(同10月)には、天達忠雄所員による「工場労働者の生活」と題する調査が掲載されている。1946年7月に、ある機械器具工場の労働者ら53人に村しておこなった面接調査の記録である。機関誌は、1948年5月の第16号から『生活問題研究』と改題したが、その直後の1948年10月に安藤氏が死去したためであろう、第19号(48年11月号)より『貸金と生計費』と改題し、大河内一男、篭山京、藤林敬三らが編集にあたった0そして、研究所を企業や労働組合を会員とする共同の調査機関としようとの計画を発表しているが、その成否は明らかでない。



☆日本産業労働調査局

 正確な創立年月は不明であるが、機関誌『産業労働調査月報』は1946年6月に創刊されている。しかし、機関誌に掲載された調査は、1945年12月に実施されているから、創立はそれ以前のことであろう。この調査機関の重要性を指摘しているのは、戦後の労働調査の草分けで、数多くの弟子を育てた、氏原正治郎である。彼は「私の調査の歴史」を回想したなかで、次のように述べている。

「私にとって非常に画期的なことは、1946年の春だったと思いますが日本産業労働調査局という奇妙な団体ができ、日本橋三越の五階の屋根裏みたいな部屋に住んでいました〔『労働調査論研究会中間報告(其の二)』〕。

 彼はまた、別の機会にも日本産業労働調査局について、つぎのように回想している。

 日銀にいた友人小林久好君が、どういうわけか辞めてきました。そして、「横山不二夫という人物が、日本産業労働調査局というものをつくり労働組合のための調査をやるという話だから、手伝ってくれないか」ということでした。……要するに横山さんの意図は、戦前・野坂参三がやっていた産業労働調査所みたいな、労働組合の調査機関をつくりたいということでした。ところが、産業労働調査所という名前で、戦前から現在に至るまで、労働関係の情報誌や書物を出版しているところがあります。同じ名前になっちゃ具合が悪いというので、〈産業労働調査局〉という妙な名前にしたということでした。ここには色々な人達が出入していました。私が記憶しているところでも、弁護士の森長英三郎さん、豊田四郎さん、守屋典郎さん、信夫清三郎さんなどが顔を見せていました。私は、これも正金銀行を辞めてきた沢木さん、その他の人達と調査をやり、私は労働調査を担当し、沢木さんは経営調査を担当しました。ここでやった調査には、東大だけでなしに早稲田大学などの社会科学研究会の学生が沢山参加し、助けてくれました。横山さんは大河内先生とも親しく、昭和二十三年の社研の労働調査の時も援助をうけ、その後も労働組合運動について教えてもらいました。

 この氏原の追憶は、当時、この調査機関を支えていた人びとの名をつたえており、貴重である。この研究所の機関誌『産業労働調査月報』は、大原社会問題研究所に、1946年6月の創刊号以降全号が揃っているので、その活動内容はいちおう分かるのだが、報告や論文はすべて無署名であるため、研究所を支えていた人びとの名はわからないのである。誌面から明らかになるのは、日本産業労働調査局の所在が、東京都日本橋室町1〜7三越西館五階であること、編集名義人は平野登志男であることなどである。なお編集名義人は1948年2月の第8号より信夫清三郎となり、発行所ははじめ解放社であったものが、48年4月、第9号から日本労農通信社出版部に、さらに同年12月の第16号からは浅間書房へとかわっている。しかし、どの出版社も経営的にうまく行かず、結局、1949年4月の第17号からは日本産業労働調査局が直接発行するようになっている。また、事務所も三越ではなく、駿河台の政経ビルに移っている。
 なお、『産業労働調査月報』の創刊号はすでに見たとおり46年6月発行であるが、第三種郵便物としての認可年月日は「昭和十三年八月一日」と記されている。明らかに、戦時中も刊行を続けていた雑誌を改題する形をとって創刊したものである。だが、何が前身であったかは誌面からはわからない。1950年5月の第4巻第6号から編集発行人が沢木宇吉に代わっている。氏原氏が「正金銀行をやめてきた沢木」と回想している人であろう。
 この日本産業労働調査局の最初の仕事は「労働者の思想動向調査」である。第1回は1945年12月に9つの事業所で働く1160人の労働者から、最低賃金制や8時間労働制、週休制、団体協約権、労働組合の経営参加、共産党、社会党への支持、そして天皇制について、その意見を聞いている。第2回は1946年3月、19事業所の1375人を対象に調査している。参考までにその他の初期の調査テーマと掲載号を記すと次のとおりである。
 「工場労働者生計費調査」(第2号)、「争議手段としての生産管理──3工場における実態調査」(第3号)、「電話局の作業と労働」「労働学校について」「工場新聞について」(第4号)、「退職手当制度について」(第6号)。
 1951年5月、日本産業労働調査局から「日本」をとって産業労働調査局と改称する。それと同時に事務所も政経ビルから有楽町の読売会館の一室に移転し、機関誌も『産葉労働調査月報』から『産業労働月報』と改題している。さらに、これより先の1950年10月に労働問題研究会が創刊した労働運動情報誌の『産業労働通信』(編集発行人・棚橋泰助)も、産業労働調査局が編集発行することになった。この頃には、すでに研究調査機関というよりも、労働運動の活動家を対象とした左派系の労働雑誌発行所という色彩が色濃くなっている。これは労働運動関係の雑誌、とくに調査誌によくみられることであるが、読者から「内容が難しすぎる」「数字ばかりで面白くない」といった苦情が寄せられている。労働組合の団体加入による会費収入によって支えられているのであればあまり問題にはならないであろうが、財政上の困難を部数拡大によって切り抜けようとすると、活動家や一般組合員にまで読者を拡大せざるをえず、こうした不満がでることは避けがたい。
 1954年1月、産業労働調査局を産業労働調査会と改杯し、同年12月には『産業労働通信』は廃刊きれている。1959年1月から『産業労働月報』を再度改題し『産業労働』となった。改題の理由は「数年前とは雑誌の性格そのものが変わってきているからで、以前の調査報告誌から、幹部、活動家むけの運動誌に変わってきているから」とされている。1962年はじめには経営状態が悪化し、定期刊行が困難となっている。同年8月 『産業労働』を『労働者ノート』と改題し、タイプ印刷で発行した。『産業労働』の時期にも多少その傾向はあったが、『労働者ノート』になると、日本の労働運動に関する論稿とともにイタリア共産党の構造改革についての紹介が増え、ますます運動誌の色彩が濃厚となっている。経営状態の悪化も、運動内における路線対立と無関係でなかったことが推測される。



☆九州産業労働科学研究所

 1946年6月に創立された。しかし、まだ「組織労働者農民の力は弱かったため、福岡県労働者協同組合の付帯事業とし、その経費も同盟に依存し、従ってその活動も活発とは言えぬ憾みがあった」。このため、1948年11月に「労働者農民勤労大衆の自主的調査研究・啓蒙機関確立のために──九州産業労働科学研究所再建について」と題する呼びかけがおこなわれ、12月から月2回刊の『九州産労時報』が発行された。事務局を担当したのは戸木田嘉久である。『時報』の執筆者は正田誠一、馬場克三、山中康雄ら九州大学の教授陣が目につく。1949年3月には、『九州産労統計月報』を創刊している。1955年現在では、会貞組合の会費は1単組あたり月500円で、『九州産労時報』と『九州産労資料月報』の無料配布を受けるほか、必要な調査を委託し、所蔵資料の閲覧などが可能である、とうたっている。『時報』こは炭労の委託による失業調査なども掲載されているが、調査研究誌というより、運動に関する情報誌、運動理論誌の性格が強い。



★労働調査協議会

 戦後誕生した労働組合の共同調査機関で、今日までその名称を変えずに存続している組織は数少ないが、そのひとつがこの労働調査協議会(略称〈労調協〉)である。労調協からはご寄稿いただいているが、その歴史についてはほとんどふれられていないので、この機会に機関誌から明らかになる限りで、その推移を見ておきたい。
 実は、く労働調査協議会〉という名をもつ組織は、現在の労調協が生まれる前にすでに存在していた。1946年10月に産別会議が中心となって組織した産業復興会議の内部組織である。この産業復興会議労働調査協議会が、現在の労調協と無関係でないことは後でふれる。
 今日の労調協に直接つながる組織が生まれたのは、1948年12月の『労働調査時報』の創刊によってである。ただし、この時には、機関誌は準備会の名で刊行きれており、正式な発足は翌年4月である。「創刊に際して」と題するあいさつは、冒頭で、「〈労働調査協議会(仮称)準備会〉が生れて一ケ月有余、われわれはここに『労働調査時報』の第一号を刊行することになった。準備会はまだ会費も徴収しておらないために財源に苦しみ、且つ未参加団体の組織活動、各専門委員会の確立などのために、わずか四名の事務局員は夜を日についでも尚足りぬ多忙の中でこの第一号は編まれた」と記している。その末尾に(1948・11・29M生)とあるから、準備会の活動が始まったのは1948年の10月と推測きれる。この文章を書いたM生は、おそらく編集発行人の宮原敏夫であろう。はじめ『労働調査時報』は定期刊行を予定せず、「出来るだけスピーディーに随時刊行」することを宣言している。興味深いのは、労働調査協議会の事務所も、日本産業労働調査局と同じ日本橋三越内であることである。
 1949年4月に、正式に結成総会が開催され、『労働調査時報』第8号はいったん準備会の名で印刷した上で、その箇所を抹消している。加入は労働組合の団体参加を原則としていたものとみられ、結成総会の呼びかけには、「ほとんど大部分の全国的団体の加入が決定を終了し、支部・分会・単組などの加入もぞくぞくとつづいておりますので、いよいよ左記により、ここに結成総会を挙行することになりました。」とある。結成総会において議案などを報告しているのは永野順造・安斉庫治・竹中久七の3人である。
 労調協の前身は産業復興会議である。そのことがわかったのは、労調協の内部組織のひとつである〈賃銀部会〉が1948年11月に開いた研究会を第108回と数えていることからである。同研究会について報じた記事は、これをつぎのように説明している。

