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大原社研こぼれ話(3)





河上肇と大原孫三郎(2)


 河上肇

 前回に続き,大原孫三郎と河上肇の関係について紹介したい。ただし,今回は河上の側が大原をどう見たかである。これについては河上自身の証言が,彼が〈生前の遺著第三〉と名付けた『河上肇より櫛田民蔵に送りたる書簡集』に記されている。河上肇60歳,出獄後に20年前を回想したもので,史実の細部を正確に伝えているかどうかは疑問がある。
 しかし,河上の「大金持ち何するものぞ」という気概はうかがえ,さぞ困惑したであろう孫三郎の表情を想像しながら読むと,じつに面白い。この並はずれた二人の出会いにはドラマ──いくらか喜劇的ではあるが──がある。
 余分なコメントは抜きに,引用しよう。



 「私が河田,米田両君と初めて大原氏に会ったのは,京都帝大の構内にあつた学生集会所の一室であつた。私たちはそこで大原氏に拙い洋食を馳走して一応彼の話を聴いた。大原氏は私達をどこかに呼んで馳走する積りであつたらしが,負惜しみの強い私は,話が聞きたいと云ふのなら先方から遣つて来たら可からう,金持ちの御馳走になるなどは嫌だ,食事は吾々の方で受け持たう,と頑張つて,学生達の食べるまづい洋食を共にとにしながら,私は初めて大原氏から大体の話を聞いたのであつた。
 当時〔中略〕私はまだマルクス主義に対して十分の理解と確信を有つことは出来ないで居たが,しかし少なくとも社会主義思想の普及宣伝に対しては已に旺盛な熱意を抱いてゐたものだから,私は大原氏の提案に無関心であることは出来なかった。物になりさうなら,私は此の際,この金持の資金を利用してみたいものだと考へた。勿論これは私ひとりの野心であるから,その翌日には,私は単独に大原氏に会見を求めた。もう一度,今度は自分一人で話がしてみたいからと云つて,私は大学の私の研究室まで大原氏に来て貰つた。
 その時私はかういふ意味の話をした積りである。──私達は大学の方で月給を貰つて居るのだから,何もあなたに月々の手当など出して貰はなくとも,社会問題の研究なら自分の方で已にやつてゐる。それに社会問題の根本的な解決法なら,今更研究などしなくとも,私の方ではもう之までの研究で確信が出来てゐる。勿論細かいことについては研究を必要とする問題が限りなくあるが,しかし現在の日本に於ける急務は,社会問題解決のための根本策に関する理解の普及,即ち社会主義思想の普及である。此の事の為めにならば,私は決して労を吝むものではない。もしあなたが本当に社会問題解決のため出来るだけの貢献をしたいと云ふ考なら,一つ一緒に仕事を遣りませう。あなたの方には金があるのだから,その金をお出しなさい。私の方は及ばずながら今日まで学問をして来たのだから,その学問を提供しませう。しかしそれに対して私の方では一文でも報酬を貰はうとは思はない。つまりあなたは資金を提供し,私は労力を提供すると云ふことで,一緒に共同事業を起さうと云ふ話であれば,私は喜んで仕事を引受けるが,たヾ棄て扶持を貰つて金持の道楽仕事のお相伴をさせられるのなら,私は外に仕事があるから,お断りする外はない。  
 大体かう云つた意味のことを,私は極く真面目になつて話した。私のことだから話には何の懸引もない。謂はば腹の中を割つて,この篤志家らしく見える資本家の前へ,一切のものをさらけ出して見た。跡から考へると,当時の私の心持は,自分の社会改造案の実行を援助してくれる金持の現はれるのを毎日心待ちにしてゐたといふ,昔の有名なフランスの空想的社会主義者を聯想さすに足るものであつた。懸引のない談判は直に片がつく。思ふ存分のことを言つて了つてから,相手の迷惑そうな顔付を見た時,私はすぐに,こいつは駄目だなと思つた。意気の投合しないことは,昔し達磨大師が梁の武帝に会つた時の如くである。  
 金を出して有力な学者を自家のお客分に抱へて置きたいと云ふのが,篤志家らしく見える此の資本家の道楽なので,そのためには少々の無駄金は使つても惜しくないのだ,話はただそれだけのことなのだと云ふ風に,私は感じた。」

(二村 一夫)




初出は『大原社会問題研究所雑誌』第361号(1988年12月)








Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://oisr.org/nk/)
E-mail:nk@oisr.org

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