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戦前日本社会運動の足あと
−1930年代ポスターの背景−

梅田俊英


目 次

 
第一次世界大戦後の社会運動

 明治時代には社会主義運動も労働組合運動も展開されたが相次ぐ結社禁止、機関紙誌の発禁の中で運動はだんだん過激となり、一部の人の中で天皇暗殺計画が持ちあがった。それが1910年「大逆事件」とされて運動はいったんストップする。1912(大正1)年、統一基督教弘道会幹事であった鈴木文治らにより15人の労働者らを集めて友愛会が結成された。こうして、大正期には労働組合運動はおだやかな再出発となった。「自覚と修養」を掲げた友愛会は、当時社会的地位の著しく低かった労働者に支持を受け、数年後には会員が1万8千人以上となり急速に発展をとげるのである。

 1918年夏、富山県の婦女による米の県外移出に反対した騒動をきっかけとして全国的に米騒動が発生した。米騒動は、青森、沖縄、岩手、秋田県以外のすべての府県ではげしく起こった。これは、政治に大きな影響を与えただけでなく、各階層の人々に大きな衝撃を与えた。この中で、労働組合運動、社会主義運動、農民運動、普通選挙運動、部落解放運動、女性解放運動、学生運動、国粋主義運動などさまざまな運動がスタートないし再スタートしていくのだ。

 1894年の日清戦争から日露戦争、第一次世界大戦と、当時の日本は10年ごとに戦争を体験した。この中で工業は著しく発展した。各地でさまざまな工場が建てられ、繊維工業を中心に輸出も活発となる。それにともなって、工場労働者数も増加した。こうして、第一次世界大戦後にはいわゆる「四大工業地帯」が形成されるのである。

 一方、農業では1881年から19世紀末まで続いたデフレ政策の中で農民層が分解し、全国の農地のうち半分が小作地となってしまった。その結果20世紀初頭には寄生地主制度が確立した。このなかで、農業生産は停滞してしまう。こうした工場の増加、小作地率の増加のなかで、第一次世界大戦後には労働争議や小作争議が全国的にはげしく展開されるようになるのである。

 米騒動の衝撃のさめやらぬ1918年12月、東京帝国大学法学部の学生を中心に新人会が結成された。ここに学生運動が成立する。19年、平塚らいてう、市川房枝らが婦人参政権などを要求して新婦人協会を結成した。友愛会は、1919年大日本労働総同盟友愛会、翌年には日本労働総同盟と名称を改め労働組合として脱皮していった。20年には第一回メーデーが開催されている。大逆事件以来なりをひそめていた社会主義者たちは徐々に活動を活発化していたが、20年末、日本社会主義同盟を結成した。その後秘密裏に日本共産党が結成されている。22年には、部落解放をめざして全国水平社が設立され、日本農民組合が「農は国の基であり、農民は国の宝である」(創立宣言)として結成された。

 以上のように、第一次世界大戦後には、さまざまな階層の人々の多様な社会運動がスタートした。そして、彼らは社会に向かってさまざまな主張をぶつける。その時、新聞・雑誌の刊行とならんで、ポスターやビラが有力なメディアとして使われるようになるのである。

普通選挙法[普選法]の成立

 1923年9月1日、関東大震災が起こった。死者・行方不明者14万人を出したこの大地震では大きな人災も引き起こされた。朝鮮人虐殺事件である。まったくのデマによる流言により数千人に被害が及んだ。亀戸では10人の社会主義者たちが殺害された。さらに、無政府主義者の大杉栄らが殺害される。

 このような人心動揺の中にあって、山本権兵衛首相は普選断行の方針を発表した。この普選断行声明に対応して、島中雄三、鈴木茂三郎(戦後、日本社会党委員長)らによって無産政党組織の準備のため、23年政治研究会が結成された。