 「賃銀部会の歴史は非常に古い。十月闘争のまっただなかに産復の労働調査協議会(現在の労調協とは別)として発生した。…‥この会合は給与審議会対策委員会して発展し‥…ついで産復の賃銀専門委員会と改称し、産復の主体が労働調査協議会準備会に発展的解消するまで、約ニヶ年間にわたり、ほとんど毎週会合をつづけた……一方、産別会議でも賃銀委員会を開催してきたが、この両賃銀委員会は労調協の賃銀部会へ合併発展したのである」。

 この賃銀部会で中心的な役割を果たしたのが永野順造である。なお、発足当時の労調協の部会は、賃銀部会のほか、企業整備部会、国際部会、法制部会・金融財政部会、中小企業委員会などがあり、各部会とも活発に活動している。たとえば、1949年、準備会の段階ですでに『労働調査月報』のほか、全労連との共同編集で『世界労働調査資料』を発行し、あるいは企業整備部会編で『迫りくる行政整理』、中小企業叢書『危機に立つ中小企業』、『中小企業危機の実態』などの単行書も刊行するなどである。以後の〈労調協〉の動向を年表風に記せばつぎのとおりである。

1951年 8月  事務所を三越より神田小川町へ移転。
    9月  あらたに『労働調査月報』を創刊。

1952年 4月  『労働調査月報』を『労調協調査月報』と改題。
    8月  同誌を関西労働調査会議との共同編集による両者の共同機関誌とし、同時に題号も『調査月報』と改める。
    9月  事務所を神田小川町より芝田村町に移転。当時の事務局長は芝寛。

1953年 1月  『調査月報』を『労働調査』と改題。
    9月 『労働調査時報』(旬刊)も第157号より関西労働調査協議会の共編となる。
1966年 6月  労調協『労働調査』創刊。すでに『労働調査時報』のほか『月刊労働運動』を出していたから、合計3つの雑誌を発行したわけである。 1967年 9月 労働組合のための調査・研究機関としての本務に徹するため、業務内容について大幅に改革を加える。
 最後の項にある「改革」は、具体的には『月刊労働運動』『労働調査時報』の配布を中止し『労働調査』一本にしぼることを決定したことである。ここで、今日の労働調査専門機関としての性格が固まることになった、と見てよいであろう。




☆西部産業労働調査所

 敗戦後、京阪神では、東京とは別個に、労働組合共同の労働調査機関設立の動きがあった。そのもっとも早い事例が、大阪に生まれた西部産業労働調査所である。
 この間の動向をもっとも詳しく伝えているのは、35年も前に編纂された『大阪地方労働運動史年表』である。以下、これによって、関連事項を摘記しておこう。

  1946年 4月  西部産業労働調査所設立。
         手島・内田、細野、名和、上田ら『西部産労時報』発刊。
  1947年 5月  西部産労、京阪神主要労組、大阪産研、兵庫労研、市大経研などの協力で、賃金調査連絡会議設立さる。事務局は西部産労が兼務。幹事 大交、国鉄、電産、全逓、西部産労(手島)、大阪産研(鈴木)。

 この西部産労が中心になり、つぎに紹介する労働組合の共同調査組織としての関西労調会議の結成となったようである。『年表』は、「1947年12月 関西労調会議結成の機運高まる」と記している。



☆関西労働調査会議

 これについても、『大阪地方労働運動史年表』がもっとも詳しい。主としてこれに依りながら、機関誌によって若干補足しよう。

  1948年 2月10日  関西労働調査会議創立、賃銀、労働協約など9部会を設ける。
          西部産労は実質的に解消。幹事国鉄など15労組。
          事務局長手島、事務所を全逓大阪地協内におく。

  1951年 3月   関西労調協事務局一部より西部産労復活の動きあらわれ、設立準備を始めるも中絶す。
      4月   『労調月報』を発刊

  1952年 8月   関西労調協の『労働月報』を廃刊し、東京の労働調査協議会
          と共同編集で『調査月報』を発刊した。『労調時報』と二本建てとなる。
      9月   活動の停滞から脱却するため、京阪神労組会館に関西労調再建会議を開く。幹事30組合、代表幹事6組合をえらぶ。
  1953年 1月   関西労調協、東京と共編の『調査月報』を『労働調査』と改題。
      9月   東京の労働調査協議会との共同編集による機関誌『労働調査時報』の発行


(以上『大阪地方労働運動史年表』による)。

 なお現在、大原社会問題研究所は『労調月報』のほか『労調速報』を所蔵しているが、完全揃いではなく、1950年4月10日付の第14号以降である。謄写版印刷の旬刊誌で、所蔵最終は第46号(1951年3月中旬)である。『大阪地方労働運動史年表』によれば、翌月には『労調月報』が創刊されているから、おそらく『労調速報』としてはこれが最終号で、『労調月報』は『労調速報』の改題・後継誌であろう。『労調月報』の創刊号は大原研究所にはなく、あるのは1951年11月号以降である。同号は〈11月号〉としか記載がないので、これが通巻何号であるかはわからない。
 当研究所所蔵のこの初号は《特集・世界の労働運動展望》である。事務所は大阪市西区道頓堀通り1−1で、大阪銀行ビル2階とある。なお『労調月報』は第2巻第6号(1952年6月)から第3種郵便物として認可されている。編集発行人は真田哲郎、のち小山泰蔵。
 『労調月報』が創刊されてまもなく、関西労働調査会議は東京、九州の労働調査機関との提携を模索し始める。『大阪地方労働運動史年表』は1951年8月の項に「はじめて日本産業労働調査局、九州産業労働科学研究所、関西労働調査会議の三者合同会議をもつ。全国的統一調査組織の設立について検討するもまとまらず」と記されている。はじめ関西労働調査会議が提携の相手として考えたのは労調協ではなく、日本産業労働調査局だったのである。労働組合中心の関西労働調査会議と活動家中心の日本産業労働調査局との組織的な性格の違い、あるいは路線上の違いが、この提携を成立させなかったものであろうか? いずれにせよ、ちょうどその1年後の1952年8月にはすでに見たように労働調査協議会との提携関係が成立し、『労調月報』を廃刊して『調査月報』を共同機関誌とし、さらに、1953年9月には労調協の旬刊『労働調査時報』を第157号から両者の共同編集で発行している。
 日本産業労働調査局や労働調査協議会のところですでに見たところであるが、労働組合共同調査機関の維持は困難であった。その理由を、板東慧労働調査研究所所長は後掲の「労働調査研究所の歴史と課題」でつぎのように説明されている。これは関西労働調査会議の経営困難の原因であるが、おそらくほかの機関にも共通するところがあろう。

 「産別時代のいきがかり・総評主流派内部の対立・全労の分裂などによって、組合組織も路線的に対立が鋭く不安定なため、いずれかに属することが困難な共同調査機関として、参加組 合は余り分裂や変動の少ない純中立や独立組合が主力になりがちで年々減少し、存立がきわめて不安定となっていった」。

 1961年7月、関西労働調査会議は、現在の社団法人・労働調査研究所へと改組、改称した。新研究所は、調査研究だけでなく「労働組合運動の政策課題を運動と密接な立場で追求し、成果を蓄積し、普及することを目的とし、日本の労働組合運動の質的転換に寄与せんとするもの」であるとその目的を掲げ、政策研究を主眼とするシンクタンクを志向することを宣言した。




(3)国立大学に新設された研究所

 戦後の新たな動きとして注目されるのは、国立大学にも労働関係研究を実施する研究所が設置されたことである。東京大学社会科学研究所と九州大学産業労働研究所がそれである。このうち、労働組合の実態調査などでめざましい成果をあげ、今日にいたるまで日本の労働問題研究に大きな影響を及ほしたのが東大社研であることは、衆目の一致するところであろう。
 ただ、東大社研については、後掲のように、同研究所の山本潔教授の寄稿がある。また、そこでも紹介きれているように、労働調査研究会『戦後の労働調査』をはじめ、いくつかの参考文献があるので、ここでは省きたい。ただ、東大社研が研究所全体として労働問題研究や労働調査にとりくんだわけではなく、社会調査部門あるいは労使関係部門としてであること、また多くの調査が、経済学部の教員や学生、大学院生も参加した共同作業としておこなわれたことに、注意を喚起しておきたい。



