大正八年に創立された大原社會問題研究所は昭和二十四年に至つて從來の財團法人としての生涯を閉じると同時に法政大學大原社會問題研究所として再生することになつた。あたかも創立三十周年に當る。わたくしは、この機會に一應從來の所史を編纂する義務あることを感じ、法政大學内における所の再建の目鼻が大體ついた二十五年からその準備にとりかかり、先ず編纂の實務の擔當を大島清君に依頼して快諾をえた。次は資料の蒐集であるが、その最大の寶庫は故高野所長の日記であることが明らかであつた。そこで先ず、毎週一回大島君の來宅を乞い、日記中の研究所關係の部分を抜き讀みしてメモをとつてもらい、それに關連してわたくしが想起しうるかぎりの當時の事情を話すというやり方で仕事を進めた。ただ遣憾にたえないことは、この日記の昭和十五年以降の部分が行衛不明で、その前年度分までしか利用できなかつたことである。この仕事は二十五年五月十七日から始めて、時々中斷したが、二十七年一月二十八日に及んだ。十五年から二十年に至る間は高野日記に代りうる如き資料が全然なく、主としてわたくしの記憶に残つている主要な事件について、記録の徴すべきものがあれば記録により、ただしうる關係者があれば關係者にただして、事實を確かめるほかはなかつた。二十一年からは、事實上もつぱらわたくしが所の運營の掌に當らねばならなくなつたので、その必要から、少くとも所の特別の出來事は記録することにつとめてきたので、これが役立つた。なお所の前史については柿原政一郎氏の手稿、大阪時代については當時の庶務會計主任鷹津繁義氏の事務日誌が貴重な材料を提供した。その他になお大島君は多くの資料を渉獵して記事の正確を期することに努力されたが、それらの文献は巻末に掲げられている。
このような準備の後に起稿された同君の原稿は去る三月初旬に完成し、直ちに印刷所に廻された。わたくしは校正刷ではじめて通讀したのであるが、わが研究所三十年の事績を傳える上において恐らく大過なきものと思われ、この人をえて、わたくしの所に負う責任の一端をはたしえたことを喜んだのである。わたくしは、これによつて多くの人々が所の事績についての正しい知識をもたれることを期待すると共に、わたくしを除いてすべて戦後に入所した現在の所員諸君が、先輩諸氏の如何なる努力によつて諸君の研究所がつくりあげられたかを知り、今後の活動に資せられることを望むものである。
昭和二十九年三月二十三日
久留間 鮫造
法政大学大原社会問題研究所五十年史
発行 1970年11月
編・発行法政大学大原社会問題研究所