 ところで、普通選挙運動は、明治以来息長く続けられてきている。1920年には全国的に運動は高まり、米騒動で成立した原敬内閣に期待はかかったが、「平民宰相」の原が普選を否定し、運動は一時衰退してしまった。そこへ山本内閣の普選方針が出されたのである。ところがそこへふって湧いて起こったのが虎の門事件だった。摂政宮(後の昭和天皇)が一青年によって狙撃されたのである。弾は当たらず、犯人はその場で逮捕された。この事件によって山本内閣は即日総辞職した。そのため普選法準備作業はいったん止まる。

 つづいて、枢密院議長をしていた清浦奎吾が貴族院議員を中心に組閣した。あまりに古色蒼然たる清浦内閣に対して第二次護憲運動が起こり、憲政会・政友会・革新倶楽部によって護憲三派が結成された。総選挙の結果、政府与党の政友本党が敗北し護憲三派が多数を占めた。そのため清浦内閣は総辞職し、憲政会総裁の加藤高明が組閣した。そして、1925年には加藤内閣によって普通選挙法が公布される。これまで選挙権は直接国税を3円以上(当時の米10kgくらいの値段)支払う25歳以上の男子だけに与えられたが、同法で納税資格が撤廃されたわけである。

無産政党の成立

 普選法にあわせて無産政党の組織が準備されていった。1925年12月に農民労働党が結党されるものの、当局はこれを即日禁止処分とした。背後に共産主義勢力がいるとの理由だった。そのため、翌年3月には左派勢力の人々を入れないで労働農民党が結党された。委員長には日本農民組合委員長、杉山元治郎が就任した。しかし、左派勢力は結党後、党の門戸開放を要求し労働農民党地方支部を結成していく。この中で、労働農民党幹部で右派の人々は党を脱退してしまう。そして、12月には社会民衆党を結成する。さらに、左派に批判的で、かといって右派の行動を好まなかった中間派により日本労農党が結成された。労働農民党は左派が握ることとなり、26年末には無産政党運動は、左派の労働農民党、中間派の日本労農党、右派の社会民衆党の三派に分裂してしまったのである。

労農運動の動向

 無産政党分裂と同時に労働組合運動も分裂してしまった。1925年、日本労働総同盟から左派が脱退して、日本労働組合評議会が結成された。さらに26年12月には日本労働組合同盟が結成され、日本労農党を支持した。労働組合も左右・中間派に分裂してしまったのである。評議会は結成後、過激社会運動取締法案反対運動や大争議の指導などにはげしい闘争を展開した。こうして、28年4月には結社禁止となった。同年12月には半ば非合法に日本労働組合全国協議会(全協)が結成されるものの34年には消滅した。

 中間派を支持した日本労働組合同盟は1929年労働組合全国同盟となり、36年には日本労働総同盟と合流し全日本労働総同盟を結成するが産業報国運動が起こる中で40年には解散した。

 中間派の日本労農党は1928年には日本大衆党、30年には全国大衆党、さらに翌年には全国労農大衆党となり、32年社会民衆党と合流して社会大衆党を結成した。そして、40年には解散したが、そのあとに大政翼賛会が結成され、すべての政党はなくなったのである。

 農民運動も分裂した。1926年には右派が日本農民組合から脱退して全日本農民組合同盟が結成された。ついで、27年には浅沼稲次郎、三宅正一らが中間派を支持して全日本農民組合を結成した。そのため日農は左翼化したが、28年には日農と全日本農民組合は合流して全国農民組合(全農)が結成された。地主による土地取り上げのために激化した小作争議のなかで、農民戦線の統一の要望が強くあったからである。その後、38年には大日本農民組合となるものの40年には解散した。

 1941年には太平洋戦争が勃発するが、それに先だって無産政党も労働組合も農民組合も存在しない時代が始まっていたのである。

第1回総選挙とポスター

 普選法が成立してもしばらくは総選挙が行われなかった。まず1926年には浜松市議会議員選挙、27年には府県会議員選挙が実施された。この法律で新たに1000万人(25歳以上の男性だけで、女性の選挙権は1945年になって初めて与えられた)が選挙権を得て、1300万人の有権者が誕生した。この1000万の新しい有権者の多数は小作農や貧しい労働者だった。彼らがどの程度無産政党に票を投じるか様子を見るために総選挙の実施が引き延ばされたのである。府県会選挙の結果、無産者が必ずしも無産政党に投票するとは限らないと分かり、28年2月衆議院総選挙が実施された。