☆九州大学産業労働研究所

 戦後いちはやく設立され、また国立大学の付置研究所のなかで〈労働〉を所名にうたった唯一の研究所として注目されるのは、九州大学産業労働研究所である。敗戦から1年もたたない1946年5月に、九州大学法文学部が、西日本には文化系の研究所がひとつもないとして付置研究所の設置をめざし、委員会をもうけて検討をおこなった。その結果、筑豊炭田、三池炭鉱、八幡製鉄など日本経済に大きな比重をもつという地域的特質を考慮して〈産業労働問題研究所〉(のちに〈問題〉を削除し産業労働研究所となった)の設置を要求することを決定した。当初の計画では、産業労働関係の政治・法制、労働状態および社会保険、産業構造および統計、労働科学および労働者教育、国際労働および外国法制の5部門構成で、各部門は教授、助教授、助手各2人の総計30人からなる研究所を構想し、予算請求をおこなった。しかし、この要求が承認されなかったため、結局1947年度に認められた産業労働法制講座を母胎に研究所を設置する方針にきりかえ、1949年5月の創立となったものであった。
 研究所は「産業労働に関する総合研究」をおこなうことを目的に、九州大学の付置研究所として設置された。政治・法制と経済・経営の2部門からなり、定員は教授2人、助教授2人、助手2人、事務官4人、雇員2人、傭人3人の計15人であった。『産業労働研究所報』(年3回)にその研究成果を発表した。ただ『所報』の内容を見る限りでは、この研究所がその設置目的である「産業労働に関する総合研究」に関して、それほど大きな成果をあげたとは思えない。専任研究員の数にくらべ、『所報』の発行回数は少なく、発表された論文も少ないのである。さらに創立にあたって強調された地域の特性を生かした共同研究がほとんどない。共同研究の成果としてまとめて発表されたのは1953年に刊行された菊池勇夫編著『臨時石炭鉱業管理法の研究』だけである。とくに1970年代にはいると、どうみても産業研究や労働研究とは直接関連するところのない法社会学の論文が8回にわたって連載されるなど、研究所の設置目的と研究員の個人的な研究関心の不一致が見られる。こうした不一致は研究所の設立当初からかなり目だっている。この研究所は、その運営、とりわけ所員の選考に問題があったのではなかろうか。
 1970年代にはいると定員に満たないポストが増え、技能労務職(傭人)の定員は1名にまで逓減していった。また『研究所報』も年3回から年2回の刊行へと変更されている。結局、産業労働研究所は、1979年4月、九州大学石炭研究資料センターヘと改組・改称された。




(4)地方自治体が設立した研究所

 戦後の新しい傾向は、道府県立の労働関係研究所が設立されたことである。1950年までに労働関係の研究所を設置したのは大阪、兵庫、北海道、京都である。しかし、いずれの研究所も、首長の交代や行政改革の影響をうけてしばしば改組きれ、あるいは解散を余儀なくされている。

☆大阪府立労働科学研究所

 敗戦の翌年、1946年9月に大阪府立産業医学研究所として設立され、1948年に改組・改称された。梶原三郎大阪大学医学部教授を初代所長に、社会科学部門もふくめ一時は20人の所員をかかえ、機関誌『労働科学季報』を刊行するなど、活発な研究活動を展開した。しかし、まもなく社会科学部門は縮小され、1960年に大阪府立衛生研究所と合併して大阪府立公衆衛生研究所となり、その労働衛生部として活動している。



★兵庫県立労働研究所

 1947年7月、県立の労働問題に関する総合研究所として創立された。兵庫労研を公立の研究所とは思えないユニークな存在にしたてあげたのは、初代所長に就任した川口義明である。京大を卒業し、大日本紡の労務課長などを経て、戦時中は厚生省労務官や軍需省監理官などを歴任した後、兵庫労研創立と同時に所長となった。
 戦前から労働問題で名をはせた神戸らしく、所長だけでなく、所員にもきわめて多彩かつ多才な人材が集まった。この研究所は、労働問題の調査研究をおこなっただけでなく、組合活動の育成、労働講座、女性民衆学枚、組合機関誌コンクールなど実際的で多面的な活動を展開した。研究員は1951年現在で7人であったが、労働法・社会法部門に村上久信、久保政治、中小企業問題に山田政一、労働科学・労働心理学の岡本太郎、労働文化・海外事情の服部正らの面々である。
 月刊の機関誌『労働研究』(第28号まで『兵庫県労働時報』)は、学術的にもかなり高度な内容をもつ論文や大衆的でかつ独創的な文章がならび、なかなかの水準である。川口所長が毎号歯にきぬ着せぬ論説を掲載し、研究員も活発に執筆している。なかでも編集を担当した服部の多才には驚かされる。「英文学と労働問題」を論じ、音楽を語るかと思えば、米国議会図書館の労働問題の分類表を紹介し、きらに組合機関誌の作り方の連載講座では、機関誌の原則論から用紙所要量の計算法や第三種郵便物のとり方にいたるまで教えるといった具合なのである。
 この研究所はまた、労働図書館を一般に開放すると同時に、文書館としても活動している。その中心となったのは研究員であると同時に資料・調査課長であった堂面秋芳である。研究所は単に兵庫県下の労働組合の資料を集めるだけでなく、資料課員は『労働研究』の誌上で「労働問題に関する資料の収集と整理」の方法を説き、あるいは戦前の労働運動家から聞きとりもおこなっている。この時期の『労働研究』からは、この研究所に集まった人びとが自らの仕事に使命感をもって取り組み、よく勉強していたことが、ひしひしと伝わってくるのである。それはまた、戦後の労働運動そのものが熱気に満ちていたことの反映でもあるのだろうが。
 しかし、1950年代の中ごろになると、研究所の財政はかなりきびしい状況になっていった。1954年、研究所の改組にともない川口は勇退した。この頃になると最盛期には三十数人いた所員は半減している。創刊以来、きちんと定期的に発行してきた『労働研究』も、1955年には合併号を出して休刊する月や、減ページを余儀なくされている。一時は研究所後援会を組織して、一般読者を対象に発行していたものが、資料交換用だけに部数を減らすといった事態になっている。きらに1961年5月には、県の機構改革によって中小企業労使センターのなかに組み込まれ、その労働調査室と診断指導室となった。それでも『労働研究』は刊行を続け、労働運動史、とりわけ1921年の川崎三菱争議に関する研究を掲載している。しかしその発行回数はしだいに減少していった。1968年には中小企業労使センターも廃止され、労働調査室は県労働部の所管に移された。研究所が兵庫県労働経済研究所として復活したのは1983年のことであった。          



☆北海道立労働科学研究所

 1949年8月、北海道条例による道立の研究所として創立され、南亮三郎博士が専任の所長となった。1953年6月、南所長の後任として、北海道大学医学部の井上善十郎教授が兼務で所長となり、57年から専任所長となった。
 研究所の目的は「労働に関する調査研究を行うとともに、労働問題に関する知識を普及し、健全なる労働関係の育成に資する」ことにあった。当初は社会科学部門だけであったが、1953年度より新たに労働医学部門が設置された。設置目的にある諸活動では、「知識を普及し、健全なる労働関係の育成に資する」ことより、調査研究に重点がおかれ、北海道内の炭鉱や漁業をはじめとする諸産業の賃金、労働条件、臨時工問題などに関する社会科学的研究と同時に、水銀中毒、クローム中毒など職業病研究や製鉄業における労働医学的な研究などをおこない、単行書形式で多数の研究調査報告を発表した。
 創立と同時に機関誌『労研月報』を発行したが、1950年1月からこれにかえて『北海道労働経済』を創刊した。同誌は1954年1月の通巻第49号から『北海道労働研究』と改題し、道立総合経済研究所となっても発行を継続したが、1980年3月の第129号をもって終刊した。
 1962年4月、道立労働科学研究所は道立農業研究所とともに新たに設立された北海道立総合経済研究所へ統合され、その研究第2部労働経済課および労働生活課として活動を継続した。しかし1980年8月、財政危機を理由に総合経済研究所は廃止されてしまった。