 普選法に基づく第一回総選挙では電話による投票依頼、戸別訪問が禁止された。そのかわり、選挙ポスター掲示は比較的寛大であった。色こそ2色までと制限されたが、大きさは新聞見開き大までとされ、掲示場所は所有者の許可があればどこに貼ってもよかった。そのため、選挙運動はポスター大合戦となり、一候補平均3万枚ものポスターが街角の塀や電柱に所狭しとベタベタと貼られたのである。

 投票の結果、無産政党には約50万票が投じられ、8人の無産政党の候補者が当選した。社会民衆党4、労働農民党2、日本労農党1、九州民憲党1であった。

プロレタリア文化運動

 第一次世界大戦後には、知識人、芸術家も社会運動に参加した。こうして成立した運動がプロレタリア文化運動である。この運動は1921年の『種蒔く人』創刊をもって出発したとされる。同誌は、フランスの文学者アンリ・バルビュスの平和運動に参加して帰国した小牧近江が秋田県土崎で友人とともに創刊したものである。その後東京に進出し同誌は再刊される。秋田雨雀や有島武郎ら進歩的な文学者や思想家の協力を得て、「革命の真理を擁護する」と宣言した。24年種蒔き社の人々によって『文芸戦線』が創刊された。

 以後運動は本格化し、1925年には日本プロレタリア文芸連盟が結成されるのである。この団体に次第にマルクス主義の影響が及ぶようになり、26年には日本プロレタリア芸術連盟が結成された。さらに、28年にはプロ芸は蔵原惟人らの前衛芸術家同盟と合流して全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成された。当初ナップには文学部、演劇部、美術部、音楽部、映画部、出版部の6専門部があったが、29年にはそれぞれが独立することとなった。そして、プロレタリア文学同盟、プロレタリア劇場同盟、プロレタリア美術家同盟以下5つの同盟が結成された。出版部は戦旗社となる。戦旗社が刊行した雑誌『戦旗』は、新宿紀伊国屋書店には「発禁前の『戦旗』を買う人たちの行列がつづき、すぐに売り切れた」といわれるくらい読者が多かった。

 1931年、プロレタリア文化団体の総結集をねらいとして、日本プロレタリア文化連盟(コップ)が結成された。作家同盟や、小川信一、三木清らによって29年設立された民間学術研究団体のプロレタリア科学研究所(所長・秋田雨雀)など11の団体が加わり、大衆との結合がはかられたが、しだいに急進化し警察に検挙されるものが増えて34年には解散した。

美術運動と演劇運動

 ここで、美術と演劇の動向を取り上げよう。この分野に参加した人々が旺盛にポスターを作成したからである。

 20世紀芸術の世界的動向は、確実に日本にも影響が及んでいた。それがフォービズムであり、ゴッホやゴーガンらの後期印象派、あるいはロシアに起こった造形運動の構成主義であった。これらの中に、萬鉄五郎、岸田劉生、柳瀬正夢、村山知義らがいた。彼らの中から前衛芸術運動としての美術運動、演劇運動が生まれるのである。1924年村山、柳瀬などにより三科会が結成され、翌年には築地小劇場で「劇場の三科」という前衛劇が開催された。これはダダイズムの頂点となったものである。ところが、20年代後半になると、彼らはしだいにリアリズムに向かうようになる。こうして彼らはプロレタリア文化運動に接近するのである。