☆京都府労働経済研究所

 1950年2月の府議会が「京都府産業労働調査研究所施設要項」を議決したのにともない、同年6月に京都府労働経済研究所として創立された。はじめ5年ほどは、大学研究者への研究委託を主としておこなっていた。1952年1月、機関誌『京都労研資料月報』を創刊し、労働経済情報の提供を開始した。同年9月、同誌を『京都府労働経済研究所月報』と改題した。
 1955年11月、京都府組織規定が制定され、研究所は(第2種地方機関)つまり行政おょび府民サービスの両面で機能する機関とされたことから、府民サービスの面が強調されるようになった。
 1970年12月に労働経済関係の資料を発表する『労研資料報』を創刊した。この『労研資料報』は1980年12月の第56号から『京都労働経済情報』と改題され、さらに1985年7月の第82号から『労働情報・京都』と改題し、現在も刊行されている。また1972年12月には、64年に府の民生労働部が創刊した労働問題に関する啓蒙誌『季刊労働と経済』の刊行を引き継いだ。なお同誌は、1980年11月の第65号から『京都の労働経済』と改題されている。
 研究所は、京都府下の中小企業の賃金事情や福利厚生、高齢者雇用問題などに関する調査を実施したほか、『京都労働運動史年表』の編纂、セミナーなども開催し、また労働経済資料センターと中小企業労働相談室を併設している。1989年4月、府の組織改正により、労働経済研究所は、京都府労働部労働問題調査室へと改組・改称され、これまでの業務のほか、労政課としての調査業務も担当することになった。



4 高度成長期に新設された研究所

 すでにみたところからも明らかなように、戦後初期に新たに誕生した労働関係の研究所は主として民間の研究機関と公立の研究所であった。とりわけ労働組合運動と密接な関連をもつ共同調査機関が各地に生まれたことが注目きれる。
 これに対し政府関係の労働関係研究機関が登場するのはずっと後のことで、1958年9月に創立された日本労働協会が最初である。その2カ月前には総評第10回大会で太田薫が議長に選出きれ、いわゆる太田・岩井体制が確立したばかりであり、日教組の勤評反対闘争や王子製紙争議あるいは炭鉱の合理化問題など、労働問題が大きな社会問題としてクローズアップされた時期であった。日本労働協会の設置目的は調査研究と同時に労働問題こついて一般の理解を深めるという教育啓蒙活動にあった。国立の労働関係研究所の創設は、きらにその10年以上後の職業研究所の誕生をまたねばならなかった。また、この時期には、いくつかの私立大学で、労働関係の研究所が創立されたことも見落とせない。ただ、いずれの研究所もその進路はけっして平坦ではなかったのであるが。




(1)国公立研究機関



☆日本労働協会

 1958年9月、「日本労働協会法」にもとづく特珠法人として設立された。設置目的は「労働問題について研究を行うとともに、広く労働者及び使用者並びに国民一般の労働問題に関する理解と良識をつちかうこと」とされ、その業務はつぎのように定められていた。

  1. 労働問題こ関する研究及び資料の整備
  2. 労働問題に関する出版及び放送
  3. 労働問題に関する講座の開設
  4. 労働組合及び使用者団体等の行う労働教育活動に対する援助
  5. そのほか協会の目的を達成するために必要な業務。

 このように、協調会と同様、日本労働協会もまた単なる研究機関ではなかった。そこでは、労使をはじめ国民一般に村し労働問題に関する理解と良識をつちかう、という教育機能が重視されていた。もちろん「日本労働協会と協調会が同様」であるのは、単なる研究機関ではないという点であって、両者が同様な性格であるという意味ではない。
 実のところ「日本労働協会は協調会の再現ではないか」という疑問は、法案審議の過程で再三問題にされている。これに対して政府側は、協調会と日本労働協会とは次のように根本的な相違があると答弁している。


 1)協会は労使対等を前提とし、第三者的立場において近代的労使関係の樹立に資そうとするものであって、大正時代的な労使協調思想に基づくものではない、
 2)財界の寄付に大きく依存し財界の要望に応じた協調会とは異なり、協会の資金は全額政府出資で、財政面から自主性の確保に努めている、
 3)協調会が労働争議の調停などの事業に当たっていたのに対し、協会はそうした事業はおこなわない。

 この答弁にあるように、日本労働協会は全額政府の出資による財団法人で、基金の総額は15億円であった。1959年度の予掛土9163万1000円で、収入のほとんどは基金の利子であった。このように労働協会の財政は基金の利子によってまかなうことが原則であったが、年々管理経費が増大するのに、基金の積み増しがおこなわれなかったため、業務収入の増加に力をいれざるをえず、それだけ経費も増加した。
 このため1963年度以降、労働省からの事業委託による国庫補助金が支出されるようになり、以後、国庫補助金に依存する度合いは年々増加し、1971年度にはついに国庫補助が基金収入を上回る事態となった。日本労働研究機構への統合を前にした1987年度予算では基金運用収入は9119万5000円、業務収入 4億909万7000円に対し国庫補助金は8億2558万9000円に達した。業務収入の比重の大きさが示しているように、日本労働協会は、研究より出版などの業務活動に力をいれた。出版活動としては『日本労働協会雑誌』『週刊労働ニュース』の発行、JIL文庫はじめ各種の単行書の出版がある。また、1962年から、労働省が出していた Japan Labour Bulletin の発行を引き継いでいる。こうした状況は職員構成から見るとさらに明瞭となる。創立の翌年、本格的な活動を開始した初年度である1959年度現在で、常勤38人、非常勤 5人の計43人のうち、研究員は常勤 3人、非常勤 5人の計 8人に過ぎなかった。さらに合併直前の1988年度では常勤職員56人、非常勤 5人の計61人中、研究員は常勤 1人、非常勤 5人の計 6人に減少している。
 日本労働協会の研究活動は、非常勤研究員が中心になって組織されたプロジェクト・チームによってすすめられ、その成果は『日本労働協会雑誌』などを通じて発表された。この『日本労働協会雑誌』は、単なる紀要ではなく、レフリー制度を採用する労働関係の専門誌として多くの研究者に投稿をよびかけ、日本労働協会を開かれた機関とするのに大きな役割をはたした。また同誌が〈学界展望〉などによて、日本の労働問題研究の研究状況を分野ごとに整理検討する作業をつづけたこと、さらに〈主要研究機関の研究動向と成果〉といった情報を定期的に掲載したことは、この雑誌の価値を高めた。
 ただ日本労働協会にとって問題だったと思われるのは、専任研究員はそれぞれすぐれた研究成果をあげて学界でも高い評価をえたが、皮肉なことに高い評価をえたがゆえに協会外に流出し、協会には専任研究員がいなくなるといった事態が生まれたことである。もうひとつの問題は、後から発足した職業研究所が雇用職業総合研究所として労使関係研究の分野にも進出し、研究面で日本労働協会と競合するかたちになったことであろう。
 1986年12月、総務庁は、日本労働協会の在り方に関し、行政監察に基づく勧告をおこなった。そこでは、日本労働協会の事業全般について、多くの問題点が指摘され、その在り方について全面的な見直しを行うよう勧告していた。問題点のなかでも、雇用職業総合研究所と研究領域において重複する部分が生じており、同研究所との関係の明確化が重要な課題として提起されていた。



☆職業研究所(のち雇用職業総合研究所と改称)

 日本労働協会につづいて、政府関係の調査研究機関として生まれたのは職業研究所で、1969年7月のことである。日本労働協会が啓蒙教育活動に力をいれたのとは違い、職業研究所は研究を主目的としていた。
 職業研究所は、労働省の外郭団体である雇用促進事業団の一施設として設置された。ただその母体となったのは、労働省の職業安定局内に設けられていた〈職業研究調査室〉であり、当初は労働省の付属機関として設置する計画であった。しかし、種々の理由から最終的には雇用促進事業団の研究所という形をとったのである。この研究所が設立きれた背景には、なにより高度成長にともなう労働力不足の深刻化があり、高学歴化や技術革新による需給構造の変化、労働者の産業間・職業間移動の活発化など、職業をめぐって解決すべき諸問題が生まれていたことがあった。
 初代所長は心理学者の高木貞二で、職員15人で出発した。当初の研究は職業適性や職業分類に関する研究、身体障害者や高齢者の適職の研究など、職安行政と密接に関連するテーマが中心であった。しかし、1970年代にはいると2度のオイルショックにより労働市場の状況が大きく変化した。研究所に対しても、職業問題だけでなく、雇用量の変動などマクロ的な視点での調査研究をおこなうべきであるとの要望が強まった。こうした事態を背景に、1980年には雇用開発研究部が発足し、労働経済分野にまで研究領域をひろげた。翌1981年には名称も職業研究所から、雇用職業総合研究所と改められ、所長には労使関係研究を専門とする経済学者・氏原正治郎が就任した。1987年春には練馬区上石神井に地上5階、地下1階、延べ床面積9000平方メートルの新書務所が完成した。



(2)労働運動関係者によってつくられた研究機関



★労働調査研究所

 1961年7月、関西労働調査会議を発展的に解消して創立された。詳細については後掲の板東慧所長の論稿参照。



☆労働大学調査研究所

 1967年4月、労働大学調査部を発展的に解消して設立された。機関誌『月刊労働組合』を編集発行している。労働大学は1954年に鈴木茂三郎らによって創立された労働者教育のための団体である。その調査部は労働組合のための調査活動の一環として自治労など組合の依頼による労働者意識調査などをおこなってきた。しかし、運動の発展に応じて各組合から各種の調査依頼が増大し、その要請に応ずるには、新たに研究所を創設し調査機能を拡充する必要があるとして設立されたものであった。調査研究所は、「労働組合の共同調査機関」であるが、「調査を、調査のための調査に終わらせることなく、あくまでも組織点検活動の一環として調査活動を位置づけ、その調査研究活動を通じて具体的に実践運動の要請にこたえていく」ことを目指していた。
機関誌『月刊労働組合』は、どちらかといえば調査研究誌であるより労働組合活動家のための運動誌という色彩が濃く、1991年10月現在、300号に達している。



(3)労働科学関係の研究所

 この時期にいくつかの労働科学関係の研究所が生まれているが、産業単位の研究所が目につく。ごく簡単に紹介しておこう。



☆労働省労働衛生研究所

 1957年6月創立。同研究所は、1976年に労働省産業医学総合研究所となった。



☆鉄道労働科学研究所

 1962年の常磐線三河島事故を機に設置された研究所。機関誌『鉄道労働科学』。国鉄の民営化にともなって廃止され、鉄道総合技術研究所に統合きれた。



☆海上労働科学研究所

 1966年に創立きれた。その前身は1951年に労働科学研究所内に西部徹一を中心に設けられていた海上労働科学研究室である。



(4)大学付置研究所



☆近畿大学職業科学研究所

 1956年10月、「職業に関する心理学的、教育学的、社会学的研究を行い、学校教育及び産業における人事管理に貢献すること」を目的に設立された。1960年に年刊の研究妃要『職業科学』を創刊した。『大学研究所要覧1990』に記載されている研究課題は「学校教育における職業教育および進路指導の改善について」であり、専任研究員の広井甫教授が単独ですすめることになっている。広井教授のほかは研究員、事務職員ともにゼロで、個人研究所ともいうべき存在であるかにみえる。



慶応大学産業研究所

 1959年9月、慶応義塾の創立100周年の記念事業として創立された。日本名は産業研究所であるが、英語名称は Institute of Management and Labor Studies of Keio University(慶応大学経営労働研究所)である。設置目的について、研究所規程は「産業関係諸般の基礎的研究を行い、わが国産業の発展に寄与すること」と定めているように、産業関係=労使関係の研究がそのメインテーマであった。この研究所が注目されたのは、日本の大学の付置研究所としては珍しく、独立採算制をとったことで、企業などからの賛助会費によって運営されたことである。運営委員会の委員には各学部の教員のほか、慶応のOBである大企業の役員が多数参加した。賛助会費ははじめ1口年額10万円、5カ年継続で、総数最低100口を予定していたが、たちまちこれを突破したという。1962年にはアメリカのロックフェラー財団から4500ドルの資金援助もあり、独立採算制の企ては成功するかに見えた。その背景には、慶応義塾の塾員に有力な財界関係者が多かったこと、さらに研究所創設の中心となった藤林敬三所長が、研究所創設直後の1960年から中央労働委員会の会長の任についていたことがあったという。だが、1962年に藤林所長が急逝したこともあり、独立採算制による研究所の維持はしだいに困難となっていった。
 研究所の事業としては、調査研究やその成果の刊行などのほか、人事・労務の中堅幹部養成セミナーなどの開催や企業の依頼を受けてのコンサルテイング・サービスもおこなっていた。このうち経営専門家の養成は、1962年に〈慶応義塾大学ビジネス・スクール〉を設立してこれに移管し、独立させた。また1969年には併設の三田電子計算室を情報科学研究所の設立にともない分離した。
 研究所独自の機関誌『産業研究』(年1回刊行)は1963年に創刊され、研究所としての調査研究の成果を発表した。そのほか慶応の各学部の紀要から労働問題に関連する論文をリプリントし、これを〈産業研究所シリーズ〉と銘打ったパンフレットにして多数発行した。これは、会員企業に対し、会費の見返りとして配布するために作られたものであろう。
 その後研究所はしだいに労使関係研究だけでなく、産業をめぐる諸問題全般に研究の比重を移していった。それは、この研究所の英語名の変化にもうかがえる。すなわち、産業研究所という日本語名は変わらなかったが、英語名は、Institute of Management and Labor Studies から、1975年には Keio Economic & Social Observatory(経済社会観測施設)と変わり、後年、きらに Social が削除され、Keio Economic Observatory(経済観測施設)となっているのである。当初の産学共同施設としての色彩はうすれ、いまでは計量経済学、社会心理学、法律学など学部の枠をこえた共同研究の場であることが強調されるようになっている。



☆立教大学産業関係研究所

 1959年4月に社会学部の付属研究所として創立された。ただし、正式の発足に先だつ1958年7月には、専任の助手が採用され資料の整理などにあたっていた記録があり、準備活動は創立前にはじまっていたと見られる。当初は社会学部長が所長を、社会学科長が副所長を兼担し、所員も社会学部の教員が兼ねていた。1962年には、学部学生や大学院生ら20人も参加させ、「大企業ブルーカラー・ワーカーの生活と意見」について大規模な調査を実施して注目された。また『労務管理ハンドブック』を編集し1964年に刊行した。
 1963年4月、学部付属でなく大学の付置研究所へと機構を改めた。また1964年には、所内に近代経済研究機構を設置し、67年にフォード財団から10万ドルの助成金を得るなどして、西山千明所長を研究主任に、ミルトン・フリードマンやピーター・ドラッカーらを研究顧問として〈戦後日本の経済成長に関する実証研究〉のプロジェクトを組織し、研究をおこなっている。
 現在は専任の研究員、職員はおらず、常設の研究所というより、立教大学社会学部のスタッフの共同研究の窓口ともいうべき存在となっていると推測され、活動は一時ほど活発ではないようにみえる。『学術月報』の〈公・私立大学研究所要覧〉や『大学研究所要党1990』にも収録されておらず、日本労働協会・研究機構の「主要研究機関の研究動向と成果」にもまったく記載がない。



☆近畿大学労働問題研究所

 1967年3月に「我が国内外の労働問題に関する理論的実証的研究及び調査を行うことを目的」として創立きれた。1975年4月から年2回の研究所紀要『労働問題研究』を刊行している。同誌には、東南アジアにおける労働問題、とりわけ日系企業をめぐる問題がしばしば取り上げられている。
 しかし、1982年4月には研究所内に〈労働問題研究部門〉のほかに、「農産物の流通経済に関する研究と国際間の流通問題の研究調査」をおこなう〈流通経済研究部門〉と「医学・化学・食品・水産・農業分野における基礎研究を推進し、各分野における利用資源および技術を活用し、実用化を進める」〈産業研究開発部門〉が新たに設置されるなど、労働問題研究の比重は低下しつつあると見られる。



5 オイルショック後の労働関係研究所

 この時期で注目きれるのは、都立労働研究所の発足、雇用促進事業団の職業研究所が雇用職業総合研究所へと発展したことである。
 また1970年代にはいると、労働関係の研究所でも政策研究を志向するいわゆるシンクタンク型の研究所の設置が見られるようになった。一般にシンクタンク型の研究所が話題になったのは1970年、いわゆる〈シンクタンク元年〉以降のことであるが、労働関係でも少なからぬ調査研究機関が誕生したのである。こうしたタイプの研究所があいついで生まれた背景には、労働組合運動が賃上げだけでなく、雇用の安定や社会福祉の充実などをめざす政策制度闘争へ運動の重点を移していったことがあろう。また1980年代後半になると急速な円高がすすみ、各企業がこぞって海外に進出し〈産業の空洞化〉が懸念されたこと、また外国人労働者問題、メカトロニクス化による職場の急速な変貌、高齢化社会の到来など、これまでと大きく異なる情況が出現したことが背景にある。企業や自治体もこうした新たな状況に対応する必要に迫られ、これが多数のシンクタンクの出現とつながったものであろう。
 また、1990年には雇用職業総合研究所が日本労働協会と統合し、日本労働研究機構という大規模な国立の研究機関が誕生した。ここからは、過去の歴史というより現在にかかわるので、今回ご寄稿いただいた研究職関についての詳細は後掲の諸論稿を参照していただくことにして、名称と創立年などをあげるにとどめ、その他の研究機関について簡単に紹介しておこう。



(1)国公立研究機関



☆都立労働研究所

 創立は1978年4月であるが、それに向かう動きは1972年か73年に始まったという。設立のきっかけを作ったのは労政事務所などで働く職員が「自分たちで調査したものが、生かされず、捨てられていってしまう、こういうことから資料センターを創ろうという話になった。そして当時、都労連の副委員長だった渡辺さんから「資料センターだけじゃなく、研究所を創るのがあたり前だ」というような話がだされた」、というのである(『労働研究所報』No.11)。1973年暮れには調査費がつき、資料センター創設準備室が発足し、翌年4月には資料センターが先行的に設置され、労働研究所の母体となった。1975年3月、〈東京都立労働科学研究所設立準備委員会〉が発足し、同年11月には「設立に関する報告書」、翌76年7月に「実施計画に関する報告書」が知事に提出された。実施計画に関する報告書は、都立労働研究所が必要である理由をつぎのように述べている。