 柳瀬正夢(1900−1945)は、『種蒔く人』同人となり、25年には『無産者新聞』(非合法日本共産党の合法機関紙)の専属画家となった。そして、旺盛に『無産者新聞』購読のためのポスターや雑誌の表紙を描き始める。村山知義(1901−1977)は、1923年構成主義をひっさげてドイツから帰国した。そして、前衛美術・前衛劇の旗手となる。その後、マルクス主義に接近し、リアリズムに向かい26年には柳瀬とともにプロ芸に入会するのである。村山もプロレタリア演劇などのポスターを盛んに描いた。

 さて、ナップ再編成後創立された前述のプロレタリア劇場同盟は、東京左翼劇場(村山知義)や大阪の劇団、戦旗座などの団体が集まって創立された。コップ結成とともに劇場同盟はプロレタリア演劇同盟と改称した。これには左翼劇場のほか、新築地劇団、前衛座その他の劇団が加盟した。

 左翼的な傾向を持った劇団は、プロレタリア文化運動の発展とともに全国に多数結成されていた。東京で活躍した左翼劇団の動向を述べよう。前述の日本プロレタリア文芸連盟の演劇部にトランク劇場があった。これが1926年12月には前衛座と改称する。それが27年にはプロレタリア劇場と前衛劇場とに分裂する。しかし、翌年には合同して東京左翼劇場(左翼劇場)となる。34年左翼運動検挙がつづくなかで中央劇場(村山知義)と改称され、新劇運動に転身していく。同年9月「新劇の合同」をはかって新築地劇団の一部、美術座などを集めて、新協劇団が設立された。

 一方、1924年には土方与志が師匠の小山内薫と相談して築地小劇場が設立された(劇場名と劇団名は同じ)。小山内の死後、土方は29年新築地劇団を設立しプロレタリア演劇運動を推進した。そして、40年新協劇団とともに解散を命ぜられた。しかし、この新劇運動のなかからは、滝沢修、宇野重吉、杉村春子ら戦後活躍する名優が数多く生まれたのである。

社会問題解決をめざして

 第一次世界大戦後の高揚する労働争議、小作争議などに対応して、政府もその解決に乗り出す。1920年には内務省に社会局が設置された。工場法改正や健康保険法を実施したり、労働関係立法制定による労使協調をめざした。前年には原内閣の内相床次竹二郎が発案して財団法人協調会が結成されている。協調会は政財界の寄付金を資金として調査研究のほか、争議の仲裁・調停活動に取り組んだ。協調会は、労働組合法制定をめざしていた。おりから増加していた労働争議、小作争議が、組合が存在しないために争議が激化して暴力沙汰もまま発生していたからであった。例えば、零細工場の労働者全員解雇となると労使は泥沼の紛争となるのだった。それで、従業員たちは使用者側を「殺人鬼」「吸血鬼」呼ばわりをしたポスターやステッカーを街に貼りだしたのである。そこで協調会は、産業平和のため労働組合法を制定して組合を通じて労使が交渉の場につくようにと考えていたのだ。しかし、ついに戦前には労働組合法は成立しなかった。

 1925年には内務省社会局の外郭団体として産業福利協会が設立されている。おりから増加していた労働災害を防止するのが目的の団体である。同協会は、29年には財団法人となり、36年3月に解散して協調会の産業福利部となる。

 産業福利協会は、1926年から災害防止用のポスターの一般公募を開始している。36年の解散までに100回行われたということなので、10年間にわたってほぼ毎月公募が行われていたということになる。このポスターの標語には、「火の用心」「健康増進」「暴飲暴食注意」から始まって、機械に巻き込まれないように「乱髪注意」「安全は能率」というような労働災害防止標語まである。1930年代以後、商業ポスターだけでなく、普選ポスターと相まって、さまざまな公共ポスターが工場内や街中に貼られる時代がやってきたのである。

 これらの「公共ポスター」は、戦争が近づくと国策を訴えるポスターとなっていく。しかし、戦争が終わって平和国家になると、ポスターは再び交通安全や火の用心を訴え、国民の保健衛生を保護していく重要な機能を果たすようになるのである。

             
 (うめだ・としひで/法政大学大原社会問題研究所研究員)
 
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