 「国・大学・民間の研究機関はその性質上、全国的規模の問題を優先的に取り扱わざるをえず、一地域の特性をふまえた中小零細企業の労働問題の研究には関心がうすく、また大企業では企業内の研究にせよ、委託による研究にせよ、自らの力で取り組むことができるが、中小零細企業では、経費の負担能力、研究に村する認識の不足からそれを期待することができないのが実情である。したがって、都内の中小零細企業およびその労働者を主たる対象とした労働問題の研究所の設置は、現在及び将来とも国・民間には期待しがたく、都に最も期待される」。

 この答申では10部門からなる研究所の創設が提言されていたが、たまたまオイルショック直後の財政難の時期にあたっていたこともあって、4部門だけ、しかも所長以下研究員のすべてが非常勤という形で発足した。設置された4部門は、労使関係、労働市場、中高年労働、労働衛生である。初代所長は労働法学者の有泉亨、1987年からは労働社会学者の松島静雄である。1980年3月に年1回刊の『労働研究所報』を創刊し、研究調査の中間報告などの発表をおこなった。
 この研究所の特徴は、職員は都の専任職員であるが、研究員はすべて非常勤であること、研究テーマの設定などの運営面で、外部の学者だけからなる運営委員会の権限が強いことであろう。研究員は創立当初は10人であったが、1990年には15人になっている。研究部門も当初の4部門に加え、1985年から婦人労働部門が、1988年からは短期の特別研究として外国人労働問題が加わり6部門となっている。各部門の調査研究は、異なった専門分野の研究者がチームを組み、テーマの選択に研究者が主導権をとっていること、調査研究がすべて2年単位という比較的長い期間をかけておこなわれている。こうしたことが、洪水のように生まれている調査の中で、この研究所の成果を全体に質の高いものとしている。また、調査チームは世代的にも異なった組み合わせであるため、若手研究者が調査研究のなかで訓練されるという教育的な成果もあげている。



日本労働研究機構

 1990年1月、日本労働協会と雇用職業総合研究所が統合して成立した。これによって予算規模33億円、職員定員134人という日本の労働関係研究所のなかでは群を抜いて大規模な研究機関が生まれたのである。

(1)労働組合や関連団体、労働運動関係者によってつくられた研究機関

☆アジア社会問題研究所

 滝田実・元ゼンセン同盟会長・元同盟会長が1972年に同盟会長の座を退いたあとで創立した研究所。1973年8月に事務所を開設し、同年10月第1回理事会を開催している。研究所の目的は「アジア諸国の社会問題全般の調査研究を行うこと」にあった。19日日年4月に社団法人となった。1973年12月、月刊の機関誌『アジアと日本』を創刊し、現在216号に達している。アジアの労働・社会問題だけでなく、1975年以来、隔年に日本の労働組合の組合費の実態調査をおこない、1990年現在で、すでに8回目の調査がおこなわれた。他に類のない、しかも継続的な調査として注目される。現在は滝田氏は理事長を辞め、顧問となっている。



☆愛媛労働問題資料センター

 1976年9月、愛媛大学の星島一夫教授が中心となり、県共済生活協同組合の財政的支持によって創立された。正式の創立に先立つ1976年3月『愛媛労働ニュース』を創刊し、1980年1月より『愛媛労働月報』と改題して刊行をつづけたが、財政上の理由から1987年11月の第134号を最後に休刊している。また1978年、愛媛の労働経済に関するデータをまとめた『愛媛の春闘・賃闘資料』を創刊した。これは1985年から『愛嫁の春闘・賃闘ハンドブック』と改題して年1回刊行を続けている。そのほかセンターが実施した県下の労働者の意識調査を主とする報告書を11冊出している。このセンターで注目されるのは、愛媛県下の主要労働組合が発行している機関紙誌、大会議案、ビラなどにいたる諸資料を網羅的、系統的に集め、保存していることである。同様の機能をもった機関は各地にあるが、ここほど網羅的、組織的に収集しているものは少ないと思われる。



★労働経済研究所

 1979年6月、労働組合調査部で長年活動してきた人びとによって創立きれた。



☆沖縄労働経済研究所

 1979年9月、沖縄県内の主要労働組合、労働金庫など4団体の発起で、「沖縄の勤労者をとりまく社会経済環境について総合的な調査研究をおこなう」ことなどを目的に、沖縄県を認可官庁とする財団法人として創立された。1984年現在、常勤職員2人、うち研究員1人。ほかに客員研究員6人。『季刊沖縄L+E』を刊行。同誌は季刊となっているが合併号などもあり、1985年以降は事実上年2回刊行となっている。うち1回「沖縄の勤労者白書」特集で、毎年の沖縄県の経済動向、労働市場、労働時間、家計、春闘経過などを記録している。



☆国際産業・労働研究センター

 1982年2月、宮田義二・元鉄鋼労連委員長を中心に、鉄鋼、電機、造船、自動車など金属関係の主要労働組合・企業の有志によって設立された。その後、金属以外にも、電力、ガス、食品、化学、商業、情報通信などの分野の組合も参加した。「国内外の産業・労働問題に関して、主として実証的な研究調査をおこなうこと、労働関係にかかわる教育活動などを行うことにより、良好な労使関係の形成に資するとともに、国民経済の発展に寄与することを目的としている」。1985年に労働省認可の社団法人となった。「ユニオンリーダーのキャリア形成」「外国人労働者受け入れ実態」「海外進出企業の雇用実態」など、官庁・労働組合などからの費託研究調査を実施している。




連合総合生活開発研究所(連合総研)

 1987年12月に連合のシンクタンクとして創立きれた。



労働運動総合研究斬(労働総研)

1989年12月、全労連のシンクタンクとして創立されたもの。



その他の労働関係シンクタンク

 数の上でいえば、労働組合や労働運動関係者・関係団体がつくったシンクタンクより、民間企業が営利法人として、あるいは官庁出身者などによってつくられたシンクタンクの方がはるかに多い。ここではまず、設置目的が労働関係研究を主とするもの、ついでより幅広いテーマを対象とするが労働関係もとりあつかうものとにわけ、創立年順に簡単に紹介しておこう。なお、職員数など は、とくにことわらない限り1990年6月現在である。データは『日本労働研究雑誌』の「主要研究機関の研究動向と成果」および『シンクタンク年報』各年度による。



☆日本生産性本部

 1955年創立。あらためていうまでもなく、生産性の向上をはかるための諸事業をおこなう団体で、単なる研究機関ではない。しかし、1986年現在の常勤職員323人のうち専任研究員12人を擁し、また外部から研究者の参加もえて、労働生産性についての国際比較、労働組合員の意識調査など、労働生産性にかかわる諸問題について調査研究をおこなっている。



☆港湾労働経済研究所

 1975年1月、「港湾労働にかかわる経済学的研究を実施し、労使関係の近代化条件を考察すること」を目的に創立された労働省認可の財団法人。基金2500万円弱、『港湾労働経済研究年報』を刊行。1986年現在、常勤職員5人、うち専任研究員2人。



☆日本人事行政研究所

 1976年10月、「公務員制度について国民の理解を深め、在野の立場で民主的かつ能率的な公務員制度の研究を推進すること」を目的に創立された総務庁認可の財団法人。基金1000万円。常勤職員6人、うち専任研究員4人。高齢化・高学歴化社会におけるあるべき人事管理制度の探求を基本テーマに、民間企業を対象にした人事管理制度における改革の現状と改革理念、能力育成方策と選抜方法についてアンケート調査を実施。日本船舶振興会の委託による研究が多い。



☆雇用開発センター

 1981年12月、雇用対策の調査研究をおこなう財団法人として創立された。基金は2億7000万円、認可官庁は労働省。常勤職員7人、うち専任研究員4人。ほかに客員研究員12人。求人求職行動に関する研究、障害者の職業定着状況、外国人労働者問題等に関する調査研究を実施。主な受託相手は労働省、雇用職業総合研究所、身体障害者雇用促進協会など。



☆愛知労働問題研究所

 1987年9月、『労働問遺研究者と労働運動活動家との共同事業として、階級的民主的な労働運動の必要に応える調査・研究等の諸事業を推進する」ことを目的に創立された。『月報』『年報』のほか『統計・資料にみるあいちの労働と生活』や『トヨタグループの新戦略』を刊行している。



☆関西国際産業関係研究所

 1988年度より『日本労働協会雑誌』の「主要研究機関の研究動向と成果」に登場。代表者中條毅。季刊の『産研情報』、年2回刊の『国際産研』を刊行。調査研究プロジェクトとして、「製造業大企業の人事・労務管理の日韓比較」、「労働時間短縮への労使の取り組みと今後の方向」など。



 以下は労働関係専門ではないが、調査研究活動の一部として労働問題についてもとりあつかう〈シンクタンク〉である。



☆センチュリーリサーチセンタ株式会社

 1958年11月創立。第一勧銀、伊藤忠商事系列の営利法人。コンピュータ利用関連業務が主で、調査研究は従であるが、常勤職員801人、専任研究員55人を擁し、婦人労働問題や時短が経済・産業に与える影響などの受託研究をおこなっている。



☆株式会社社会工学研究所

 1969年5月創立。常勤職員39人、専任研究員29人。企業の人材戦略研究をおこなっている。



☆社会経済国民会議

 1973年11月創立。活力ある福祉社会の実現をめざし、直面する諸問題を国民的コンセンサスをもって打開することをめざして、労使、学識経験者、婦人団体、消費者団体などの代表者によって設立された、通産省認可の社団法人。常勤職員83人、専任研究員51人。



☆日本リサーチ総合研究所

 1977年4月、経済企画庁および通産省の認可による社団法人として創立。国民生活に関する研究、産業政策などの研究、消費財・サービス等のマーケティングなどを専門とする調査研究機関。常勤職員23人、専任研究員16人。1989年度には「労働不足の実態・産業経済への影響と今後の対応」「高齢者の生きがい就労に適した活動現場のあり方に関する調査研究」などを実施。



☆平和経済計画会議

 1983年10月、通産省の認可による社団法人として設立。常勤職員12人、うち専任研究員4人。ほかに客員研究員3人。なお、前身の平和経済国民会議は1961年の創立である。



 以下は、専任研究員をおかず、したがって調査研究は外部の機関、あるいは研究者に委託する形の団体である。


☆公共企業体等労働問題研究センター(公企労センター)

 1969年9月、公共部門、民間部門における労働問題について調査研究することを目的に、国鉄、専売、電電公社の3公社を会員にして発足した。機関誌『公企労研究』を第70号まで発行したほか、委託調査研究の成果を134の報告書として発表した。3公社の民営化にともない、1987年3月をもって解散した。



☆中高年齢者雇用福祉協会

 1973年11月創立。生きがいのある第二の人生を送るには、個々人の自助努力が重要であることを啓蒙する、労働省認可の社団法人として設立。常勤職員26人(1986年現在)。



☆高年齢者雇用開発協会

 1978年9月、高齢者の雇用促進をはかることを目的に労働省認可の財団法人として創立。1991年1月現在の常勤職員54人。月刊誌『エルダー』を発行。高齢者雇用・労働に関する諸問題を多面的にとりあげている。



☆労働問題リサーチセンター

 1987年、帝京大学の冲永理事長らによって、労働省管轄の財団法人として創立された。それ自体が研究機関であるというより、研究助成財団の色彩が強い。毎年労働関係のすぐれた研究に冲永賞を授与し、あるいは各種の研究会に調査を委託して、その成果を刊行している。





6 日本の労働関係研究所の問題点

 ここまで日本の労働関係の研究所の歴史をみてきて気づく最大の問題は、多くの研究所が組織を維持するのに、さまざまな困難に直面してきたことであろう。1950年代前半以前に日本で生まれた労働関係の研究所で、いまなお存続している研究所は、半数にも満たない。たとえば、戦前期の6つの機関のうち、いまでも存続しているのは、大原社会問題研究所と労働科学研究所だけである。協調会、産業労働調査所、経済社会研究所、内外労働問題研究所は、いずれも現存していない。また、戦後の研究機関でも中央労働学園、日本産業労働調査局、生活問題研究所をはじめ、地方公共団体の労働関係研究所の多くが消滅している。こうしたことは、企業や大学のような教育機関が、比較的安定的に存続し、発展していることとは、大きな違いである。
 もちろん組織維持の困難は、なにも労働関係研究所に限らず、研究機関全般に共通するところであろう。言うまでもなく、いちばんの問題は財政的な不安定である。研究所の主たる機能である研究活動それ自体から収益があがることはないからである。研究機関のなかでも理工学系の研究所であれば、特許料収入などがありうる。しかし、社会科学系の研究所は、その活動をつうじて、研究所の維持に必要な経費をまかないうる収入を安定的に確保することは、ほとんど不可能に近い。多くの研究所で採用されてきた財団法人という組織形態は、本来、こうした問題を解決すろために考えられたものであろう。一定の基金があれば、その果実で運営を継続できるからである。しかし財団法人はインフレにきわめて弱い組織である。きらに、最近のように利子率の変動が大きいと、その影響をうけやすい。財団法人で、創設者が寄付した基本金の果実を主たる収入源として運営されている組織は皆無であろう。基本金そのものがたえず増額される仕組みがない限り、財団法人では長期にわたって創設時の活動レベルは維持でさない。
 この点で有利なのは日本労働研究機構や東大社研のような国の組織、ついで私立大学の付置研究所であろう。地方自治体の研究所も財政的には比較的安定しているが、公選首長制度のもとで、首長の交代の影響を受けやすい。
 財政的にもっとも不安定なのは、労働組合や企業を維持会貞などとして運営されている研究所であろう。こうした研究機関は、会費の見返りとして資料頒布などの反対給付をおこなわざるを得ないことが多い。しかし、少数の会貞で、会費の金額に見合う資料を作成することはほとんど不可能である。こうした機関が会員を増加させようとすると、団体会員だけでは限界があり、個人会員を増やすほかないことが多いが、その場合は調査研究機関としての機能を犠牲とすることになりがちである。
 組織維持が難しい第2の理由は、研究所が社会の変化に対応しきれなくなることである。労働問題のように社会との関わりの深いものほど、その変化によって影響を強く受ける。とくに社会的、政治的な要請に実践的に応えることを目的としてつくられた研究機関ほど、社会の変化によって大きな影響を受けがちである。そうした事例は枚挙にいとまがない。戦前期に創立された研究所でも、アカデミズム志向の大原社会問題研究所が何とか生き残り、労働運動や共産主義運動と密接な関連をもってつくられた産業労働調査所や労使協調の促進を目的とした協調会は消滅せざるをえなかった。あるいは、戦時中に国策にそって創設された研究所である東亜研究所は、政治経済研究所としていまなお存続しているとはいえ、昔日の面影はない。一方、東方文化学院京都研究所は、京都大学人文科学研究所となって発展している。これも、前者は現実政治と直接かかわる問題を追求したのに対し、後者は『東洋学文献類目』の編纂や雲岡の学術調査といった、より学術的な色彩の強い基礎研究をおこなっていたという、その性格の違いを無視できない。
 第3の理由は人の問題である。たとえば、創設者が健在な間は存続しても、その創設者がいなくなると消滅、あるいは縮小せざるをえなくなるケースは少なくない。研究所が、特定の個人の財力や政治力 あるいはスポンサー団体の役員との縁故などによって創立・維持されている事例が少なくないが、そうした場合は、その個人の死去や引退がそのまま機関の運命にかかわりかねないのである。大原社会問題研究所や労働科学研究所が存続しえたのも、孫三郎が健在な間に独立したからであった、といえなくはない。彼が死去したのは戦時中のことであったが、もしそれまで両研究所が大原家の経営であったなら、果たして存続しえたであろうか。
 最近の日本の労働関係研究所の特徴は、調査研究を主とする機関が圧倒的に増えたことであろう。いまは〈調査ブーム〉とか〈調査洪水時代〉であるといわれている。こうした傾向をうんだのは、都立労働研究所や雇用職業総合研究所といった研究職関をはじめ、多数の調査研究職関の存在によるところ大であることは、すでに見たところである。
 1970年代以降、調査研究だけでなく、シンクタンクをめざす研究所が増えている。シンクタンク=政策指向型研究所である。要するに、国や地方自治体、労働組合、企業など、何らかの政策実行主体の要請によって、政策提言、あるいはその前提としての実態調査などをおこなう研究所である。労働関係の場合には、特定の政策実行主体と財政的にも組織的にも密接なかかわりをもつものが、まだ数は多くはないが、増加傾向にある。たとえば労働省と日本労働研究機構、連合と連合総研、全労連と労働総研などである。労働組合の地域的な連合組織で、独自のシンクタンクをもちたいと考えている事例は少なくないようである。 また、自治体や企業から個別の政策課題について調査研究を依頼され、それに答えることを業務とする研究所もある。数の上からすれば、この方が特定の政策実行主体と関連する機関より、はるかに多い。ただ、実際には政策提言までいかず、調査だけ、あるいは調査を主とする〈シンクタンク〉が少なくないように見える。
 その一方で、大学付置の労働関係研究所は全体に振るわない。国立大学の付置研究所で唯一労働を専門としていた九州大学産業労働研究所は、消滅してしまった。私立大学の付置研究所の多くは、労働問題研究の比重を低めている。
 日本の研究所は、研究を主目的とし教育機関としてはほとんど機能していない。もちろん、都立労働研究所の事例でみたように、若手研究者を調査に参加させることなどを通じて、いわばOJTによる訓練機能は果たしている。しかしそれはあくまで副次的なものにすぎない。大学の付置研究所でさえ次世代の研究者を育てることを目的としていないのである。これは欧米の大学付置研究所の主たる機能のひとつが大学院教育と密接に結びついていることと大きな違いがある。若い研究者が生まれることなしに学問の進歩はない。大学の付置研究所は、この点についてもっと積極的にとりくむ必要があろう。
 維持存続の困難を別にして、日本の研究所全体に通ずる大きな問題は、専門職としての研究補助スタッフの不在、あるいは弱体である。〈補助スタッフ〉という言い方はかならずしも正確ではない。たとえば、患者の治療において看護婦や薬剤師は医師の〈補助スタッフ〉というより〈共同作業者〉である。医者だけいれば医療が可能であるわけではない。それと同様に、研究者は、図書館や資料館を支える人びとの存在なしに仕事はできない。研究所が研究活動をおこなう上では、図書館・資料館としての活動をささえる司書、アーキヴイストをはじめ、社会調査などには調査マネージャー、コンピュータを使って仕事をする場合にはプログラマーやオペレーターなど、体系的な知識や長年の経験を必要とする専門職の存在が不可欠である。しかし、日本の研究所では、そうした専門職の役割が十分認識されていないように思われる。多くの研究所で、こうした仕事をする人びとは、専門職として処遇されず、一般職として処遇されている。看護婦や薬剤師と違い、国家試験による資格を必要としないためでもあろうが、研究者や研究所管理者の側で仕事の専門性についての認識が弱いからであろう。これは日本のホワイトカラーの職場全体に共通する問題だが、ようやくある仕事に習熟しはじめたと思う間もなくほかの職場に異動させてしまう。これはとくに公立研究所にその傾向が強いように見えるが、大学研究所でも同様のところは少なくない。むしろこの点では、小規模な財団法人の方が、異動させようがないため、OJTですぐれた専門性を身につけた人をみかける。
 ここで考えたいのは、研究所が研究所であるのはいかなる点にあるのかということである。おそらくひとつの答は、研究所はある目的のために複数の研究者を集め研究させる場である、というにあろう。しかし、これだけであれば何も研究所である必要はない。自発的に研究者が集まり、なんらかの研究助成金をえて調査や共同研究をおこなうことができる。現にそうした事例は無数にあり、その方が研究組織としてはメリットがある。氏原正治郎が東大社研退職時の座談会でつぎのように語っているのは、この点にかかわっている。

 「労働問題調査研究会の苦い経験から得た一つの教訓は、永続的な研究会という組織を作ると、どうしても固定したグループができ、閉鎖的になり、グループのメンバーは、乗り気でもないのに、調査を強制されることになり、調査の能率からいっても悪く、人間関係からいっても、好ましくないことが起きる。そこで、第一に、調査を実施する場合には、プロジェクトごとに、関心と熱意を持った少数グループで行い、プロジェクトが終われば解散することにしました。こういうことで、専攻も違い、理論的な傾向も違うたくさんの人達と共同研究ができ、理論の面でも調査方法の面でも、文献の面でも、非常に広い勉強ができました」。

 では、研究所は、こうしたプロジェクト方式の研究者の自発的な共同研究とは、どこが違うのであろうか。それは、研究所は何らかの物的な研究基盤を備えているところであろう。自然科学系の研究所であれば、それは主として実験設備とそれを操作する人びとである。社会科学系の研究所の物的な基盤といえば図書や資料であり、そうした文献を収集・整理して、すぐに利用可能な状皆に整備しておき、調査研究に際して研究者とそうした専門スタッフとの共同作業が可能なシステムが存在することであろう。
 要するに研究所の重要な機能は、個人研究、集団研究をとわず、研究者へのサービス提供にあるといってよい。もちろん、そのサービス機能は研究所員に対するものだけではない。学界や社会へのサービスも要求されている。図書館・文書館などは、その研究所の研究員だけでなく広く一般に公開されるべきであろう。あるいは、文献目録の作成、年鑑の刊行、資料集の編纂、復刻、年表の編纂、データベースの作成や利用サービスなども、広い意味での研究者へのサービス機能である。こうした事業、とくに文献目録、年鑑のように継続性が重要なものは、研究所のもっとも得意とする分野であろう。文献目録などは図書館でも可能であるが、新たな文献をフォローするのは、図書館よりも研究者がいる研究所に向いているからである。
 研究所には、司書やアーキヴイスト、さらに今日ではデータベースを構築する専門職、調査をスムースに進行させるマネージャーといった人びとの存在が不可欠であることを強調したのは、こうした人びとこそ研究所の主要な機能をささえているからである。

【文 献】

  • 上野一郎『産業能率大学のあゆみ』産業能率大学、1980年
  • 運動史研究会『運動史研究』第2号、三一事房、1978年
  • 江口英一縮『日本社会調査の水脈──そのパイオニアたちを求めて』法律文化社、1990年
  • 大河内一男『社会政策四十年』東京大学出版会、1970年
  • 大阪地方労働運動史編纂会『大阪地方労働運動史年表』1957年
  • OECD調査団『日本の社会科学を批判する』講談社学術文庫、1980年
  • 階和会『協調会史──協調会三十年の歩み』1965年
  • 川合隆男編著『近代日本社会調査史』(U)慶応通信、1992年
  • 協調会『最近の社会運動』1929年
  • 京都大学人文科学研究所『人文科学研究所五十年史』1979年
  • 「近畿大学労働問題研究所小史」『労働問題研究』第31号、1990年
  • 公共企業体等労働問題研究センター『公企労センターのあゆみ』1972年
  • 公共企業体等労働問題研究センター『公企労センターのあゆみ』1987年
  • 高年鈴者雇用開発協会『lO年のあゆみ』1988年
  • 雇用職業総合研究所『職研・20年のあゆみ』1989年
  • 雇用職業総合研究所『雇用職業総合研究所研究成果』1989年
  • 雇用職業総合研究所『雇用職業総合研究所年表』1989年
  • 産業能率短期大学編『上野陽一伝』産業能率短期大学出版部、1967年
  • 産業労働調査所『産業労働調査所の歩み』1988年
  • 政治経済研究所『政経研究』第21号、政治経済研究所創立30周年記念号、1976年11月
  • 職業研究所『5年のあゆみ』1974年
  • 下田平裕身・八幡成美・今野浩一郎・中村章・川喜多喬・仁田道夫・伊藤実・中村圭介・佐藤博樹『労働調査論──フィールドから学ぶ』 日本労働協会、1989年
  • 総合研究開発機構『シンクタンク年報』1983一飢、1985ー86、1988〜90年
  • 柘植秀臣『東亜研究所と私──戦中知識人の証言』勁草書房、1979年
  • 暉崚義等『産業と人間』理想社、1940年
  • 東京大学新聞研究所『日本のシンクタンク』1985年
  • 東京都立労働研究所『労働研究所報』No.1〜12、1980〜1991
  • 中楯興「産業労働研究所小史」『九州大学定業労働研究所報』第73号、1979年3月
  • 日本学術振興会『研究所要覧』(『学術月報』増刊号、第283号;1970年3月、第332号;1973年3月、第367号;1976年3月、第389号;1977年3月)
  • 日本学術振興会『大学研究所要覧』1987年版、1990年版
  • 日本学術振興会『学術月報』第457号、公・私立大学研究所要覧、1983年4月
  • 日本労働協会『日本労働協会事業年報』昭和33年度〜39年度
  • 日本労働協会『日本労働協会事業年次報告』昭和40年度〜63年度
  • 日本労働協会・日本労働研究機構「主要研究機関の研究動向と成果」『日本労働協会雑誌』・『日本労働研究雑誌』1985年以降の毎年3月号または2・3月合併号
  • 『日本労働協会の在り方に関する研究会報告書』19日日年
  • 日本労働研究機構『日本労働研究機構事業年次報告』平成元年度〜2年度
  • 日本労働研究機構『JILリサーチ』第1号、1990年3月
  • 野坂参三『風雪のあゆみ』(5)(6)、新日本出版社、1981年、1982年
  • 兵庫県労働運動史編さん委員会『兵庫県労働運動史 戦後1』兵庫県、1983年
  • 法政大学大原社会問題研究所『大原社会問題研究所五十年史』1970年
  • 法政大学大原社会問題研究所『大原社会問題研究所雑誌』第363・364合併号〈特集・大原社会問題研究所の歴史と現状〉、1989年3月
  • 北海道労働部『資料北海道労働運動史』第1集〜第3集、1953年、1959年、1964年
  • 三浦豊彦『労働と健康の歴史』第3巻、労働科学研究所出版部、1980年
  • 三浦豊彦『暉峻義等』リブロポート、1991年
  • 三菱総合研究所『三菱総合研究所十年史』1982年
  • 百瀬好若『研究体制論』内田老鶴園、1961年
  • 森戸辰男『科学研究所論』栗田書店、1939年
  • 吉田千代『評伝鈴木文治』日本経済評論社、1988年
  • 労働運動史研究会『労働運動史研究』第27号、特集「産業労働調査所と野呂栄太郎」、日本評論新社、1961年9月
  • 労働科学研究所(三浦豊彦執筆)『労働科学研究所60年史話』1981年
  • 労働調査研究会『戦後日本の労働調査』東京大学出版会、1970年
  • 労働調査研究所『労働調査時報』第801号、労働調査研究所創立30周年記念特集、1990年7月


初出は『大原社会問題研究所雑誌』第400号、1992年4月。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://oisr.org/nk/)
E-mail:nk@oisr.org

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